過去の記憶2
ターロイが獣舎に着くと、スバルだけがまだ建物の中にいた。
「まだ逃げてなかったの? 早く出ないと危ないよ!」
「ターロイを待ってた。お前も仲間」
スバルにそう言われて、こんな時なのに思わず嬉しくなる。
物心がついた時からヒエラルキーの一番下に置かれていたターロイは、仲間や友達といったものを持ったことがなかったのだ。
スバルに対する親しみは、今や少年の心の多くを占めていた。
「じゃあ、すぐ逃げよう。どうやらスバルが狙われてるみたいなんだ」
「逃げる。だが難しい。裏手にも人間、待ち伏せいる」
「裏門にも敵がいるのか。じゃあ別のところ行こう。ついてきて」
ターロイは獣舎を出ると、村を囲う塀の隅に向かった。
途中正体不明の恐ろしげな咆哮や人々の悲鳴に震え上がったけれど、何が起こっているのか正確に分からない分、まだ動くことができた。
「ここの塀、下の方が壊れて穴が開いてるんだ。子供しか通れない大きさだから放置されててさ。ここから出よう」
「うん、早く逃げる。このあたり、さっきから嫌な臭い。鼻が利かない」
身を屈めて狭い穴を通る。そうして二人で塀を抜け、身を隠すために近くの森に向かおうとした。
が、唐突に、スバルがターロイの腕を掴んで引き止める。
どうしたのかと振り返ると、彼女が警戒するように耳をピンと立て、尻尾を逆立てていた。喉の奥でグルル、と唸る。
「人間いる。……臭い、ここまで分からなかった」
スバルがそう呟くと同時に、森の暗がりから黒づくめの男が六人ほど出てきた。正面から来た男の手には短剣が握られている。
「……もう少し進んできたら、何も分からないうちに殺してやったのに。残念ながら、村から一人も逃がすなって言われてるんだ。死んでもらうぞ」
「ど、どうして……」
「どうしても何も、一人でも逃がしたらこのやり口が外にバレちゃうだろ?」
やり口がバレる? どういうことだろう。
じりじりと迫ってくる男たちに、二人は後退った。
村に一体何が起こっているのか、さっぱり分からない。
だけど、スバルは絶対守らなくちゃ。ぼくの大事な仲間だもの。
そう考えていたターロイの前に、逆にスバルが進み出た。
「スバル、危ないよ!」
「仲間は、守る」
スバルはそう言うとすぅっと身を屈めて、皆の目の前で、少女から狼に変身をした。
「銀の狼……!」
その光景に、黒づくめの男たちが色めき立つ。
「妙なおもちゃをくっつけていると思ったが、まさか本物の獣人とは! これは何としても生け捕って帰らねば」
「狼の捕獲班は裏門にいる。呼び寄せろ」
「はっ」
男の一人が細い管のようなものを取り出して咥えた。そこからピィィと甲高い音が一帯に響き渡る。
笛だ。仲間を呼んだのだ。
それに気付いたスバルは瞬時にその男に襲いかかった。
「ぎゃああ!」
「こ、こいつ!」
喉元に噛み付いて、一撃で一人を倒す。
どうせ子供と子狼と高を括っていた男たちは、慌てて武器を構えた。それを気にせず、スバルは次の敵を狙う。
武器を持つ腕に噛み付き、そのまま肉を噛み千切った。
「くそ、凶暴な獣め! とりあえず生きていれば腕や足の一本二本、落としても構わんだろう! そいつをおとなしくさせろ! すぐに捕獲班も来る!」
リーダーらしき男が下知すると、残りの男たちは二人を取り囲んだ。何が何でも逃がさないつもりなのだろう。
ターロイは周囲に威嚇するスバルの後ろで守られながら、懸命にできることを考えた。
武器を操ることもできないし、そもそも持っていない自分が、スバルを救うためにできること。
戦いの加勢は無理だ。だとしたら、逃がす、それしかない。
男たちの意識は全てスバルに注がれていて、ターロイは気に留められていない、侮られているがゆえの一度きりのチャンスがある。
敵の増援が来る前に。時間はなかった。
さすがにスバルもこの人数を相手に全てを倒しきるのは難しい。
飛び掛かっては行くけれど、牙が届かず弾かれること数回。蹴り飛ばされて着地をし損ねたスバルに、ターロイは駆け寄った。
「スバル、逃げて。ぼくがあの一番端の男の足に体当たりする。突破口を作るまで、あいつらの気を引いて」
周囲に聞かれぬよう、小さな声でスバルに告げる。それに狼の耳がピクピクと動いて、ちゃんと話が届いているのを確認できた。
「狙われているのはスバルだ。ぼくには構わず逃げてほしい」
ターロイにとって、自分の命よりも仲間を救う方が重要だった。
どうせスバルがこのまま逃げずに戦ってもジリ貧だ。結局捕まればターロイは殺される。
だったら、せめて彼女を逃がして死んだ方がいい。
その提案に狼が首を振ったけれど、ターロイは知らぬふりをした。
「スバルが逃げないと、ぼくは無駄死にだからね?」
それだけ伝えて、その背中を撫でる。正直、仲間を守って死ねるなんて、ターロイの中ではとても上出来だと思った。
よろりと立ち上がったスバルから少し距離を取る。
暗い中でも銀の毛並みは月の光に良く映えた。おかげで自分に注目する人間は誰もいない。
少しよたよたと歩く狼は、自分に視線を向けるための演技だ。
それを確認して、ターロイはいきなり走り出し、半円状に自分たちを囲む中の、一番端にいた男の足に勢いよく体当たりした。
「うわっ!」
「スバル、今だ!」
たまらず倒れた男の足を掴んだまま、スバルに声を掛ける。
一瞬躊躇いを見せたけれど、狼は素早く地を蹴って、倒れ込んだターロイと男を飛び越えて包囲の外に出た。
「まずい! 狼を逃がすな!」
「このガキ、何しやがる!」
スバルが逃げ出したのを見届けて、ターロイは自身の行為が報われたことにほっとする。
ただ、囲みを抜けた狼がまだこちらを振り返るのを、追い立てるように声を上げた。
「早く逃げて、スバル! 絶対捕まるな!」
「ふざけやがって、こいつ、先に殺してやる!」
隣に立っていた男に蹴り飛ばされて、ターロイは地面に転がった。
視線の端で振りかぶられた短剣の刀身がきらりと光る。
ぼくはこれで死ぬんだ。
もちろん、恐怖はある。しかし自分が死ねばもうスバルが足を止める理由がなくなる。
ターロイは恐怖と逃避とあきらめと安堵、全てがないまぜになった気分で瞳を閉じた。
しかし、次の瞬間に、自身の身体の上に覚えのある感触が乗ってきて、驚きに目を瞠った。銀の毛並みが視界に入る。
同時に、キャイン、と間近で上がった獣の悲鳴が耳を打った。
逃がしたつもりのスバルが、ターロイを庇ったのだ。
「馬鹿、お前、狼の方をやるんじゃねえよ! 死んだら面倒だぞ!」
「しっ、仕方ねえだろ! こいついきなり剣の前に出てきやがって」
死ぬ? スバルが?
急いで起き上がって狼の身体を抱えると、手のひらにぬるりと熱く赤黒い血液が貼り付いた。銀色の身体が、別の色に染まっていく。ターロイは頭が真っ白になった。
スバルが、ぼくの仲間が、死んでしまう。
こんな、得体の知れない大人のせいで。
彼女が何をしたって言うんだ。ぼくが何をしたって言うんだ。
ただ大切な仲間に、生きていて欲しかっただけなのに。
それだけで良かったのに。
どうして。どうして。どうして。
……わからない。何故ぼくの仲間が死んで、お前たちが生きている?
大きな耳鳴りがして、ターロイの身体の中を、酷く冷たく鋭敏な感覚が支配した。
そうだ。お前たちが生きている意味がわからない。
みんな、死ね。
「とりあえずこのガキを片付けて、狼は持って帰るぞ。……ったく捕獲班も今頃来やがって」
男たちは加勢が来たところで、言い合いを止めて今度こそターロイに刃を向けた。
見るからに作業の一つとしての、無造作な一振り。
ターロイにはそれはとても緩慢な動きに見えた。
その手首を容易く捕まえる。
「なっ、このガキ、まだ逆ら……ぎゃああ!」
そのまま手首をへし折って、短剣を奪い取った。そのまま立ち上がり、悶絶する男の心臓を一撃で貫く。
遅い。柔い。もろい。
どうしてこんな奴らを恐れていたんだろう。
刃物など屋敷の作業で小刀を使う程度だったが、ターロイにとってはさほど問題は無かった。
力も素早さも動体視力も、驚くほど跳ね上がっている。
すぐに躊躇いなく隣にいた男に近付いて、構えられた剣を短剣で簡単に跳ね上げ、心臓を一刺し。返り血を浴びたが気にしなかった。
そのまま三人目に目を向ける。
「な、何だこのガキ、さっきまでと違う……」
「おい、そんな子供相手に何をやってるんだ」
元からいた男たちが異様な気配に息を呑んだところに、捕獲班の人間がやって来た。こちらは五人。
しかし増えたからどうということもない。
ターロイは無表情のまま、まだ駆けつけたばかりで子供を警戒していない男たちに飛び掛かった。
続けざまに二人の男の喉を掻き切る。
後ろから斬りかかってきた男がいたが、聴覚も皮膚感覚も鋭敏になっているターロイはあっさりとそれを避けて、突っ込んできていた男の額を割った。
「こ、こいつヤバい……! おい、村の中にいる奴も応援に呼べ!」
誰かが声を上げて、ピィ、ピィ、ピィと三回笛が吹かれた。
それを何の感慨もなく聞く。
形勢はまったく逆転していた。ターロイが一歩踏み出すと、男たちが後込みする。
「くそ、作戦が失敗しても殺される……。どうにか、こいつを殺らないと」
どうやらこいつらにも逃げ出せない理由があるようだ。
もちろん、ターロイの知ったことではないが。
何でもいい。死ね。
ただそれだけを脳内に置いて、ターロイは後からさらに加勢してきた人間もろとも、周囲にいた者を皆殺しにした。




