戦いの日々へ
「えっ……。姉上がお嫁に……? そ、それは、本当なのですか⁉」
寝耳に水で、吉法師は目を大きく見開いて驚いた。くらはコクリと頷き、「ずっと黙っていてごめんない。なかなか言い出せなくて……」と答える。
「那古野城が手に入ったすぐ後ぐらいに、父上に『津島衆の大橋清兵衛殿の元へ嫁いでくれ』と言われていたの……」
大橋清兵衛といったら、今日の朝祭でくらと祭り見物をして、でれでれと笑っていたあの中年太りの男だ。まさか、あんなにも年のかけ離れた男に大好きな姉が嫁ぐなんて……。
「清兵衛殿は奥様を数年前に亡くしているから、私は後妻になるわけね。父上は、こうおっしゃっていたわ。
『津島から離れた那古野城に居城を移した後も、津島の人々との繋がりを疎かにするわけにはいかない。我が愛娘を津島衆の代表者である清兵衛殿に嫁がせることで、津島の人々の心を繋ぎ止めておきたいのだ』……と」
そんなことを言われても、まだ五歳の吉法師には政治的な話はよく分からない。自分たちは東尾張の那古野へ引っ越して、姉だけが西尾張の津島にとどまる――つまり、姉弟が離ればなれになってしまうということだけは理解でき、その非情な現実にただただ打ちのめされていた。さっきまで大人びたことを言って母に甘えられない寂しさに耐えていたというのに、今はもう年相応の子供の表情に戻り、顔を激しく歪ませている。
くらは、吉法師にとって母の代わりだった。母に抱きしめてもらえなくても、くらが戯れに抱きついてきてくれるから、我慢できた。母の愛に飢えていても、くらが可愛がってくれるから、強がって「弟に母を譲る」などと五歳児らしくないことを言えたのだ。それなのに……。
「……あ……あんな不細工なおじさんの妻になるなんて、姉上がかわいそうです。吉法師が、父上に『姉上の結婚を考え直してください』とお願いします」
とうとう辛抱できなくなった吉法師は、大粒の涙をポロポロと流しながら、そんなことを口走っていた。すると、くらは「そんなことをしたら、絶対に駄目ですよ」と珍しく怒り、しゃがみこんで吉法師の頬を両手で包み込んだ。
「実家と嫁ぎ先の家を固い絆で結ぶのが、戦国を生きる女の役目なのです。いつもふざけて、わがままばかり言っている私でも、それぐらいのことは心得ているわ。織田弾正忠信秀の娘なんですもの。嫁ぐことは、私の戦よ。私は、織田家と津島の友好を保つための戦いに出向くの。それをかわいそうだと言うのは、姉である私に対して失礼ですよ。もう二度と、私をかわいそうだなんて言わないでくださいね? 分かった?」
「……は、はい。ごめんなさい」
姉の今までに見たことがない真剣さに驚き、吉法師はたじろぎながら返事をする。くらは弟がすぐに謝ったのを見届けると、柔らかな表情に戻り、
「それに、こう見えても、私は清兵衛殿のことが好きなのですよ? いつも美味しいお菓子をくれるからね。ふふふ」
と、笑顔を見せた。
この時の吉法師には、その言葉がいつもの姉の冗談なのか、それとも本気なのか、よく分からず、黙りこむことしかできなかった。彼女が「縁あって嫁ぐのだから、旦那様のことを好きになる努力をしよう」などと決心していることなど、五歳児には想像することすらできなかっただろう。
「父上に誓ったのでしょう? 家族や家臣たちみんなを守るため、牛頭天王のごとき強い武将になると。だったら、姉が嫁ぐ津島の町もちゃんと守れるような、頼もしい男になってちょうだいね。こんなことぐらいで泣いたら駄目よ?」
そう言っているくらが、鼻水をすすりながら泣いていた。やはり、彼女も可愛い弟との別れは悲しいのだろう。吉法師はくらの濡れた頬をそっと指で拭い、父にしたように姉にも誓いを立てるのであった。
「はい、約束します。姉上と夫の清兵衛殿のことも、吉法師が守ります。吉法師が守りたいと思う人間は、みんな守ってみせます。どんなにたくさんの敵が現れても、全員やっつけてやります」
姉上を守るためだったら、牛頭天王がそうしたように、五千人の敵だって皆殺しにしてやる。吉法師はそう思い、心の内側で熱い炎が燃え盛っているのを感じていた。その炎の正体こそが、戦国武将としての闘争本能だったのだが、幼い吉法師が「織田信長」へと覚醒するのはまだ先のことである。
* * *
それから数日後、吉法師がとってきた布鉾のしずくが効いたのか、春の方の体調はようやく回復した。
信秀は「さて、これで那古野へ移れる」と安堵し、津島の町で娘のくらと大橋清兵衛の祝言を豪勢にとり行った。そして、勝幡城に武藤掃部という将を城代に置き、一族を引き連れて那古野城へと移ったのであった。
「伯父上。近々、那古野城の南に我が菩提寺を建てようと思うので、あなたにぜひその寺の住職になっていただきたいのです」
大雲永瑞が居城移転の祝いのために那古野を訪れると、信秀は意外なことを言って大雲を驚かせた。
「まだ若いのに、己を弔うための寺をつくるというのか。……なるほどのう。いよいよ、命を賭けた戦いの日々へと身を投じる決意をしたのだな」
「左様でござる。まずは、三河へ打って出る所存です。打倒今川と三河の先にある遠江の制覇は武衛様(尾張守護・斯波義統)の夢ですが、俺の夢を叶えるためにも、背後の憂いは絶たねばなりません」
「ふむ……。お前にとっては、三河や遠江は『背後』に過ぎぬということか。ならば、お前の眼が睨んでおる『前方』にあるものは――」
「むろん、京都でござる。俺は上洛して、天下に静謐をもたらす英雄になってみせる」
信秀はニヤリと笑い、そう豪語するのであった。
その二年後、信秀の菩提寺である萬松寺が完成し、大雲が住職として迎え入れられた。そして、その同年に信秀は西三河へと兵を進め、松平軍を撃破して安祥城を攻略したのである。
さらに東へ東へと進めば、いずれは今川義元の勢力と対決する時が来るであろう。信秀は、自分の死後も桶狭間合戦まで延々と続く今川軍との戦いの火ぶたを切って落としたのである。
信秀が三河への侵攻を開始した天文九年(一五四〇)には、吉法師はいまだに七歳に過ぎず、お徳の息子である池田恒興や家来衆の子息たちとともに剣術や勉学に勤しむ日々を送っていた。
後に織田信長の盟友となる徳川家康は、この時点ではまだ生まれていない。
信長の偉業を継ぐことになる豊臣秀吉は四歳の幼児で、尾張中村の小さなあばら屋で弟・秀長の産声を聞いていた。
そして、この物語における明智光秀も、秀吉の弟と同じく天文九年にこの世に生を受けていたのである。
光秀の生年は1516年説(本能寺の変時、67歳)、1528年説(本能寺の変時、55歳)の二説が有名ですが、この物語ではあまり知られていない……というか最近でてきた1540年説(本能寺の変時、43歳)を採用する予定です。
1540年誕生説については、いずれ近い内に番外編として解説(?)を入れたいと思います。
何にしろ、光秀はネズミ年生まれだという伝承が昔からあったっぽいです。




