快川紹喜は回想を語り終える
「……以上が土岐頼純様の死の真相です」
おぞましき蝮の悪行の全てを織田造酒丞と道家尾張守に語り終えると、快川紹喜は一つ大きな嘆息を漏らした。
快川と帰蝶、明智定明が実際に体験したこと。後になって分かったこと。それらをできる限り正確に快川は伝えた。
話を聞き終えた造酒丞と尾張守は、斎藤利政(道三)の天罰をも恐れぬ悪逆の凄まじさにただただ圧倒され、しばらく口を開くことすらできなかった。
「斎藤利政は娘婿だけではなく、自分の子を身籠った女子すら惨たらしく殺す猛毒の大蛇です。戦国の世が生み出した怪物と言っていいでしょう。
怪物は、天下の乱れを正すためにも、昔話にあるように退治されねばなりません。あなた方があの蝮を退治すると約束してくださるのならば、私はある人物に密かに手紙を送って織田家に協力するように要請する所存です」
呆然となった造酒丞たちが何も言えずに黙り込んでいると、帰蝶が何の感情も感じられぬ抑揚の無い声でそう言った。
「その『ある人物』というのは……?」
造酒丞が問うと、帰蝶は「頼純様の遺臣、羽田仁左衛門です」と答えた。南泉寺に逃げ込んで僧侶たちにかくまわれた頼純の残党というのが、快川の回想でも名前が出て来た羽田仁左衛門という男らしい。
「彼は、今もこの近くに潜伏しており、時おり南泉寺を訪ねて来ます。仁左衛門は、主君の無念を晴らすべく、最後まで斎藤利政と戦う覚悟です」
「我らが美濃に攻め込んだ隙を狙って羽田殿が斎藤軍の背後で挙兵をしてくれたら、戦いは我らの有利に進むはず。それはとても有り難い申し出でござる。
……しかし、本当によろしいのですか? いくら夫の仇とはいえ、斎藤利政は帰蝶姫の実の父ではありませぬか」
「実の父? あの男が? ハハッ」
生気を無くしていた帰蝶の瞳が急にギラリと光り、凄絶な笑みを浮かべる。
その微笑を見た快川は、まるで斎藤利政のような笑い方だ、とギョッと驚いて眉をひそめた。
「斎藤利政は私のことなど我が子だとは思っていません。それと同じように、私もあの怪物のことを我が父とは思いませぬ。どうぞ、来年の春にでも我が国に攻め込んで稲葉山城を火の海にしてやってください。そして、あの蝮を牛裂きの刑にするなり、釜茹での刑にするなり、お好きなように始末してくださいな」
「う、うちの殿様(信秀)はそんな残酷な処刑は行わないのだが……。あい分かり申した」
美貌の姫の凄まじい心の闇を垣間見て背筋が寒くなった造酒丞は、若干引き気味にそう言い、コクリと頷く。
若い修行僧が「師匠! 大変です!」と怒鳴りながら部屋に駆け込んで来たのは、ちょうどそんな時であった。
「宗乙、何事です。騒々しいですよ」
「あ、明智定衝様の兵が、国内に潜伏している曲者を捜索するために、南泉寺の近くまで迫っているようです!」
まだ暴行の傷跡が顔のあちこちに残っている宗乙が、焦った様子でそうまくしたてる。
織田方の武将を寺院内に招き入れて利政の悪行を話して聞かせていたと知られたら、利政は激怒して再び南泉寺を焼き討ちしようとするに違いない。
「弟の奴は、意気地がないからなぁ~。美濃国主(土岐頼芸)を上回る権力を手に入れた利政に取り入るのが明智家のためだと考えて、利政のために働いているのだろう」
明智定明が頭をボリボリかきながら、そうぼやく。
造酒丞と尾張守は敵兵迫るの報を耳にするとただちに立ち上がり、
「今すぐここをお暇いたそう」
「うむ。快川殿たちに迷惑はかけられぬ」
そう言ってお互いの顔を見合わせ、頷き合った。
「ならば、この宗乙が同道しましょう。私は修行の旅で美濃国内を隈なく歩き回っているので、人があまり通らない間道もよく知っている。明智定衝様の軍勢から逃げ切ることさえできたら、貴殿たちを確実に尾張国まで送り届ける自信があります」
「その申し出はありがたいが、南泉寺の僧侶殿たちにこれ以上の迷惑をかけるわけには……」
尾張守が躊躇してそう呟くと、快川は頭を振って「どうか、我が弟子を連れて行ってくだされ」と言った。
「宗乙よ。これは良い機会です。造酒丞殿たちを尾張へと送り届けるついでに、あなたも美濃を一度ぬけ出して諸国を旅して来たらどうですか。広い世界を見て修行を積み、たくましくなって数年後に我が元に戻って来なさい。その時には、あなたに立派な道号(僧侶が名乗る号。俗人の苗字にあたる)を授けてあげましょう」
「承知いたしました。師匠、どうかお達者で。宗乙は、斎藤利政を遥かに凌駕する英雄を育てられるような徳高き僧となり、必ずやここに帰って来ます」
宗乙は師に跪き、わずかに涙ぐみながらそう誓いを立てた。
快川は、宗乙が「おのれを高めるために諸国行脚の旅に出てみたい」と密かに考えていたことを見抜いて、そうすすめたのである。師匠のそんな心遣いが分かったため、へそ曲がりな宗乙にしては珍しく素直な心で感涙したのだった。
「さあ、ご両人。定衝殿の手勢に発見される前に、出立なされよ」
快川がそう急かすと、定明も立ち上がって「俺も長良川まで見送ろう。弟の手勢とばったり遭遇してしまったら、俺が止めてやる」と言った。
「なぜ、おぬしまで我らの味方をしてくれるのだ」
「そんなの、決まっておるではないか。織田造酒丞、おぬしと戦場でまた戦いたいからよ。ここでおぬしに犬死されてしまったら、楽しくない。せっかく見つけた運命の好敵手なのだから、次は正々堂々と戦場で決着をつけようではないか」
(こいつが戦狂いでよかった……)
かくして、造酒丞、尾張守、定明、宗乙は慌ただしく南泉寺を後にし、南を目指して駆けて行くのであった。
「英雄……英雄ですか……。この光なき世界に、天下を安寧の世へと導く英雄など本当に現れるのでしょうか」
快川と二人きりになると、帰蝶は闇に染まった瞳を宙にさ迷わせながらそう呟いた。
この世界に邪悪なものがあることを知らなかった汚れなき少女は、ほんの十数日の間に世界に絶望してしまっていたのである。
快川は悲しげな表情をしながらも「きっと、現れます」と力強く答え、帰蝶の冷たい手をそっと握った。
「明けない夜が無いように、終わりなき乱世など存在しません。天は、いつかきっと、戦国の世を終わらせる英雄を地上に遣わすはずです。それを信じましょう、姫様」
* * *
造酒丞と尾張守は、定明と宗乙の案内で間道を馬で走り、長良川にたどり着いた。
「俺の弟は戦下手だが、勘が鋭いところがある。もたもたしていたら、すぐに追いつくだろう。急いで川を渡るのだ」
「かたじけない、定明殿」
「造酒丞、織田軍が美濃を攻める際には必ず従軍しろよ。お前と戦場で一騎打ちするために、逃がしてやるのだからな。男と男の約束だぞ。絶対だからな⁉」
「わ、分かった。分かったから、そんなに顔を近づけて喚かないでくれ……」
造酒丞・尾張守・宗乙は、定明が用意した渡し舟に飛び乗ると、向こう岸目指して漕ぎ始めた。
「次に会った時には、今度こそ死ぬまで殺し合おうなぁーーーッ‼ ぜぇーーーったいだからなぁーーーッ‼」
「しつこい奴だなぁ……」
川岸に立つ定明は、両手をブンブンと振りながら、銅鑼声で喚く。まるで旅立つ恋人を見送る女のように未練がましい。造酒丞は辟易としながらも、軽く手を振り返した。
「見つけたぞ! あの舟に乗っている奴らが美濃に潜入した曲者どもに違いない! 我らも渡し舟に乗り込んで追いかけるぞ!」
馬蹄の音が響き、おやっと思った定明が振り返ると、水色桔梗の軍旗を翻した明智定衝の手勢が北の方角から駆けて来た。
「おう、定衝。さすがは我が賢弟。領内に侵入した鼠を見つけるのが上手いなぁ」
「あ、兄上⁉ なぜ兄上がこんなところにいるのですか? まさか、兄上が曲者を逃がしたのではないでしょうね」
「そのまさかだ。俺が逃がした」
「な……何をやっているのですか! 利政殿にこのことが露見したら、一大事ですぞ⁉ ……者共、急いで渡し舟に飛び乗れ。追いついて、矢を射かけるのだ」
兄に構っている暇がない定衝は、兵たち三十人を大きめの渡し舟に乗り込ませると、長良川を漕ぎ出して造酒丞たちを追いかけようとした。
「ああ! 待て、待て! 奴らは見逃してやってくれ! 定衝、頼む! 俺の運命の好敵手を射殺さないでくれ!」
慌てた定明はバシャバシャと浅瀬を大股で走り、両手で渡し舟の船尾をガシッとつかんだ。
「あ……兄上? いったい何を……う、うわわ⁉」
「おりゃぁぁぁッ‼」
驚嘆すべき怪力に、定衝や兵たちは仰天した。
定明は、猛獣の咆哮のごとき声で天地を震わせた直後、三十人が乗った渡し舟を気合いで引っ張り、陸へ引き上げてしまったのである。
しかも、舟が陸に上がった後も勢いに任せて引っ張り、引っ張り、最終的には川から十四、五間(約二十五~二十七メートル)ほど離れた場所まで動かした。
「ワッハッハッ。これで追いかけられぬな」
「む……無茶苦茶だ……。どうなっても知りませんぞ……」
定明は愉快そうに大笑しながら、定衝は呆然とした表情で、対岸へと去りゆく造酒丞たちの背中を見送るのであった。
数日後、無事に尾張に帰還した造酒丞と尾張守は、主君・織田信秀に頼純謀殺事件の詳細を報告した。
信秀は利政の悪逆の凄まじさに驚嘆しつつ激怒し、
「やはり、美濃の蝮だけは生かしておけん。奴が美濃国でのさばっているかぎり、天下の秩序を乱し続けるであろう。この世に平安楽土をもたらすためにも、朝倉家と連絡を取り合って再び蝮退治の軍を挙げねばならぬ」
と、決意するのであった。
信秀と利政の運命の再戦の時が、近づきつつあった……。




