天王祭
現在の津島は、愛知県の内陸部にある。
しかし、信長の時代には濃尾三川(木曽川・長良川・揖斐川)の河口部にあり、伊勢湾から続々と交易船が到来する港町だった。
津島の人々は町の自治組織・惣を結成し、尾張国の武将たちの傘下に入ることを昔から拒絶してきた。そんな津島衆を下すことに成功したのが、信長の祖父・織田信貞である。
信貞は、津島港から北東、一里(約四キロメートル)しか離れていない勝幡城の主だった。彼は、時には津島の町を焼き払って「服属せよ」と恫喝し、時には津島の豪族・大橋氏に縁組をもちかけて篭絡するなど、老練な交渉術によってついに津島衆を従わせたのである。
前に説明したように、貿易港は莫大な富を生む。津島港を手に入れた織田弾正忠家は、飛躍的な経済成長を遂げ、信秀の時代には尾張最大の実力者にのぼりつめていた。
津島は、信秀軍の力の根源と言っても過言ではなく、信秀はこの港町と町に住む人々の牛頭天王信仰を手厚く保護してきたのである。
だから、天王祭を行う津島牛頭天王社への援助も怠ってはいない。たとえば、どんな援助をしていたかというと……借金まみれの神主が夜逃げしないように見張ることなど、であった。
* * *
日が落ちると、吉法師とくらは平手政秀に連れられて、天王川にかかる大橋へと向かった。
天王祭では様々な行事があるが、大別すると宵祭と朝祭の二部に分かれる。宵祭ではたくさんの提灯を灯した五艘の船が天王川を行き来することになっていて、吉法師たちはその祭りの船を橋の上で見物するのだ。
これは余談だが、昔の津島牛頭天王社(現・津島神社)は、佐屋川(木曽川水系)とその支流の天王川によってつくられた砂州に鎮座していた。しかし、佐屋川は明治期に廃川となり、江戸期にはすでに浅瀬となっていた天王川は川を堰き止めて天王川公園として生まれ変わっている。現在の津島天王祭も、この天王川公園で祭り船を出しているのだ。
「ねえ、平手。橋の上が何だか騒がしいのだけれど?」
大橋のすぐ近くまで来ると、くらが橋の上で騒いでいる人々を指差した。橋には大勢の見物人が集まっているが、その騒ぎの中心にいる男たちは政秀が見覚えのある者たちばかりだった。
「内藤勝介と青山与三右衛門が、誰かを神輿みたいに担ぎあげて何やら大声で喚いていますな。近くには、信秀様と林秀貞殿……それに大橋殿ら津島衆の方々までいるようです。皆々、ずいぶんと怒っている様子ですが、いったいどこの誰をあんなふうに担ぎ上げて騒いでいるのやら……」
政秀が眉をひそめて困惑していると、夜目がきくくらが、
「わっしょい、わっしょいと担がれているのは、牛頭天王社の神主殿ではないかしら?」
と言った。それを聞いた吉法師が面白がり、「天王祭では、神主が神輿になって担がれるのですか?」と姉にたずねる。
「あははは。そんなわけないじゃない。……でも、本当に何やっているのかしら?」
そんなふうに会話をしながら橋のたもとまで歩いていくと、やがて騒いでいる人々の声がはっきりと聞こえてきた。
「お、おろせ! 頼むからおろしてくれ、信秀殿! もう逃げない、逃げないから!」
「氷室殿。神主である貴殿が、祭りの当日に夜逃げしようとするとは何事だ。津島の町の人々が天王祭をずっと楽しみにしていたのに、何という無責任なことをするのだ」
「……だ、だって、祭りのどさくさに紛れて夜逃げしたら、しばらく誰にも気づかれないだろうと思ったから……」
「阿呆! 祭りの日に神主の行方が分からなくなったら、みんなが騒ぐに決まっているだろう! 神主が借金に窮して夜逃げを企むとは情けない……。もう二度と夜逃げしないと誓わなければ、勝介と与三右衛門に命じて、このまま川に放りこませるぞ」
「ひ、ひいぃぃ! ごめんなさい、ごめんなさい。祭りの間は逃げないから、もう許してくれ!」
牛頭天王社の神主である氷室兵部少輔広長が泣きながらそう言うと、「祭りが終わった後も逃げたら駄目に決まっているでしょうが!」という声が四方八方から飛んできた。
「はぁ~……。もういい。勝介、与三右衛門、おろしてやれ。借金のことは、俺が何とかしてやるから」
呆れかえってもう何も言えなくなった信秀は、深々とため息をつき、勝介と与三右衛門にそう命令した。
事情の詳細は不明だが、氷室広長は神主という立場でありながら多額の借金に苦しんでいた(祭りは織田家の保護のもと毎年行われているし、祭り船は津島の村々が用意していたので、たぶん個人的な借金だったのかも知れない)。
この二年後、広長はとうとう夜逃げを実行してしまい、津島の町衆に迷惑をかけた。信秀は「神事ができないから、早く戻って来い」という手紙を送り、広長が神社に戻れるように色々と根回しをしてやったようである。この津島神主の借金騒動は信長の代までも続き、
「神主が借金を返せないという理由で神事が疎かになっていると聞いた。借金の元金を十年賦で少しずつ返済していくようにしなさい。銭主(債権者)たちが嫌だと言ったら、処罰してやるから」
という手紙を信長が出す事態にまで至った。
はるか後年に自分までこの神主の借金騒動に煩わされるとは想像もしていない五歳の吉法師は、広長の醜態を見て、姉のくらと一緒にゲラゲラと無邪気に笑っていた。
「……氷室殿、大丈夫ですか?」
「やれやれ、人騒がせな神主殿ですなぁ」
「我ら津島衆に一言相談ぐらいしてくれてもよかったのに……」
広長が橋の上へ乱暴に放り落とされると、温厚な林秀貞が助け起こしてやった。そして、津島衆の大橋清兵衛重長と服部平左衛門康信も駆けつけて、興奮のあまり呼吸が乱れている神主に水を飲ませてやるなど介抱をした。
津島衆には四家七党と呼ばれる有力豪族がいるが、この大橋清兵衛はその四家の一人である。前にも書いたが、信秀の重臣・林秀貞と縁組の約束をしており、津島の代表的人物と言っていい。
また、七党の一人である服部平左衛門には、後に歴史に名を残すことになる息子がいる。桶狭間の合戦で今川義元に一番槍をつけた勇士、服部小平太だ。
彼ら津島の四家七党は、南北朝争乱期に後醍醐天皇の孫・尹良親王に従って各地を転戦し、親王の戦死後に親王の遺児・良王を守って尾張津島に移住した者たちの子孫である。
そういう歴史的な強い繋がりがある津島衆の結束力は、四方に敵がいた若き日の信長にとって貴重な軍事力となっていくのだが、それはまだ先の話のことである。
「清兵衛殿。宵祭が始まる前から、ずいぶんと賑やかなのですね」
「こ、これはこれは、くら姫様! ご、ごごごご機嫌麗しゅう存じまする!」
くらに話しかけられた大橋清兵衛は、なぜか満面に朱をそそぎ、早口であいさつをした。
(こんな中年太りのオヤジと姉上は仲良しなのだろうか?)
と、吉法師は不思議に思ったが、橋の上にいる人々が「祭り船が来たぞー!」と歓声を上げたため、注意はそちらにそれた。
「吉法師、こちらに参れ。父が肩車をしてやろう」
せっかちな性格の信秀は、そう言い終える前に、自分から吉法師に近づいて息子を持ち上げた。
「どうだ、よく見えるか」
「はい! 提灯の灯りがとても綺麗です!」
吉法師は、あまりにも美しく、雄大な祭り船の光景に驚き、大声でそう叫んでいた。
津島の五か村から毎年出す五艘の巻藁船は、その形状からして独特である。二艘の和舟を横に並べ、板を渡して繋げ、さらにその上に屋台を組んで一艘の大きな船にしているのだ。
そんな珍しい祭り船たちが、星空の下で笛や太鼓を奏でながら悠然と漕ぎゆき、天王川を提灯の光で赤々と焦がしている。
それにしても、あの提灯の多さはどうであろう。吉法師には数えきれなかったが、一艘の船につきざっと四百を超えていた。
船の屋台の上に設置された、「坊主」と呼ばれている半球状の巻藁の台には、提灯をつけた長さ一丈(約三メートル)ほどの竹竿を半円形に飾り付けている。その数は、旧暦の日数と同じ三百六十個だ。
中央に立てられている九間半(約十七メートル)の真柱にも、その年の月の数に合わせた十二個の提灯が飾られ(月が十三か月ある陰暦の閏年には、十三個となる)、船の前方では三十個の赤提灯が夜風に揺らめいていた。
「船の屋台の幕や赤い提灯に、織田家の木瓜紋が見えます」
「ああ、そうだ。牛頭天王の神紋であり、我らの家紋でもある、五つ木瓜紋が光り輝いておるぞ。あの神々しき二千余の炎が、祭りの日に天王川を赤く染め上げ続ける限り、我が一族はお天王様のご加護を受けて繁栄するであろう」
「母上の病も治りますか?」
「もちろんだ。お天王様は、八岐大蛇を退治した須佐之男命の本来の姿だというからな。荒ぶる鬼神の前ではどんな邪悪な輩であろうとも赤子同然、敵無しじゃ。己を信仰する者に恵みを与え、病魔から救ってくださる。吉法師の祈りもきっとお天王様に届き、お春の病もよくなるに違いない」
「鬼神は、敵無し。どんな邪悪な者でも……」
吉法師の瞳に、二千余の提灯の火が焼きつく。
この炎は、吉法師たちを邪悪な病魔から守ってくれる牛頭天王の聖なる火なのだろうか。父の肩の上から橋や川岸を見回すと、侍や町人、農民の区別なく、数多の見物人たちが巻藁船に手を合わせ、夜の闇に燃え輝く提灯の光を見つめている。みんな、牛頭天王の神威の前に跪き、自分や家族の幸福を祈っているのだろう。
「父上……。吉法師は、分かりました。父上がいつも『たくましい武将になれ』と吉法師におっしゃっているのは、『牛頭天王のようにみんなに恐れられ、頼られる武将になれ』ということなのですね」
「……む?」
信秀は、幼い息子が自分の頭の上で急に大人びた声で話し出したため、少し驚いた。吉法師はそんな父の小さな動揺に気づくことなく、夢中になって語り続ける。
「吉法師は、父上や母上、くら姉上たち家族を守りたい。平手の爺、林、内藤、青山たち、たくさんの家来たちを守りたい。そんな頼もしい殿様になりたい。そのためには、お天王様と同じくらい強い男にならなければいけませんね。絶対に、そうなってみせます」
「あ……ああ、そうだな」
驚いたな、何という大それたことを言う奴だ、と信秀は心の中で呟いていた。
たしかに、信秀は、強くなれ、強くなれと吉法師に毎日のように言っている。だが、「神のごとき男になれ」とは一言も言っていない。さすがの信秀でも、そんな畏れ多いことは考えたこともない。それなのに、吉法師は「神と同じくらい強くなってみせる」と豪語した。この五歳児は「人間も強くなれば、神の領域に近づける」とでも思っているのだろうか……?
もしもそうならば、この子は父を遥かに凌ぐ英雄の器かも知れない。英雄とは、人の世を超越して数百年先まで語り継がれる、まさに神の領域に達した者のことなのだから。
「吉法師。お前なら、必ずやなれるぞ。牛頭天王のごとく、逆らう敵をことごとく屠り、領民たちに幸福をもたらす荒ぶる鬼神にな」
「はい! その時は、父上のことも絶対にお守りいたします!」
吉法師は、天王川に浮かぶ五艘の提灯船を眩しそうに眺めながら、父と約束するのであった。
牛頭天王のごとき武将になる。そう決意したこの夜が、後に織田信長となる少年の本当の意味での人生の始まりであった――。




