裏の裏
一方、尾張国の古渡城では――。
信秀は、軍資金を献上するために参上した熱田の加藤全朔(熱田加藤家の分家、西加藤家の当主)を居室で引見していた。
側に控えていた林秀貞と織田宗伝を交え、しばし歓談した後。全朔は改まったような様子で「実は……信秀様のお耳に入れたい気になることがありまして」と切り出した。
「ほう、何かな?」
信秀が身を乗り出して全朔の話を聞こうとしたちょうどその時、平手政秀が慌てた様子で室内に入って来て「申し上げまする」と言った。
「殿。北条家からのご使者がたった今お見えになりましたぞ」
「おお! やっとか! ずいぶんと待たせおって!」
「客間にてお待ちいただいております。広間にお通しして面会を――」
「いや、こっちから行く!」
信秀は、待ちに待っていた北条家の使者が来たと聞くと、弾けたように立ち上がった。
「あっ、信秀様……」
「全朔殿! そなたの話は後で聞く!」
信秀はウワッと居室から庭に飛び降りた。そして、裸足のまま庭を突っ切り、使者が控えている客間に泥だらけの足で上がりこんだ。
林秀貞、平手政秀、織田宗伝、加藤全朔らは、信秀の思わぬ行動に驚きつつも、仕方なく自分たちも庭を横切って信秀の後を追った。草履を履くゆとりがなかったので、みんな裸足である。
よほど北条家からの同盟打診の返事を待ち望んでいたのだろう。普段からせっかちな信秀でも、今までしたことがないような奇行だった。
「おう、北条のご使者殿。遠路はるばる大儀でござる」
信秀は嬉々とした表情で笑い、使者に雑な挨拶をすると、北条氏康の書状をほとんどふんだくるように受け取った。
が、手紙を読み始めて間もなく、信秀の顔から笑みが次第に消えていった。最後の行まで読み終わった頃には、全身の血液が顔に凝集したかのような憤怒の赤ら顔になっていた。
「おのれ、北条氏康め! さんざん返事を先延ばししておきながら、このようなふざけた書状を送って来るとは!」
声を荒げてそう喚くと、信秀は「くそッ!」と書状を足元に叩きつけ、肩を怒らせながら客間を出て行った。呆然としている使者は無視である。
「殿! お待ちくだされ! ……林殿、使者殿の応対を頼む」
「え? あ、あい分かった」
平手政秀は書状を拾い、主君を追いかけた。政秀の後には織田宗伝と加藤全朔が続く。
宗伝は、兄である犬山城主・織田与十郎寛近(寛近の翁)と信秀の連絡役として、ここ数か月の間は犬山と古渡を忙しく往復していた。
「平手殿。氏康殿の書状にはなんと?」
宗伝がそうたずねると、政秀は手紙に目を通しながら「北条との同盟は不調に終わりもうした」と苦々しい表情で答えた。
北条氏康の返書には、
――近年和睦が成立した後も、今川家の当方への疑心は止まず、大変困っているのです。
と、書かれていた。
一見すると、今川家との仲が上手く修復できずに困っていると信秀に訴えているととらえることのできる内容だが、これは裏を返せば「北条としては今川となるべく争いたくない」という意思表示でもある。つまり、氏康は、
――今川家に敵意を持たれるような真似はしたくないから、織田家との軍事同盟は考えていない。
そう遠回しに言っているのである。
別に敵対する必要もない織田家を不必要に怒らせたくはないからこんな婉曲な断り方をしてきたのだろうが、短気な信秀はこういう奥歯に物が挟まったような言い方が一番嫌いだった。だから書状を投げ捨てるほど激昂したのだ。
「今川が我らの背後を突かぬための織田北条の同盟でしたのに……。これでは、うかうかと美濃には出兵できませぬな」
全朔入道が信秀の背に向かってそう言うと、信秀はピタッと立ち止まり、廊下を踏み抜かんばかりにダン、ダン! と激しく床板を足裏で蹴った。
「ええい! 蝮がかつてないほど弱っているというのに、なんということだ!」
信秀は蝮退治を諦めきれない。斎藤利政(道三)を攻めたくても今川義元の動きが気になるというジレンマが歯がゆく、その悔しがりようはまるで子供が駄々をこねるかのごとくだった。
そんな信秀の意を汲むかのように「美濃攻めは今しかありませぬぞ、信秀殿」と発言したのが、織田宗伝である。
「ここはもう、多少の危険は承知で出陣しましょう。斎藤利政と美濃の国衆たちの足並みが揃わぬ今の美濃国ならば、尾張と越前の両国が同時に総攻撃をかけたらあっという間に勝利をおさめることができるでしょう。駿河の今川が西三河に侵攻してきても、返す刀で今川軍を撃破すればよいだけのことではありませぬか」
以前から何度か書いているが、宗伝は今川軍と内通している。信秀が美濃攻めに向かうように誘導するべしと雪斎から指示も受けていた。ここで信秀に美濃攻めを諦めてもらったら困るのである。
だから、普段は戦に消極的なこの僧侶にしては大胆なことを言い、揺れ動く信秀の心を美濃攻めに傾けようとしたのだった。
「む、むむぅ……」
信秀の斎藤利政憎しの念は強い。前回の美濃攻めで死んだ弟・信康や青山与三右衛門ら重臣たちの敵討ちもしたい。
宗伝の励ましの言葉――いや、甘言は信秀を容易に惑わした。
「……たしかに、宗伝殿の言う通りだ。今の斎藤利政ならば大軍をもって力攻めすれば短期決戦で片がつくやも知れぬ。昨年の戸田氏攻めで疲弊している今川軍とて、大した兵力を温存してはいないだろう。駿河と遠江は、我が尾張国に比べたら動員できる兵の数が少ないからな……」
「はい。これは、逆に斎藤と今川の両雄を一気に屠る好機だと拙僧は思いまする。虎穴に入らざれば虎子を得ず、と申すではありませぬか。信秀殿、ここはためらわずに美濃へ出兵しましょう。拙僧も微力ながら兄・寛近とともに協力させていただきますぞ」
「よし……。北条からの返書が来るまではと軍勢を待機させていたが、もうジッとしている意味もなくなった。かくなるうえは、明日出陣するぞ。宗伝殿、急ぎ犬山城に戻り、このことを寛近の翁殿に報せてくれ」
「御意。しからば、これにて御免。次は美濃攻めの戦陣にてお会いしましょう」
宗伝はホッとした顔つきでそう言うと、そそくさと去っていった。
平手政秀は、遠ざかる宗伝の背中を胡散臭そうに見つめている。戦場に立ってもすぐにやられて逃げ回ることが多いあの坊主頭にしては、美濃攻めをためらう信秀様を励ますなどやけに積極的な……と違和感を抱いていたのである。
「……殿。やはり拙者は背中をがら空きにしたまま蝮退治に向かうのは不安です。今一度お考え直しください」
「だが、政秀よ。美濃の国衆が続々と織田家との内通を申し出てきている今こそ、利政を討つ千載一遇の好機ではないか。ここまで利政が弱体化し、国衆たちに背かれている状況はこれまで無かったことだぞ。
奴のことだ、この好機を逃してしまったら、悪辣な手腕で国内の混乱を鎮めてしまうに違いない。そうなったら、もう二度と利政を討つ機会は訪れぬやも知れぬ」
政秀の諫言に対して信秀がそう反論すると、加藤全朔が進み出て「恐れながら……」と言った。
「それがしも、平手殿の意見に賛成です。……先ほども申し上げようとしましたが、少し気がかりなことがあるのです」
「そういえば、そんなことを言っていたな。気になることとは何じゃ、全朔殿」
北条の無礼な手紙のせいで気が立っている信秀は、ギラッと目を鋭く光らせながら全朔にそう問うた。
射すくめるような信秀の眼光に全朔はわずかに気後れしかけたが、気が短い信秀はもたもたしていると怒り出す。乾いた唇を舌で湿らせ、「実は……」と話し出した。
「東国に遣わしていたそれがしの商船が熱田港に帰還する途中、溺死寸前だった一人の男を遠州灘近辺の海域で拾ったのです。我が商船の船頭が事情を聞いたところ、その者は三河国の商船の水夫をしていたのですが、乗っていた船が災いに遭って海に飛び込んだそうでして……」
「災い? 船が難破でもしたのですかな? たしか、遠州灘は船乗りですら船酔いしてしまうほど危険な海の難所だとか。風待ちができる入江を探すことすら困難で、船が海上で立ち往生してしまうこともよくあるという話ですからな」
「ええ。平手殿のおっしゃる通り、あのあたりは非常に危険な海域です。その三河の商船も船内の多くの者が船酔いしてしまい、真夜中になっても港に引き返すことができず困り果てていたそうです。……されど、水夫が語った『災い』とは、船の難破のことではありませぬ」
「全朔殿。俺は気が短い。早く結論を言ってくれ」
近頃働き過ぎで疲れているせいか、性急すぎる性格が悪化しつつあるようだ。信秀はイライラした口調でそう急かした。
物事を順序立てて話したいたちの全朔は、「申し訳ありませぬ」と言い、やや早口で続きを語った。
「……その助けた水夫の話によりますと、彼らは駿河方面の海域からやって来たと思われる十隻ほどの船団と遭遇したというのです。商船の主はその船団に助けを求めようとしたのですが……いきなり火矢を射かけられて皆殺しにされてしまったとのことです」
「何⁉ 皆殺しじゃと⁉」
「商船が炎上する中、一人の水夫だけが海に飛び込んで助かりました。その水夫は頑強な肉体を持った男だったので夜明け頃までは何とか泳ぎ続け、荒波に翻弄されて力尽きかけていたところを少し離れた海域にいた我が商船の者たちに運良く助けられたのです。
その水夫の証言によれば――三河の商船を襲ったのは、恐らく興津水軍の船だろうとのことです。海の難所である遠州灘をあのように巧みに進める水軍といえば、駿河・遠江・三河でもそう多くはありませんから……」
「興津……水軍……。聞いたことがあるような……」
信秀がそう呟くと、平手政秀がハッと気がついて「たしか、今川家の軍師・雪斎の母親が興津一族の出でしたぞ!」と言った。
「雪斎の息のかかった海賊どもが、真夜中の遠州灘にいたというのか。しかも、目撃した三河国の商船の者たちを有無も言わさず皆殺しに……」
「何らかの目的があって極秘行動を取っていたとしか思えませぬ。その商船の者たちは、夜陰に紛れてどこかに向かおうとしていた興津水軍の船を見てしまったから口封じのために殺されたのでしょう」
政秀の言葉に、信秀は無言で頷く。
今川軍が隠密裏に軍事行動を起こしつつあると考えるのが妥当だろう。
では、義元と雪斎の狙いとはいったい――。
信秀と政秀、全朔が今川軍の不気味な動きに考えを巡らせていると、ドンドンドンという荒々しい足音が背後から聞こえてきた。
「そなたたち、廊下に突っ立って何をしておる」
「あっ、伯父上」
現れたのは、織田家の菩提寺・萬松寺の住職である大雲永瑞だった。ここ数年でめっきりと増えた皺には汗がじっとりと浮かんでいる。萬松寺から急ぎ駆けつけたのだろう。
信秀は、大雲和尚の顔を見た途端、何かよからぬ報せを持って来たなと瞬時に察した。何事があっても鷹揚自若たる態度を崩さぬ大雲が珍しく慌てた様子だったからである。
「何かありましたか、伯父上」
「これを見よ。儂の知り合いの僧が美濃国で手に入れた物じゃ」
大雲は一枚の紙を信秀の胸に突きつけ、そう言う。信秀は黙ってその文書を読んだが――すぐに困惑の色を浮かべた。
「……これは、斎藤利政の悪行を告発する文章ですな。一読しただけで利政の悪逆ぶりがよく分かる達文です。俺はこんな物を作らせた覚えはありませぬが……」
「美濃国で、それと全く同じ内容の文書が大量に出回っておるらしい。何者かが版木を作って大量に刷ったのじゃ」
「版木というと、京都五山の寺々や西国の大内氏が有しているという、書籍物を複製するために用いる木板ですな」
「その技術を有しておるのは京都五山や大内義隆殿だけではない。信秀よ、そなたも知っておるじゃろう。駿河の今川氏にも『駿河版』があるではないか!」
「い、今川ですと⁉」
たしかに、今川義元は「駿河版」という木版印刷の技術を持っていると小耳に挟んだことがある。今川が何かとんでもない兵器を持っているという話ではなかったので、その情報を聞いた時にはさほど気にはとめていなかったが……。
「それだけではない。漢詩文のごとく壮麗なこの文体をそなたや儂も駿河からの外交文書で見たことがあるはずだぞ。今川とは昨年の三河攻めで一時期手を結んでおったからな。この文章の作者は……今川義元の師である太原崇孚(雪斎)じゃ!」
また雪斎‼
先ほどまで話題にしていた敵国の軍師の名前がまたもや出てきて、信秀は言い知れぬ嫌な予感で心臓の鼓動がどくどくと速くなるのを感じた。
「な、なぜ……。今川家の雪斎が何故、別に恨みもない斎藤利政を陥れるような真似をしたのでしょうか。美濃国が弱れば、この信秀が喜ぶだけなのに……」
「左様。そなたが大喜びするであろう。『蝮が国内にばらまかれた悪い噂のせいで弱っている。今こそ美濃国に攻め込む千載一遇の好機だ。背後の今川の動きが多少気になっても、この機会を逃すことはできぬ』とな」
「これは……。こ、これは……」
信秀は雷に打たれたような衝撃を受け、全てを悟った。
雪斎の指示で隠密行動を取っていると思われる興津水軍。
雪斎が「駿河版」で大量にばらまいた斎藤利政告発の文書。
この二つの事柄は無関係ではない。そして、けっして看過するべきことでもない。
これは、今川の罠だ。今川義元と雪斎は、信秀を美濃攻めに誘導し、その留守を狙って西三河の織田方の諸城を落とそうと企んでいるのだ
「今川め……。なかなか舐めた真似をしてくれるではないか……」
信秀はピクピクと片頬を引きつらせながら笑った。怒りのあまり腸が煮えくり返りそうである。
危ういところで、蝮を餌に今川義元にまんまと釣り上げられるところだった。
しかし、義元と雪斎の罠を見破ったからには好きにはさせない――。
「政秀よ。陣触れじゃ。明日ではなく今すぐに出陣するぞ」
「え⁉ い、今からでござるか⁉ されど、美濃に攻め込めば今川義元の思う壺になりまするぞ」
大雲の話を聞いて信秀同様に今川軍の謀略に勘付いた政秀が、焦った声でそう言う。信秀は「違う!」と声を荒げて叫んだ。
「敵は斎藤利政ではない。隠密裏に三河へ兵を移動させているであろう今川軍じゃ。奴らが俺の裏をかくつもりなら、俺はその裏の裏を行ってやる!」
信秀はそう言い捨てると、「誰か! 俺の具足を持って来い! 法螺貝を吹けぇ!」と喚きながら城主館を走り回り始めた。
雷神も怯まんばかりの信秀の大怒号を耳にした城内の将兵たちは「すわ戦かッ‼」と大急ぎで武具を手に取る。
戦いの時を今か今かと待っていた織田孫三郎信光・内藤勝介・織田造酒丞信房ら千軍万馬の猛将たちは、早くも信秀のそばに駆けつけていた。
「皆の者! 敵は三河にあり! 今川軍は昨年の戸田攻めで疲弊しておる! 姦計をもって我が軍を罠にはめようとした卑怯者どもなど、一気に叩き潰してやるぞッ!」




