三界の師
一方、その頃、斎藤利政(道三)の軍勢は、頼純の菩提寺である南泉寺を包囲していた。
「頼純の残党を何人かかくまっているだろう。大人しく引き渡せ。引き渡さねば、この寺を四年前と同じように焼き払うぞ」
利政は寺の門前でそう怒鳴り、采配を持った右手をサッと夜天に掲げた。采配を振り下ろせば、弓矢を構えている斎藤軍の兵たちが火矢を一斉に放つ手はずである。
また、十数人の兵士たちは、山門の前まで運び込んだ大釜に熱湯を沸かそうと準備をしていた。
利政の足元には、兵たちによって殴る蹴るの暴行を受けた宗乙が血みどろの姿で倒れていた。俺は本気だ、という意思を僧侶たちに示すために利政が命じて暴力を振るわせたのである。
そんな利政の軍勢と対峙していたのは、寺が戦火に巻きこまれないように稲葉良通(一鉄)が残していった精鋭兵五十数騎だった。
「守護代様。ご無体なことはおやめくだされ。ここは我らが殿の恩人である和尚様がいらっしゃる寺なのです。引いて下さい」
稲葉隊の精鋭兵を率いる侍が何とか穏便に済ませようとしてそう訴えたが、利政は大いに怒り、
「うるさい! そこをどけ! どかねば、いくら味方でも坊主たちと一緒に焼き殺すぞ」
と、威嚇までしてきた。
「父上。もういい加減にしてください。叔父上(稲葉良通)を始めとした多くの美濃の武将たちがその徳を慕っている仁岫宗寿和尚や快川紹喜といった高僧たちを焼き殺せば、父上の人望は地に堕ちまする。守護代の地位すら危うくなるのは必定でござる」
このままでは父と叔父の部隊が衝突してしまう、と慌てた新九郎(後の斎藤義龍)は、利政と稲葉隊の将兵との間に割って入って必死に諌めた。
だが、嫡男の言い分に一度たりとも耳を貸したことがないこの冷酷非道な父がそんな忠告を聞くはずがない。
「フン。我が昇竜の勢いを挫くことができる者など、この美濃にいるものか。国主の頼芸も、もはや俺の操り人形に過ぎぬ。
……我こそはこの国の王なり! 従わぬ者は皆殺しじゃ! フハハハハ!」
(く……狂っている。娘婿と我が子を孕んだ女を惨殺したことで、狂気の扉を開いてしまったのか……?)
ギラギラと異様な光を放つ利政の両眼に尋常ならざる凶暴性を感じ取り、新九郎はゴクリと唾を飲んだ。
この化け物を止められる人間など、この国にはいないのかも知れない――新九郎が心の中でそう呟いた時、寺の山門が急に開いて中から仁岫宗寿和尚と快川紹喜が現れた。二人の背後には数十名の修行僧たちも付き従っている。
「お、和尚様。快川様。寺の中で隠れていてくださいと申し上げたではありませぬか。危のうござる、お下がりくだされ」
稲葉家の侍が驚いて声を上げ、僧侶たちを寺の中へと退避させようとした。
しかし、快川はそれを手で制して、下がるどころか剛毅にも大股で前へ進んで利政の眼前で仁王立ちした。その険しい視線の先には、地面に倒れ伏している弟子の宗乙がいる。
「宗乙……。なんと痛ましい姿になってしまったのだ」
「カッカッカッ。快川よ。お前の小生意気な弟子は、愚かにもこの俺に逆らった。そなたがどれだけ命乞いをしても、こやつだけは絶対に許さぬ。
……今から、いいものを見せてやろう。我が命に従って頼純の残党を引き渡すか否か考える前に、そなたたちの眼前にて宗乙が釜茹でにされるところをゆっくり見物しておるがいい」
利政は冷酷な笑みを浮かべると、「宗乙を大釜に放り込めッ」と釜茹での準備をしていた兵たちに命じた。
斎藤軍の兵は、この残酷な刑の執行をこれまでに幾度となくやらされているので、かなり手慣れているようである。四人の兵が迅速な動きで宗乙の両手両足を持ち上げ、煮えたぎっている大釜に投げ込もうとした。しかし、その直前に――。
「げふっ!」
「がはっ⁉」
「ごほっ!」
「うがぁ!」
快川が吹き抜ける風のごとく颯と駆け、宗乙を抱えていた兵たちを豪腕で次々と殴り飛ばしておのれの愛弟子を瞬く間に救出したのである。
まさか丸腰の僧侶が数百の軍勢を相手に挑みかかってくるとは想像もしておらず、斎藤軍の兵たちは呆気にとられた。
「な、何をするのだ! この糞坊主め!」
釜茹での刑の指揮を任されている兵が刀を抜いて斬りかかったが、快川は鮮やかに足を払ってその兵を転倒させ、手刀で気絶させた。
ただの僧侶とは思えぬその身のこなしに、さすがの利政も目を見張って驚く。
「か、快川! 坊主のくせして、その体術は何だ!」
「貴殿のごとき暴虐の輩が跳梁跋扈する美濃の国に生きているのです。坊主とて、身を守るためにこれぐらいの武の心得は必要でしょう」
「跳梁跋扈じゃと? この俺を魑魅魍魎のごとく言いおって……‼ 弟子よりも先に血祭りに上げられたいのか、お前は‼」
快川の言い草にカッとなった利政は、怒髪天を衝く勢いで怒鳴った。
だが、快川は、たとえ白刃を首筋に突きつけられても自らの意志を曲げぬ鉄心石腸の人である。
おのれの正義を貫いて斎藤利政の悪を糾弾できるのならば即刻この場で絶命してもいい、と壮絶なまでの覚悟をもって利政と相対していた。蝮の悪逆の牙を前にしても怯むはずがない。傷ついた宗乙を我が胸に抱きながら、眼光炯々たる眼差しで利政を睨み返した。
「……斎藤利政殿。思い上がるのもほどほどになされるがいい。何の大義があって、我が愛弟子をかくのごとく痛めつけたのです」
「大義だと? フン、そんなもの必要あるものか! 俺は、この美濃の国を実質的に支配しておる。美濃に住む全ての人間の生殺与奪の権を持っているのだ。我が庭に棲息している蟻どもを俺が殺そうが、いたぶろうが、俺の自由ではないか」
「美濃守護代の愚陋なること、ここに極まれり。貴殿はひどい思い違いをしている」
快川は利政の言を冷ややかに切って捨て、長嘆息した。
その傲岸不遜な態度に、利政はいよいよ大激昂して「俺が何を思い違いしていると言うのだッ‼」と獣のごとく吠える。
すると、快川の口舌は衰えるどころかさらに鋭くなり、利政の怒りの炎に大量の油をぶっかけるかのような激烈極まりない言葉を言い放った。
「貴殿がこの国を牛耳っていることは認めよう。……だが、しょせんは美濃一国の主に過ぎぬ。
我ら御仏に仕える僧は、過去・現在・未来――三界の師である。貴殿が滅多打ちにした我が弟子・宗乙も、やがては三界の師として天下の民衆を救い、世を正しい道へと導いていく名僧となると私は信じている……。
三界の広きことすら識らず、暴政を敷かねばたかが国一つもまともに治められぬ低能な武将ごときが、三界の師となる運命を背負った宗乙をいたぶるとは、思い上がりも甚だしい! 今すぐ宗乙と師匠である私に手をついて謝りなされい!」
「な……な、な、な…………」
さすがの斎藤利政も、この強烈な悪口にはしばし絶句した。鈍器で頭を思い切り叩き割られたような感覚にとらわれ、采配を握った手をわなわな震わせながらかなり長い時間呆然と立ち尽くしてしまっていた。
(ま……まずい! 絶対に殺される! 快川殿も、南泉寺の僧たちも、一人残らず焼き殺されてしまう!)
その場にいた新九郎や稲葉隊の将兵、斎藤軍の何人かの心ある武将たちは、これから始まる新たな殺戮を確信して、顔を青ざめさせた。
南泉寺の徳の高い僧侶たちが虐殺されるのは美濃国にとって大きな損失である。それに、帰蝶姫にとって南泉寺は亡き夫を弔うための大事な寺であり、頼純との温かな思い出がたくさんある場所なのだ。利政が南泉寺を焼き払えば、帰蝶は精神にさらなる大打撃を受けて、自害もしくは発狂してしまうかも知れない……。
「も……もう許せぬ! お前たち坊主も、寺の中に隠れている頼純の残党どもも、まとめて焼き尽くしてやる!」
ようやく我に返った利政は、燃え上がる焔のごとく逆上してそう吠えた。
だが、南泉寺の僧侶たちは、快川だけでなく師匠の仁岫宗寿や他の修行僧たちも蝮に屈するつもりは全く無い。こんな極悪人に跪いて命乞いをするぐらいならば、天命を従容として受け入れて誇りある死を迎えるべきだと覚悟を決めていた。
「悪逆の徒よ、殺したければ殺すがいい。美濃の民たちは、我らとおぬしのどちらに正義があるか分からぬほど愚かではないぞ。たった一日で罪無き者たちを数百、数千と殺したことによって、おぬしの悪名は天下に轟くことであろう」
老体の仁岫宗寿が杖で地面を叩きながら大喝する。後ろに付き従う大勢の修行僧たちもめいめいに利政を激しく罵った。
利政は「おう! 望み通りにそうしてやるわッ!」と叫び、頭上に掲げていた采配を振り下ろそうとした。
采配が振り降ろされた瞬間に、火矢の雨が南泉寺に降り注ぐことになる。――しかし、ここで奇跡が起きて、その最悪の時は訪れなかったのである。
ビュッ‼
一本の飛矢が、采配を振り下ろそうとしていた利政の眼前を過ぎ行き、驚いた利政は手に持っていた采配をポトリと落とした。
「何奴じゃッ」
利政が、矢が飛来した方角をギロッと睨む。そこにいたのは、黒漆塗りの甲冑の武将――稲葉良通であった。
利政の命令で古城山の麓にいた頼純の残党軍と交戦中だった良通は、南泉寺が利政の軍勢によって包囲されていると氏家直元(卜全)から知らされ、軍勢を引き連れて急いで駆けつけたのである。
「良通! 義理の兄である俺に矢を射かけるとは何事だ!」
「娘婿を騙し討ちにした利政殿だけには言われたくはない。
……南泉寺には一切手出しせぬという約束だったではないか。その誓いを破って我が師匠と師兄に危害を加えるのならば、それがしはたった今より貴殿の敵となるぞ」
馬上の良通は二の矢をつがえつつ、怒気を孕んだ声でそう宣言した。さっきの矢は威嚇が目的でわざと外したが、次は利政の額のど真ん中に命中させるつもりである。
「む、むむぅ……」
利政も、この頑固一徹な男が本気で怒っており、有言実行するであろうことは予想できた。
また、冷静になって周囲を見回すと、自分に対して激しい敵意の眼を向けている武将たちが斎藤軍の中にも数名いるようだ。
(美濃国内の武将には、仁岫宗寿や快川紹喜の教えを受けた者や、彼らに対して尊崇の念を抱いている者が多い。……長年の宿願であった頼純の討伐が成功して調子に乗り、禅僧と武士の繋がりの深さを侮ってしまったか)
ここで仁岫和尚や快川を虐殺するのはまずい、多くの美濃武将の離反を招きかねない……と、さすがの利政もそう思い始めた。
「……お、俺も、寺院内でかくまっている頼純の遺臣たちを引き渡してくれるのならば、南泉寺に害を及ぼすつもりは無いのだ。それなのに、快川殿が逆らうゆえ……」
「頼純様の菩提を弔うために、家臣の一人や二人ぐらい見逃してやっても良いではないか。
それとも、利政殿は、頼純様の家臣を皆殺しにして菩提寺も焼き討ちにし、娘の夫の葬儀ができないようにする気なのか。いくら敵将でも、葬儀を行うことすら許さないとは、無慈悲にもほどがあるであろう」
「…………」
稲葉良通はいまだに弓矢を構えて、利政を睨みつけている。これ以上屁理屈を言えば、短気な良通は利政めがけて矢を放ちかねない。ここが引き時か、と利政はようやく観念した。
「……あい分かった。深芳野(利政の側室)の弟である良通の顔を立てて、兵を引き上げよう。頼純の首も後で南泉寺に送り届けてやるゆえ、好きに弔うがいい」
利政は不愉快さを隠しきれない激しく歪んだ表情でそう吐き捨てると、兵たちに撤収を命じた。
「快川よ。お前が俺の所業をどう批判しようが、俺は後の世に『乱世に乗じて立身出世した美濃の英雄』として語り継がれることになる。しょせん人の世は力こそが正義なのだ。お前のように理想だけを唱えて何の力も持たぬ坊主など、数百年後の民たちは忘れ去っておるであろう」
利政は去り際にそんな捨て台詞を残していった。一方的に言い負かされて復讐ができなかったのがよほど悔しかったのだろう。
「どうやら、助かったようだな……」
利政の軍勢が南泉寺から姿を消すと、若い修行僧の多くが緊張の糸がほどけてホッとため息をついた。
快川は、重傷の宗乙に水を飲ませ、
「しっかりしなさい、宗乙」
と言いながら肩を揺する。
斎藤軍の兵たちにボコボコに殴られて顔面が腫れ上がっている宗乙は、「ぐ……う、う、う……」と唸り声を上げつつも師匠の顔を見上げた。
「天道是か非か……。天は本当に正しき者の味方なのでしょうか、師匠。私は悔しくて仕方ありません。あんな悪逆非道の男が英雄を名乗るなど、正々堂々とした武士が多くいた昔ならばあり得ませんでした。利政のような悪人が英雄であってたまるものか……。あんな奴が英雄のはずがない……!」
「宗乙よ。今日経験した悔しさを……義憤をけっして忘れてはいけません。厳しい修行を積み、立派な三界の師となりなさい。そして、良き弟子を見つけ、天下万民のために智勇を振るう英雄をあなたが育てるのです」
悔し涙を流す宗乙を快川は穏やかな声で励まし、愛弟子の手を握るのであった。
伊達政宗がこの世に生を受けるちょうど二十年前の秋のことである。
<快川紹喜の「三界の師」発言について>
作中で快川が斎藤利政(道三)に対して「一国の主よりも三界の師のほうが偉い」といった主旨の啖呵を切っていますが、史実においても快川は手紙で同じような発言をしています(相手は道三ではありませんが)。
永禄四年(一五六一)、美濃国主の斎藤義龍と喧嘩になった快川ら多くの僧が美濃を出奔して尾張の瑞泉寺に移りました。義龍の家臣は「太守(義龍)の耳には入れないから、美濃に早く帰ってきたほうがいい」と快川に手紙を出します。しかし、快川はこの勧告を拒否して、
「義龍は一国の主に過ぎない。私共は三界(現在・過去・未来)の師であって、三界の広きことに較べれば、一国など狭すぎて問題にならない。私共は帰らない」(戎光祥出版発行・横山住雄著『武田信玄と快川和尚』より抜粋)
という手紙を送り返したそうです。
快川がここまでカンカンに怒ったのは、義龍が快川ら僧侶たちのプライドを大きく傷つけることをしたせいですが、快川たち名僧が美濃を出奔したことで美濃国内は「永禄別伝の乱」という大事件へと発展しました。禅僧と武士たちの切っても切れぬ関係性の深さがうかがえます。




