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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 五章 濃尾参州燃ゆ
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信長の兄たち

 ――織田信秀の急行軍、参州さんしゅう(三河)に迫る。


 その報せを織田宗伝(そうでん)からの密書で知った雪斎は、「どうやら、信秀のことを少々見くびりすぎていたようだ。まさか、我らの策が見破られるとは……」と呟いた。いつも冷静沈着な雪斎にしては珍しく、その顔には焦りの色が浮かんでいる。


(信秀の虚をいて西三河の諸城を落とし、織田家庶子・信広を捕縛する計画が狂ってしまった。信秀の本軍と雌雄を決する覚悟をせねばならぬ。一万を超える大軍を指揮するのは初めてゆえ、いきなり強敵の信秀とは直接対決をしたくなかったのだが……)


 宗伝も信秀の予想外な行動によほど驚いたらしく、その筆は学識のある僧侶とは思えぬほど乱れていた。

 彼は信秀から「明日、美濃へ出陣する」と告げられ、兄の織田寛近(とおちか)(寛近のおきな)がいる犬山城へ向かおうとしたらしい。しかし、その道中――といっても半日も経たぬうちに――信秀が美濃ではなく三河へ進軍したという情報を耳にして、慌てて雪斎に密書を送ったのだった。


「宗伝が我らと内通していることがばれたのであろうか」


 副大将の朝比奈あさひな泰能やすよしがそう言うと、雪斎は「いえ、それはないでしょう」と頭を振った。


「短気な信秀がその事実を知っていたら、宗伝は即刻殺害されているはず。恐らく、宗伝に美濃への出陣を告げた直後に、信秀は我らの思惑に気づいて軍を反転させたのです。宗伝が美濃攻め中止の事実を知ったのも、後から追いかけて来た信秀の家来から聞かされたとこの密書にも書いてありますゆえ、信秀は宗伝をまだ疑ってはいないはずです」


「そうか、それはよかったわい」


「泰能殿。『よかったわい』などと呑気なことを申しておる場合ではありませんぞ。短気な信秀が我らの謀略に気づき、激怒して軍を動かせば、まさに疾風迅雷。恐るべき行軍速度で東進してくるのは必定ひつじょうです。今日あたりには鳴海なるみ城の山口やまぐち教継のりつぐ国境くにざかいの諸将たちと合流していることでしょう。そして、明日には三河国に入るはず……。我らも東三河でぼんやりしているわけにはいきませぬ」


「うむ、そうじゃな。信秀の本軍が現れたことで奴の庶子をとりこにするという作戦がやりにくくなったが、致し方ない。いざ参ろう」


 かくして、雪斎と泰能は今川軍一万を西進させた。




            *   *   *




 信秀の電光石火の東進に驚いたのは今川軍だけではない。

 三河国の織田方の最前線である安祥あんじょう城の城主・織田三郎五郎(さぶろうごろう)信広のぶひろ(信秀の長男)も大いに困惑していた。


「ち……父上はいったい何をお考えなのだ? てっきり美濃攻めに向かわれると思っていたのに、何故なにゆえにわかに三河に進軍なされたのだ」


「兄上、大将がそんなにも取り乱さないでください。早馬で届いた父上の書状に『今川が西三河への侵攻を企み、軍勢を西進させているゆえ警戒を怠るな』と書いてあるではありませぬか。父上は今川義元の謀略に気づき、美濃に向かうはずだった軍を反転させて救援に駆けつけてくださるのです」


 甲冑姿の信広は落ち着きなく居室内をぐるぐる歩き回っている。同腹弟の織田安房守(あわのかみ)秀俊ひでとし(信秀の次男)が冷静沈着な声でいさめても、「しかし……しかしだな。あまりにも急過ぎて心の準備が……」と信広の動揺はおさまらなかった。


 織田軍と今川軍が三河で激突すれば、織田方の最前線の城を守っている信広が先鋒隊を率いさせられる可能性が極めて高い。いくさの指揮があまり得意ではない信広にしてみたら、「なんでいきなり俺の城の近くで戦を始めるんだよ」と父の信秀と敵の義元に文句が言いたかった。


「兄上がお困りだと思ったから、同腹弟である私が手勢を率いて織田本軍よりも先に応援に来たのです。たとえ父上の軍勢が間に合わなくても、我ら兄弟で力を合わせてこの城を今川軍から守りぬきましょう」


「ぶ……ぶっちょ……物騒なことを言うな! 俺たち二人で今川軍と戦えるもにょか!」


 信広は震え上がり、つばを飛ばしながらわめいた。戦を前にしてそうとう緊張しているらしく、言葉が噛み噛みである。安房守は、信広の醜態にすっかり呆れてしまい、ハァ……とため息をついた。


「兄上……。そのような無様ぶざまな姿を弟の信長殿に見られたら、笑われまするぞ」


「信長、じゃと?」


 ここ数年顔を合わせていない弟の名を耳にした信広は、途端にムッとした顔つきになった。


「あいつが何だというのだ! 初陣でぼろ負けしたくせに! 正室が産んだ嫡男というだけでふんぞり返っている、ただの生意気なガキではないか!」


 ドスンと荒々しく座りながら、安房守にそう吠えたてる。容赦なく飛んでくる信広の唾を避けるため、安房守は顔を斜めに傾けた。


「そのような無礼な物言いはお控えなされよ。信長殿は私たちの弟だが、行く行くは織田弾正忠家の棟梁となるお方なのですぞ」


「だが、あいつばかりが父上に目をかけられているのが俺は気に食わぬのだ」


「信長殿は世継ぎなのだから、当然のことでしょう。……それに、側室の子である私たちも、幼い頃は父上にいつくしんでもらったではありませぬか」


 安房守が昔のことを口にすると、信広は幼少期の記憶をたどるように少し遠い目をして「ああ……。そんな時期もたしかにあったな」と小さく呟いた。


「父上も、息子が俺とお前だけだった頃は、俺たちのことをずいぶんと可愛がってくださったものだ。

 しかし、信長が生まれてからは一変した。一に信長、二に信長……。立派な世継ぎに育て上げるため、父上は信長の教育ばかりに執着するようになってしまった。庶子である俺たちに対する父上の愛情は明らかに薄まった。

 いや……優秀なお前はまだいいほうさ。朝廷からたまわった安房守という官職を父上から授かったのだからな。

 それに比べて、俺は父上の長男だというのに、こんな最前線に送られて毎日苦労しておる。父上も俺が戦下手だと分かっておるだろうに……。

 きっと、三河国を織田弾正忠家が支配するその象徴としてこの俺を安祥城にとどめおいているのだ。父上の子供たちの中で一番可愛がられていないのは、長男の俺なのだよ。…………俺は可哀想な男だ」


(やれやれ。また兄上のいじけ癖が始まったぞ)


 信広は子供の頃からやや被害妄想に陥りやすい傾向がある。自分があまり優秀ではないと自覚もしているため、「こんな俺なんて、父上が愛してくれているはずがない」と思い込んでいた。


 あまりにもいじけすぎるため、子供の時分には同じく側室の子であるくら(・・)姫に「辛気臭いわねぇ、あなた!」と怒られ、お転婆てんばな彼女によく蹴り倒されていたものである。


 安房守としては、同じ母親の腹の中で育ったただ一人の兄弟・信広にはもっとしっかりしていてもらいたい。拗ねた幼子おさなごが駄々をこねるような言動はそろそろ卒業して欲しい、と切実に思っていた。だから、


「長男である兄上のことを信用しているからこそ、父上はこの重要な城の守りを兄上に任せているのではないですか。戦を前にしていつまでも女々しいことをグチグチと言っているのならば、私は安祥城から去りまするぞ」


 と、少し強めの口調で兄を叱った。


「お、おい……。兄の俺を見捨てる気か?」


 弟に怒られて、信広は情けない声でそう言った。今にも泣き出しそうな、なんとも弱気な顔である。


「……見捨てませんから泣かないでください。本当に私が兄上を置き去りにして城を出ていくわけがないでしょう。我ら兄弟、今わのきわの母上に誓ったではありませぬか。互いに助け合い、この乱世を生き抜くと。

 兄上は、軍略がからっきしでも武術の腕はそんなに悪くないのですから、もっとおのれに自信を持ってください。兄上に足りぬ智謀は私が補いますゆえ」


 安房守は信広の肩にそっと手を置き、励ました。信広は鼻水をじゅるるとすすり、「う、うむ……」とうなずく。


「弟よ、弱気を申してすまぬ。共に力を合わせて戦おう」


「その意気です、兄上。私も死力を尽くして戦います」


 ようやく戦う覚悟を決めてくれたかぁ……と安房守は内心ホッとしつつ、兄に微笑みかけた。




 太田牛一の『信長公記』には、信長の二人の兄についてこう記されている。


 ――織田三郎五郎(信広)殿と申すは、信長公の御腹おはらかわりの御舎兄ごしゃけいなり。その弟に安房守と申し候いて、利口なる人あり。


 織田信秀の正室の子である信長、信勝。

 そして、二人の庶子――三郎五郎信広と安房守秀俊。


 信秀死後の骨肉の争いで中心人物となる兄弟四人が、ようやく物語に出そろった。

<信秀の次男・織田安房守秀俊について>

従来は信秀の六男(信長の弟)とされてきましたが、今作品では谷口克広氏の次男説(信長の兄)を採用しました。

ちなみに、信長の大叔父・織田秀敏も名前が「ヒデトシ」なので、微妙にややこしい……(^_^;)

なので、作中ではなるべく官職名の「安房守」で呼び、織田秀敏と区別したいと思います(^^ゞ

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