この始まりは異常
沈んでいた意識がふっと浮上し、少年の身体の感覚が最初に捉えたのは音。
鼓膜を震わす人々の悲鳴だった。
それほど遠くない場所で、半狂乱の人の声と、何かが燃え、崩れる音がしている。
ほぼ同時に、彼の鼻は腐臭の混じった鉄臭さを近くに感じ取った。
頬には冷たく固い感触。
少年は自分が床に倒れているのだと鈍い頭で理解する。感覚を追って僅かに動かした指先は妙にぬるついていた。
……俺は誰? 何をしていたんだっけ?
その段になってゆっくりとまぶたを上げる。と、異様に赤い室内が少年の視界に飛び込んできた。
血にまみれた部屋、そして死体だ。
瞳を動かして一瞥しただけでも五人ほど。瓦礫と化した家具で視界を遮られているから、その向こうにもいるだろうか。実人数はもう少し多いかもしれない。
その見える死体の全員が同じ羽根の紋章の入ったローブを着ていた。
窓の外は夜のようだが、何かが燃える炎のせいで不気味に明るい。それが血で染まった室内をさらにゆらゆらと赤く妖しく見せていた。
少年は朦朧としたまま、無感情にそれらを眺める。
この思考も身体も、全然ままならない。
起き上がろうにも、横向きに寝転がった状態の彼の身体は随分と重かった。
おかしい、外傷を受けたような痛みはどこにも感じられないのだけれど。
でもまあいいかと、少年はあきらめて力を抜く。
だって感情が抜き取られてしまったように、死への恐怖も、死体を前にした恐れも、身体が動かないことへの不安も起こらないのだ。
まるでこの身体が他人のものみたいに感じる――――――。
そう考えたところで。
不意に頭の中に知らない誰かの声が響いた。
(……適合中の発作により、誤動作を確認した。我核との異常融合により、再分離不可。特例措置をとる。お前の名を答えよ)
異常融合? 特例措置? 何のことだろう。
しかし問いかけられたことで、少年は今更のように自分の名前を思い出した。その名を自身で確認するように、緩慢に口を開く。
「ターロイ……」
発した声はひどく細かったけれど、ターロイはたったこれだけで、希薄だった精神がこの身体と繋がった感覚を覚えた。
(年齢を答えよ)
「十歳……」
(性別を答えよ)
「男……」
次いだ質問にも答えると、更に意識が戻ってきた。乖離していた心と体を自分に取り戻す感触。
他にもいくつかの問いを投げかけられて、どんどん自分の正体が固まっていく。
しかしそれに伴い、反比例するように違和感がつのり始めた。
ここに至ってようやく少年は、自身の身体の中にいるらしい、この声の主が気になってきたのだ。
「……あなたは、誰?」
(異常事態における融合により、我はすでにお前である。この問答は、我の知識と技術、能力をお前に繋げる儀式のようなものだ。……と言っても、我の能力の大半は未だ封じられているが)
「能力……?」
(繋がればすぐに分かる。……最後に一つ答えよ。お前には他人を害してでも護りたいものはあるか)
「他人を害してでも……」
そう呟いてから、ターロイははたと今更のようにこの部屋の惨状を思い出した。血を流し倒れている、害された人々。
途端に心が重くなる。
そうだ、これはあの病の発作を起こした、俺の仕業じゃないか……。
「……護りたいものが、あった」
逡巡した上で過去形で語った言葉に、声の主の指摘はなかった。
声はただ、「了解した」とだけ言って、唐突に身体の中からその気配を消した。
「あっ……!」
それと同時に、ターロイの脳内に一気になだれ込んで来たのは知り得ぬはずの大量の知識の波。それに自我が押し流されそうになったけれど、酷いめまいを覚えた程度で、どうにかそれを堪えた。
さっきの声の主の問いは、知識の奔流の中、この自我を繋ぎ止めるためのものだったのかも知れない。
……それにしても、何だろう、これは。
大戦のあった千年以上前の時代の知識、多種族の情報、戦術……。子供の自分にはこの知識の使い道がさっぱり分からない。
そしてもう一つ、大半は封じられていると言っていた『能力』。
すぐに分かると言っていたが、どうやら物を破壊する能力と、再生する能力みたいだ。
今使えるのは、どんな大きなものでも一撃で壊せる『全破壊』、ものを自分の思った通りの形に壊せる『部分破壊』、壊れた無機物を元に戻す『無機物再生』。
……何だろう、大工か解体屋になるための能力なのかな?
半ば唖然として内に溢れた知識を探っていると、
ゴゥン!
いきなり響いた窓向こうの破壊音と振動で、内に向いていた思考が突如外に引きずり出された。
そういえば、今この村は燃えているのだった。現実味の無い出来事のせいで、外への意識がすっかり閉じていた。
炎が揺れる窓の向こうに、少年は慌てて耳をこらす。
ただの火事ではない、聞こえるのは意図的な破壊音。
村が、何者かに襲われているのだ。
人の悲鳴が聞こえなくなっているから、もう村人は全滅しているのかもしれない。ここにもすぐに火の手が上がるだろう。
自分も逃げなくては死んでしまうのだけど、残念ながら意識ははっきりしていても身体は未だ動かなかった。
これはさっき起こした発作のせいだからだ。気力ではどうにもならない。
……ああこれは、駄目かもしれない。
先ほどは感じなかった間近に迫った死の恐怖を、感情を取り戻したせいでまざまざと感じてしまう。
嫌だ、死にたくない。でも。
自力での脱出は不可能、助けだって期待できない。
そもそもこんなところに一人生きている孤児がいることなど、誰も知るはずがない。
状況は絶望的だった。
……これが、俺の宿命か……。
まあ、俺みたいな奇病持ちは、この世界にいらないのかも……。
救いが見えぬ状況に、ターロイがあきらめの気持ちでそう考えたとき。
唸る炎の音に混じって、不意に部屋の外から足音が聞こえてきた。
驚きと一縷の望みが繋がったことに、少年が息を呑む。
……まだ生きている人間がいたのだ。
その足音はまっすぐこちらに向かって来て、正面に見える扉の向こう側で止まった。
躊躇うことなくすぐに扉が開かれる。
部屋に入ってきたのは、ターロイが知った顔の、眼鏡を掛けた年若い男だった。
名をグレイと言い、巡回の医術師として時折この村を訪れていた人物だ。少年は彼に、過去何度か診察を受けたことがあった。
そのグレイの着ているローブには、羽根の紋章が付いている。……つまり、ここにある死体と同じものだ。
「……これはこれは。全く派手にやりましたね」
彼は室内の惨状をさらりと一瞥し、独り言のように呟いた。しかし特段慌てた様子はない。
まるでこの部屋の事態を知っていたかのような態度だ。
「さてターロイ、身体は動きますか? ……まあ、愚問ですか。狂戦病の発作を起こして、体力が残っているはずがありませんね」
「……グレイ……。俺を捕まえに来たの? 俺があんたの仲間を殺したから」
少年の患う狂戦病とは、世界に例の少ない奇病だった。特定の事象を切っ掛けに発症し、全身体能力が跳ね上がり、代わりに自制心を失って無差別に周囲を殺傷してしまうという恐ろしい発作を持つ。
ターロイは数刻前にその発作を起こしていた。
……すなわち目の前の死体は、ターロイが狂戦病の発作で殺してしまったものだった。
ちなみにこの発作は、体力を使い果たすか気を失うまで止められないと言われている。
そして止まった後は、ブースト時の負荷が一気に身体に掛かり、こうしてしばらく動けなくなってしまうのだ。
ターロイは人が来たことに一瞬だけ助かるかもしれないと思ったけれど、彼らに捕まったら死んだも同じことだとすぐに落胆した。今日、発作前に起こった出来事を思い出して、眉を顰める。
グレイはこいつらと同じ、グランルーク教団の人間なのだ。
しかし、目の前の男は心外だとばかりに肩を竦めた。
「こんなのと仲間だなんて、失礼なこと言わないでください。こいつらはただ所属する組織が同じだけの、ゲス野郎共ですよ?」
本当に、心底嫌そうな顔をしている。
しかしすぐに表情を一転して、小さく口角を上げた。
「私は内緒であなたを連れ出しに来たんですよ、ターロイ。あいつらに見つかる前に村の外に逃げます。さあ、これを飲んで」
ちらりと窓の外を一瞥した彼が、腰に下げたポーチから小さなカプセルを取り出した。それを問答無用で口の中に突っ込まれて、言われるままに嚥下する。
途端にほわりと胃が温かくなり、身体の重怠さがなくなり、腹の底から活力が湧いて来た。
これは……超神薬?
知識が勝手に照合される。一滴で体力と精神力が回復する薬だ。今は滅んだはずの、エルフの里でしか取れない貴重なもの。
どうして彼はこんな稀少アイテムを使ってまで、俺を連れ出しに来たんだろう?
「さあ、もう動けるでしょう。正面出入り口にはあいつらがいます。裏口から出ますよ」
言いつつ腕を引かれ、強引に立たされて、わけも分からず男の後について部屋を出た。