信長上洛
「尾張の織田信長という男が、大軍を率いて京に攻め込んで来るらしい」
永禄十一年(一五六八)九月。上洛作戦をとる信長軍が近江六角氏の軍勢を薙ぎ払うように打ち負かしたという噂が京都に伝わると、京の人々は尊卑の区別なく騒然となった。
すでに六角氏の諸城は織田軍の手に落ちたらしい。上洛は間近だ。尾張の田舎侍たちは京都で乱暴狼藉を働くのではないか。そんな不安が王都には広がっていた。
山科言継という公家の日記にも、
「織田出張、日々洛外洛中騒動なり」
「騒動もってのほか暁天に及ぶ」
とあり、彼は織田軍の略奪を恐れ、宝物を御所の台所に隠した。
時は戦国。強き者が弱者を蹂躙し、命と富を奪う乱世である。都は応仁の乱など度重なる戦乱によって荒れ果て、人々はこの世の地獄を何度も見てきた。尾張から攻め上って来た野蛮な田舎大名が京に新たな地獄をもたらすかも知れない、などと都人たちが戦慄したのも当然のことだろう。
だが、彼らは知らなかった。
織田信長という男の理想を。
信長が都とその周辺地域にもたらそうとしているのは地獄などではないことを――。
* * *
「儂が次期将軍の足利義昭公を奉じて上洛したからには、都においていっさいの乱暴狼藉はあってはならぬ。天下様をお守りする軍勢が盗賊まがいの行為に及ぶことは、天の道理に反することである。我らはたちまち天罰を受けるであろう。おのおの、各隊の軍規を乱すことなく行動すべし。帝がおわします禁裏の警備は特に怠ってはならん」
入京を果たした信長は、配下の部将たちに真っ先にそう通達した。
これは、上洛作戦を開始する以前から信長が幾度となく口を酸っぱくして言ってきたことである。せっかく上洛しても都で評判を落としたら木曽義仲のように破滅するぞ、などと源平合戦の故事まで引っ張り出して、家臣たちに言い聞かせていた。懇々切々と語る信長の心配と緊張が部将たちにも伝染し、兵の統率に抜かりのある部隊は一つもなかったのである。
織田軍の兵士たちの意外なほどの規律正しさが功を奏して、洛外洛中の騒動は嘘のようにおさまった。京から逃散しようと準備していた人々は荷解きをし、公家たちも信長に朝廷を守護する意思があることを知って安堵の吐息をもらした。
そして、喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったもので、
「信長というお人は先代将軍の弟君・足利義昭公に従って上洛したらしい。その義昭公の御為、京で腰を落ち着ける暇もなく、将軍殺しの三好三人衆を討つべく摂津に出陣するそうな」
「八年前、今川義元の数万の大軍をたった二千で打ち破ったらしいぞ。織田軍の足軽から聞いた話だから、間違いない」
「どのように立派な方かこの目で見てみよう」
京の人々は口々にそう言い合い、摂津方面へと出陣していく織田軍を見物しようとぞろぞろと駆けつけたのであった。
* * *
織田軍は、おびただしい数の軍旗を掲げ、京市内を整然と行進していた。
天を突かんばかりの長さの三間半槍(約六メートル強)が林をなし、火縄銃の数もかなり多いようだ。これだけの装備をそろえるには相当の財力がいるだろう。
見物人たちの中の何人かが、その威容に圧倒されつつも、「尾張の殿様は銭が好きなのかのう」と呟いていた。
黄色の絹地の旗に描かれているのは、「永楽通宝」という明国からの輸入銭である。旗竿の先には「南無妙法蓮華経」のはね題目が書きつけられた招き(細長い小旗)がはためいている。銭を旗印にするとは面白い殿様だ。
「あの、馬上でふんぞり返って満面の笑みを浮かべているのが織田信長公じゃろうか」
「違うだろう。あんな猿顔の小男が数万の大軍を小勢でやっつけられるはずがない」
口さがない京童たちが大声で好き勝手言っている。
「猿顔の小男」と馬鹿にされた木下藤吉郎秀吉はムスッと怒り、手に持っていた柿をがつがつ喰らった。その食い方がいかにも猿っぽかったため、京童たちはドッと大笑いする。
「わ、笑うなぁ!」
赤面した秀吉が唾を飛ばしながらそう喚いたが、さらなる笑いを招き寄せるだけだった。
猿顔の秀吉がひどく滑稽だったせいで、おっかなびっくり織田軍を見物していた人々の緊張もだんだんとゆるみだしたようだ。男ぶりのいい柴田勝家や滝川一益などの猛将には称賛の声をかけ、流行遅れの甲冑を着ている林秀貞や佐久間信盛には野次を飛ばした。
「……京童は噂好きだとは聞いていたが、面と向かって笑うことはないだろう。信長殿がいっさいの乱暴狼藉を禁ずると命令していなかったら、この場で無礼討ちにしてやったのに」
信長の兄である織田信広は、ならず者のような風体の若者たちに虚仮にされ、思いきり眉をひそめた。
しかし、そんな緊張感のないひと時はすぐに終わることになる。
「ヤッ、あの騎馬武者たちは――」
誰かが、張り詰めた声を上げた。
精鋭無比を誇る信長軍の親衛隊――馬廻衆が姿を現したのだ。前田利家ら歴戦の勇士たちは煌びやかな具足を身につけ、視線だけで敵兵の心臓を貫くような鋭い眼光を放っている。彼らの背中から燃え上がる闘志の焔は肉眼でも見えるようだ。ただの町人たちですら、この勇士たちが織田信長の育て上げた最強部隊であることがひと目で分かった。
そして、何よりも――。
その親衛隊に守られるようにして駒を進める長身の男に、京の人々は見惚れて押し黙ってしまっていた。ぺちゃくちゃと騒いでいたならず者たちも、その男の「異形さ」に雷に打たれたような衝撃を受け、呆然と立ち尽くしている。
美貌の人、と言っていいだろう。鼻筋は真っ直ぐ整い、口は女のように小さい。頬は痩せ、顎も少々尖り、神経質そうな顔立ちでもある。
鷹のように鋭く力強い眼差しだ、と見物人の男たちは思った。しかし、一方で町娘たちは、どことなく寂しげで優しそうな目だこと……と胸をときめかせているようである。
民衆たちはこの馬上の人の美しさに見惚れつつ、誰もが「このお方は異形だ」と感じていた。だが、こんなにも美しい男のどこが「異形」なのだろう。それが分からない。
「ありがたや、ありがたや。牛頭天王様のご降臨じゃ……」
一人の老婆が、手を合わせながら涙声でそう言った。
彼女の視線の先にあるのは、美貌の男が被っている兜だった。
その兜の前立てには、牛の頭と大きな角を持つという異形の神・牛頭天王の神紋「五つ木瓜紋」が燦然と輝いている。これは、牛頭天王と神仏習合している荒ぶる神・須佐之男命の神紋でもあり、そして織田家が代々受け継いでいる家紋だった。
老婆のそばにいた人々は、「ああ、そうか……」と納得する。
この美貌の人――織田弾正忠信長を「異形」と感じたのは、彼が全身から発している覇気に、この場にいた全ての群衆が荒ぶる神にも似た神性を感じ、
「このお方は神か人か」
と思ってしまっていたのだ。
当の信長は、民衆たちの尊崇の視線になど気づかず、
「亡き父から受け継いだ志を必ず果たしてみせる」
と気負いこんでいた。その情熱の炎が、信長に神々しいまでのカリスマ性を与えていたのだろう。
その信長の志というのは、たった四文字で表すことができる。
それは――「天下静謐」である。