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天の道を翔る  作者: 青星明良
尾張青雲編 四章 天道是か非か
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深雪

「……で、大桑おおが城の様子はどうだ。帰蝶きちょうは、相変わらず頼純よりずみの家臣や領民たちから慕われておるか?」


 脇息きょうそくに半身を預けている素っ裸の斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)は、帰蝶から贈られた酒を盃に満たしながら、暗い部屋の片隅でさめざめと泣いている深雪みゆきにそう問うた。一刻(約二時間)ほど執拗に深雪の肉体を責めたてていたため、その声は気怠けだるげだった。


 わずかに開いている障子の隙間から月光が漏れ、深雪の色白の裸体を艶めかしく照らしている。ところどころあざがあるのは、利政に行為の最中にいじめられたからだ。首には強く絞められたあとまで残っていた。


 今宵は満月である。頼純が観月の宴を断ることは分かっていたため、宴の準備など最初からしていない。この夜はずっと、深雪の悲鳴に近い喘ぎ声をさかなにして、利政は美酒に酔いしれていた。


「いつまで泣いておるのだ、わずらわしい。早く俺の問いに答えろ」


「……妊娠しているかも知れないと言ったのに、酷いです。こんなにも激しくするなんて」


「フン、何が酷いものか。お前の父と兄は糞の役にも立たぬ武将であった。俺が『三日だけ、敵の攻撃を耐えろ。三日以内には援軍を送ってやる』と命令したのに、奴らはたった二日しか持ちこたえられずに城を落城させてしまった。おかげで、あのいくさでは俺は大いに苦戦を強いられたのだ。俺の足を引っ張った父や兄の罪滅ぼしとしてお前がねやで俺にいたぶられるのは当然のことではないか。ぐちぐち泣き言を言うな」


 苛立たしげにそう言い放った利政は、酒が空になった徳利とっくりを深雪に投げつけた。徳利は深雪の華奢な肩に当たり、彼女は「痛っ」と小さな悲鳴を上げる。


「さっさと答えろ。帰蝶の大桑城での評判はどうなのだ」


「……前にも報告した通り、帰蝶様は誰にでも愛される姫様ですので老若男女問わず人々から敬愛されています」


「野田や横山ら一部の家来はいまだに帰蝶に気を許していないようだったが、そやつらも帰蝶に篭絡されたか?」


「はい。あのお二方は『まむしの娘に気を許すなどとんでもない。あどけない姫君のふりをして、父親から何事か言い含められて嫁いできた悪女に決まっている』と夏頃までは警戒していた様子でしたが、今ではすっかり帰蝶様の天真爛漫さにほだされて、『姫様、姫様』と呼び慕っています」


「くっくっくっ……。さすがは我が娘、俺の切り札じゃ。この調子なら、そろそろ最後の仕上げに取り掛かってもよさそうだな」


 利政はにやぁ……と不気味に笑い、我が計略が順調に進んでいることを喜んだ。


 計略とは、もちろん、土岐とき頼純の排除である。


「…………」


 深雪は、ゾッとするほど冷酷な顔で微笑む利政を恐ろしげに見つめながら、苦悶の表情を浮かべている。自分を信頼してくれている頼純・帰蝶夫婦を裏切っていることに後ろめたさを感じているのだろう。


 利政は、深雪がまだ十三歳だった三年ほど前から彼女に手をつけ、密かに間諜かんちょうとして育てていた。帰蝶が嫁いだ先の城の弱点を探り、利政がその城を攻めるための有益な情報を得るためである。


 利政には、自分の娘の幸せを望む親らしい心など微塵も無い。

 頭の中にあるのは、おのれの国盗りの野望をいかにして実現させるか――ただそれだけであった。


「……しかし、私には全く分かりませぬ。なぜ、帰蝶様が頼純様を排除するための切り札となるのですか? たしかに、帰蝶様は持ち前のお優しい心と愛らしさで無自覚に大桑城の人々を魅了していますが、利政様に対する不信感はほとんど拭えておりません。頼純様が宴の誘いをお断りになったのも、利政様に何らかの企みがあるのではないかと疑ったからだと思いますが……」


 大桑城の人々は、帰蝶姫のことが大好きだ。しかし、父親の利政にはこれまでにさんざん酷い目にあわされてきたため、皆が憎みぬいている。


 帰蝶がいくら愛されても、頼純や家臣たちが利政に気を許すことなど絶対にあり得ないはずだ。頼純の警戒心を解くことができない限り、利政が頼純を罠にはめるのは至難の業だと言っていい。それなのに、利政はなぜ嬉しそうに笑っているのか……。


 深雪には、利政の意図が全く読めない。得体の知れない化け物のように思えて恐かった。


「フフ……。お前がそう疑問に思うのは仕方ない。だが、人の心はもろく移ろいやすいものじゃ。けっして心を許すまいと固く心に決めていても、頼純はすでに転びかけている。あともうひと押ししたら、奴は俺を信用しようとするだろう。帰蝶のおかげでな(・・・・・・・・)


 利政は謎めいた台詞を吐くと、ぐっと盃を飲み干す。そして、深雪のそばまで這い寄って行き、乱暴な手つきで小ぶりな乳房を握ろうとした。性欲が強い利政はもう元気を取り戻したらしい。


「も、もうやめてください。お腹の子にさわります」


 深雪は悲痛な声を上げ、身をくねらせて逃げる。利政はチッと舌打ちした。


「子供など知るか。さあ、こっちへ来い」


「このお腹の子は殿の……利政様の御子でもあるのですよ。流産してしまったら……」


「ハン、馬鹿々々しい。その腹の子が俺の子供だという証拠がどこにあるというのだ。帰蝶に付き従ってお前が大桑城へ移ってこの一年、俺がお前を抱く機会はめっきり少なくなった。月に一、二度、頼純の使者としてお前がこの城に来た時ぐらいじゃ。どうせ、頼純の若い家臣と情を交わしてはらんだのであろう」


「そ、そんな……。酷すぎます。私は、あなた様以外の男は知らないというのに……」


 利政に冷たく突き放され、深雪は再び泣き始めた。


 極端に大人しくて羞恥心しゅうちしんの強いこの少女にとって、妹のように思っている帰蝶姫の父親にある日突然犯されたことだけでも死にたいぐらい恥ずかしいことだった。そのうえ、腹の子供を認知してもらえそうにないのだから、深雪が思いつめて泣きだしてしまうのは当たり前のことである。


「ああ、うるさい、うるさい。いちいち泣くな。そんなにも俺の側室になって贅沢ぜいたくがしたいのなら、俺に認められるようにちゃんと間諜の仕事をしろ。……ほれ、この薬を受け取れ」


 利政は深雪の鳴き声をかき消すように乱暴にそう言い、小さな紙に包んだ薬を深雪の手に握らせた。


 薬と聞いた深雪は息を呑み、「もしや……」と震える声で呟いた。


「これは毒薬……ですか? む、無理です。頼純様を毒殺するだなんて、とてもではありませんが、恐ろしくて私にはできません。

 それに、頼純様は少年の頃から利政様に毒殺されることを恐れてご自分の食事には神経質なほど気をつけていらっしゃる、とご家来衆たちの噂話を盗み聞きしたことがあります。頼純様に一服盛るのは至難の業かと……」


「早とちりをするな、たわけ。頼純を毒殺しようとしたらしくじるであろうことぐらいは、俺も心得ておる。その薬を飲ませるのは頼純ではない。……帰蝶じゃ」


「え……? き、帰蝶様に毒を盛るのですか⁉ そんなこと、死んでもできません! なぜ、大事なご息女を殺めようとなさるのです! 私には、利政様のお心が分かりませぬ!」


 気弱で大人しい深雪でも、利政のこの驚くべき命令には激しい憤りを感じ、声を荒げてそう叫んでいた。


 しかし、美濃の蝮が小娘ごときにキャンキャン吠えられても怯むはずがない。「うるさいとさっきから申しておるであろうが。喚くな、少し黙れッ」と低く鋭い声で言い、片手で深雪の首を絞めた。


「あ……うぐっ……がは……。や、やめて……」


「よく聞け。これは人を殺すための毒ではない。俺が唐土もろこしの医書を読んで、様々な生薬を調合して作った薬だ。主に胸の苦しみを癒す効能を持っている。つまり、普通ならば抜群の効果がある良薬なのじゃ。

 だが……どんな良薬にも副作用というものがあってだな。その薬が体質に合わぬ人間が服用すると、思わぬ体の異変が生じることがある。この薬の場合は、呼吸が難しくなるほどのせきや高熱だ」


「咳と……高熱……。そういえば、姫様が三、四歳の頃、利政様が処方した薬を飲んで風邪が悪化したことがあったような……。けほっ、けほっ……」


 利政の首絞めからようやく解放されて息ができるようになった深雪は、苦しげな声でそう呟いた。利政は「お前もまだ小さかったはずなのに、よく覚えていたな」とニヤリと笑う。


「そうよ。俺はあの時、帰蝶が『胸が苦しい』と訴えるからこの薬を飲ませてやった。ところが、帰蝶の病状は悪化して危うく死にかけた。帰蝶の体質にはこの薬は合わなかったのだ。

 つまり、これを飲むと、帰蝶はまるで重い病気にかかったかのようになる。二、三日ほど汁物にでもこの薬をまぜて飲ませれば、帰蝶は突然倒れるはずだ。

 愛する妻が病になったら、心の優しい頼純はどうするであろうな? フフッ……きっと大いに狼狽うろたえ、帰蝶の父親であるこの俺を頼ろうとするであろう。そこで初めて、俺があの若造の心につけ入る隙が芽生える」


「そんなこと……。いくら毒ではないからといって、姫様を苦しめるようなこと……やはり私にはできません」


「できる。できるさ。嫌だと言っても、絶対にやってもらう。この仕事自体はお前にとってごくごく簡単なことのだからな」


 帰蝶は姉代わりである深雪に全幅の信頼を寄せている。そもそも、誰かを疑うという発想すら持っていない少女だ。出された食事がいつもと少し味が変わっていても、味付けがちょっと変わったのだろうと思うだけである。


 たとえ深雪が唐土の処方薬を持っていることを頼純やその家臣に発見されたところで、通常の人間には良薬となる物なので怪しまれる心配もない。深雪が帰蝶にこの薬を盛るのは容易なことだった。


「帰蝶が倒れたという報せが大桑城から届いたら、すぐに駆けつけて俺が帰蝶を治す。俺とて自分の娘を殺すつもりはない。だから、安心して我が命令を実行するのだ」


「…………」


 深雪の胸中は、利政に対する不信感が渦巻いていた。


 利政が「帰蝶を絶対に死なせない」と言っているのは、まだ帰蝶に利用価値があるからではないのか。利用価値が無くなったら、自分の娘でもこの大悪人はあっさりと見捨てるつもりではないのか……。


「どこの世界に……娘に毒を盛る父親がいるのですか。帰蝶様がお可哀想です。帰蝶様は、心の底から父のあなた様を慕っていらっしゃるというのに……」


「しつこい奴だなぁ、お前は。毒ではないと何度も言っているであろう。たしかに帰蝶がこの薬を飲み続けたら死んでしまう可能性はあるが、そうなる前に俺が適切な治療をしてやる。何も案ずるな。

 ……ああ、そうか。フン、なるほどな。褒美が欲しいから、ぐずぐず言っているのだな? いいだろう。頼純を見事始末できたあかつきには、褒美としてお前を側室にしてやろう。産まれてくる子供も、この斎藤利政の子であるときちんと認めてやる。どうだ、これで満足か」


 利政は軽薄な笑いを浮かべつつ深雪の腕を乱暴につかみ、そのほっそりとした肢体を抱き寄せる。深雪は利政の荒々しい愛撫を受けながら、「も、もしも……私がこの命令を拒否したら、どうなりますか」と問うた。


「その薬が、頼純の俺に対する警戒心を解くための突破口となるのだ。この重大な任務を拒絶するのならば、産まれてくるお前の子はからすの餌にでもなるであろうな」


「そ、そんな! この子はあなた様の――ぎっ」


 また首を絞められ、深雪は蛙が潰れたような声を出した。ぐらり……と意識が一瞬遠のきそうになる。


「腹の子を俺の子供だと認めてもらいたいのなら、俺に信頼されるように努力しろ。俺のために働け。俺の国盗りの役に立て。お前の父と兄のような役立たずにはなるな」


 利政は、深雪の耳元で呪いの言葉を囁く。


 深雪の精神は蝮の毒におかされて麻痺しつつあった。自分はどうするべきなのか、何を守るべきなのか、頭が混乱して分からない。


(分からない。分からない。分からない……。私は、お腹の子を守るために、姫様を裏切らねばならないの?)


 すでに、斎藤利政の猛毒は回りつつある。


 か弱い少女の心だけでなく、この美濃の国全体に――。

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