宴の誘い
夏の名残の蒸し暑さが薄れ、秋が深まりつつあったある日のこと――。
つい数日前にも来たばかりだというのに、斎藤利政(道三)の使者が大桑城にやって来た。
「何? また舅殿の使者が参ったのか? 今回はいかなる用件であろうか」
居室で帰蝶と寛いでいた頼純は、家臣の羽田仁左衛門から使者の来訪を告げられると、わずかに緊張した声でそう言った。快川紹喜に「利政殿にだけは気を許してはいけませぬ」と忠告されたばかりなので、警戒心を緩めまいと自らを戒めているのである。
(蝮の家来になど会いたくはないが……面会を拒絶するわけにもいかぬ)
頼純は物憂そうに腰を上げ、謁見用の広間で使者と面会した。
しかし、利政からの書状を受け取ると、頼純は早々に席を立ち、仁左衛門を伴って帰蝶がいる居室に戻った。利政に城内の様子を探って来いと命じられているかも知れないので、利政の使者とは言葉を多く交わさないように気をつけているのである。
「頼純様、お帰りなさいませ。父上の使者は何の用事でしたか?」
「うむ……。三日後に稲葉山城で観月の宴が行われるそうだ。舅殿は、その宴に私と帰蝶を誘ってくれている」
「まあ! 家族みんなでお月見するのね! とっても楽しそう!」
帰蝶がキャッキャッと楽しそうにはしゃぐ。甘えん坊の帰蝶は、父の利政や母の小見の方、兄の新九郎(後の斎藤義龍)たちに会えると思って大喜びしているのである。
「もちろん一緒に行ってくれますよね、頼純様!」
「うむ……。そうだな……」
頼純は曖昧に笑い、言葉を濁した。
(無邪気に喜んでいる帰蝶をがっかりさせたくはないが……のこのこと蝮の居城に顔を出すのは剣呑至極じゃ。宴にかこつけて誘い出し、私を恐ろしい罠に陥れるつもりやも知れぬ。愛娘である帰蝶の眼前で夫の私を殺すことはさすがにないと思うが、油断は大敵だ。
……冬の訪れが早い越前の朝倉氏は、あと一か月もしないうちに雪に道を閉ざされて動けなくなる。尾張の織田信秀は、今川義元と争ったばかりで兵が疲弊しているだろう。今、蝮の姦計にはまって不測の事態が起きてしまったら、私は朝倉や織田の救援を得られずにまたもや美濃追放の憂き目にあいかねぬ……)
帰蝶は父の利政を心優しい父親だと信じ切って慕っているため、頼純の懸念を話しても、きっと理解できずに困惑するだけだろう。帰蝶が知っている斎藤利政という子煩悩な父と、頼純を苦しめてきた斎藤利政という梟雄では、同一人物とは思えない。その人物像は天と地ほどかけ離れていた。
「頼純様……? もしかして、月見の宴がお嫌なのですか?」
頼純が黙ったまま何も答えずにいると、帰蝶が少し不安そうな顔でそうたずねた。
禅寺で一人静かに坐禅を組むことを好む頼純は、騒がしいことが嫌いだ。だから、斎藤家の人々と宴会で馬鹿騒ぎするのが嫌なのだろうか、と帰蝶は心配しているのだ。
「いや……。そういうわけではないが……」
頼純は、「宴が嫌なのではなく、そなたの父が嫌いなのだ」という本音が危うく喉まで出かかったが、何とか呑み込んだ。
可憐な仕草で小首を傾げて見つめてくる幼な妻を悲しませたくない。傷つけるような言葉を、絶対に口にしたくない。頼純はそう考えていた。
帰蝶は優しすぎる。幼すぎる。純粋で、真っ白である。父・利政の過保護な愛を受けて、何者にも心を汚されたことがない。
美しい心は、優しい心は、脆く儚い。
帰蝶が無邪気に信じている家族の愛や絆を夫の頼純が否定するようなことを言えば……「お前の父親は天下第一の極悪人で、多くの罪なき者たちを殺してきたのだ」と真実を告げれば、この純真無垢な少女の心は鏡を叩き割ったかのように粉々となり、深い悲しみの染みが彼女の清き魂を黒々と汚染するに違いない。それは頼純の望むことではなかった。
「……ええと、その……。と、殿は寒くなってくると頭痛に悩まされる病気をお持ちなのです。秋の夜長に宴に出席して頭痛がひどくなったら利政殿に迷惑をかけるのでは、と心配なさっているのでしょう。……そうですよね、殿」
「う……うん。そうだ。そのことを気にしていたのだ」
頼純が言い淀んでいると、主君の気持ちを察した家来の羽田仁左衛門が慌てて助け舟を出してくれた。
頼純の家来たちも主君と同じように斎藤利政のことは大いに忌み嫌っているが、帰蝶に対しては好意を抱いている。我が主君の可愛らしい奥方様として慕っていた。だから、利政に対する憎しみを帰蝶に極力悟られぬように彼らは日々振る舞っているのである。
「えっ? 頼純様はこの季節になると頭が痛くなるのですか? 私ったら、頼純様のお嫁さんなのにそんなことも知らなかったなんて……」
人の言葉を疑うことを知らない帰蝶は、仁左衛門の苦し紛れの言い訳を簡単に真に受けた。自分が家族と月見を楽しむことばかり考えていて、夫の体の心配をできていなかったことにひどく落ちこんでいるようだ。瞳を潤ませ、今にも泣きだしそうである。
「こらこら。泣くな、帰蝶。私が言っていなかったのが悪いのだ。そなたは何も悪くない」
「そ、そうですとも。帰蝶様、元気を出してください」
「でも……でもぉ……」
「私は宴には参加できぬが、そなた一人だけでも行って来なさい。たまには親子水入らずで月見を楽しんで……」
「大事な旦那様を置いて、妻の私だけ遊んでいられるわけがありません! 頼純様は、私がそんな冷たい女だとお思いなのですか⁉ うわぁぁぁん‼」
「しまった……。本格的に泣きだしてしまった……」
「……み、深雪殿! 助けてくだされ!」
帰蝶がわんわん泣き始め、頼純と仁左衛門は周章狼狽した。こういう場合、帰蝶の姉代わりである侍女の深雪しか幼い姫の心を落ち着かせることはできない。
「わ……分かりました。え、ええと……あの……」
いつものように、深雪は色白の顔を朱に染めて、どもりながら話し出す。ただでさえ控えめで恥ずかしがりの性格なのに、頼純と仁左衛門に救いを求めるような目で注目されて緊張しているのだろう。
「……姫様。お父上にお願いして、来年の春に花見の宴を開いてもらったらどうでしょうか? 温かくなったら頼純様の持病も治ることでしょうし、春ならば土岐家と斎藤家が一家団欒で宴を楽しめるはずです。
三日後のお月見は、お二人が宴に参加できない代わりに、私が利政様の大好きなお酒を稲葉山城までお届けします。そうすれば、利政様も『帰蝶と婿殿はなぜ来てくれぬのだ』とへそを曲げないかと。……どうでしょうか、帰蝶様」
「ぐすん……そうね。分かったわ、そうしましょう。子供みたいにぐずったりしてごめんなさい」
深雪になだめられ、帰蝶はようやく泣き止んだ。頼純はフーッと安堵のため息をつき、額の汗を拭う。
「悪いな、深雪。護衛の兵をつけるゆえ、また稲葉山城へ使いに行って来てくれ」
頼純がそう言うと、深雪は「ははっ……」と静かにひれ伏した。
頼純が深雪に稲葉山城への使いを頼むのは毎度のことである。
深雪は、利政から季節ごとに贈り物が届けられるたび、頼純が用意した返礼の品を稲葉山城へ届けてくれていた。本来ならば頼純の側近あたりが返礼の使者として稲葉山城へ赴くべきなのだが、頼純は当初、
(あの蝮のことだから、いきなり我が家臣を斬り殺すこともあり得るのでは……)
と警戒して、誰を遣わすべきか悩んでいたのである。そんな時に、普段は引っ込み思案な性格のはずの深雪が「私が行って参ります」と珍しく率先的に名乗り出てくれたのであった。
幼い頃から稲葉山城で育った帰蝶お気に入りの侍女だったら、利政にとっても身内と言っていい存在だ。深雪ならば利政に危害を加えられる心配は無いし、無難に使者の役目を果たしてくれることだろう。そう考えた頼純は、深雪に利政との連絡役を任せているのであった。
「深雪が行ってくれるのね。あっ、そうだわ。ちょうどいいから、深雪には数日の暇を出してあげるわ。稲葉山城の近くの寺にはあなたの一族のお墓もあることだし、観月の宴に出席するついでにお墓参りに行って来たらどう?」
「え? 私が宴に? め、滅相もございません。侍女の分際で、休暇をいただくばかりか姫様を放りっぱなしにして宴の席に出るなど……。ぶ、分不相応でございます。お酒を利政様にお渡ししたら、すぐに戻ってまいります」
深雪が慌てて頭を振ると、帰蝶は微笑みながら「分不相応だなんて、そんなことあるわけないじゃない」と鷹揚な声で言った。
「あなたのお父上と兄上は、私の父のために立派に戦って亡くなった忠臣なのだもの。それに、私と深雪は姉妹同然で育った仲でしょ? 深雪はれっきとした斎藤家の一員だと私は思っているし、父上だってあなたのことを娘のように思っているはずよ。だから、あなたが斎藤家の宴に出席することはぜんぜん分不相応なことではないわ」
「帰蝶様……」
「それに、ここ最近の深雪は何だか顔色が悪いみたいで心配だったの。綺麗なお月様を見ながらごちそうを食べて、家族の墓参りに行って来たら、きっと心が晴れるわ。たまには骨休めをしてきてちょうだい」
「…………」
さっきまでは宴に参加できなくてぐずっていたかと思ったら、今は侍女に対する細やかな心遣いを見せている。まだまだ頑是ない子供のようでいて、目下の者のわずかな異変にも気づくことができる鋭い観察眼を帰蝶は持ち合わせているようだ。そういう勘のいいところは父親の利政譲りなのかも知れない。
(……そういえば、言われてみたらどことなく顔が青白いような気がする。繊細な娘だから、何か人に言えぬような悩み事があるのだろうな。帰蝶の言う通り、しばらく休暇を与えてやったほうがいいようだ)
頼純は、帰蝶の指摘によって、深雪の顔の血色がよくないことに初めて気がついた。何事かを思いつめているような雰囲気を漂わせている……ように見える。ひどく内気な性格なので、大桑城での生活にまだ馴染めずにいるのだろうか?
「帰蝶の申す通りだ。ゆっくり休んで来なさい、深雪」
「……ありがとうございます、頼純様。お言葉に甘えさせて頂きます」
そう礼を言って頭を下げる深雪の顔には、あまり喜色が浮かんでいない。
この時、彼女を稲葉山城へ行かせたことが、自分の死の扉を押し開くきっかけとなることに頼純はまだ気づいていないのであった。
<土岐頼純の家臣・羽田仁左衛門(創作キャラ)について>
今回登場した羽田仁左衛門はこの物語のオリジナルキャラですが、モデルは実在した羽田左衛門という人物です。
羽田左衛門がどんな武将だったのかはほとんど不明ですが、「主君の土岐頼純の死後、南泉寺の頼純の墓前に芙蓉の木を植えた」という逸話が残っています(横山住雄氏著『武田信玄と快川和尚』(発行:戎光祥出版)より)。
羽田左衛門がどういう人物だったのか、頼純没後にどんな人生を辿ったのかなどは私の手元の資料では不明のため、創作しやすいように「羽田仁左衛門」というオリジナルキャラにしました。
いや、そんな重要人物ではないのですが、いちおうモデルがいますよということが言いたかっただけなので……(^^ゞ




