政略結婚から始まるふたりのわがまま~夢を諦める夫に、初めて「嫌です」と言いました~
「嫌です」
結婚して十一か月。夫のエルヴィンに反対したのは、それが初めてだった。
書斎の机には二通の手紙がある。一通は昨夜届いた、王立天文院の青い印章が押された招待状。もう一通は、夫が今朝書いた返事だ。宛名はすでに記され、封をするばかりになっていた。
「……何が嫌なんだい、リディア」
「そのお返事を出すことです」
「中を読んだのか」
「いいえ。でも、北方観測所からのお誘いを断るつもりでしょう? 今朝、望遠鏡の部品を箱にしまわせたのを見ました」
エルヴィンは返事の封筒を伏せた。
「五か月も北の岬に行くんだ。冬の間、屋敷も領地の仕事も君に任せることになる。結婚してまだ一年もたっていないのに、置いていけないよ」
「どうして私が困ると、決めたんですか」
「君を困らせたくないからだ」
「でしたら、先に聞いてください」
自分の声が大きくなった。机の下で眠っていた老犬ロッタが片耳を立てる。
夫は私に優しい。いつだってそうだった。食事の皿を選ぶときも、寒い夜に暖炉の火を足すときも、彼は私が頼むより先に動いてくれる。そして私は、ありがとうと笑う。
そのせいで夫が夢をしまい込むなんて、思いもしなかった。
「君が心配することはない。私が決めたんだ」
「その決め方が嫌なんです」
エルヴィンの眉が上がった。珍しい星を見つけた観測者の顔だった。
「君が、そんなふうに怒るとは」
「私だって怒ります」
夫は手紙に触れかけ、その指を引いた。
「……今夜、話そう。少し考える時間がほしい」
「出さずに待ってくださる?」
「約束する」
私はようやく頷いた。書斎を出ると、ロッタがのろのろついてきた。
「お前はどちらの味方なの?」
犬は廊下に伏せたまま、私を見上げる。
私だって、本当は夫の味方でいたいのよ。
*
私たちの結婚は、恋から始まったものではない。
フェルナー伯爵家には土地と名誉があり、実家のバルデン家には資金と商売の伝手があった。両家のためになる縁談だったし、二十七歳になっていた私は、結婚そのものを不幸だとは思わなかった。
最初の顔合わせで、私は祖母が好んだ林檎の皮のお茶を出した。母には無難な紅茶を勧められていたけれど、自分の好きなものを一つくらい知ってほしかったのだ。
「これは紅茶ではないね」
エルヴィンはひと口で気づいた。
「すみません。お嫌いでしたら取り替えます」
「いい香りだ。ぜひこのままで」
彼は最後まで飲み干した。
あとになって知った。夫は林檎の皮のお茶が苦手だったのだ。子どもの頃に飲んだ風邪薬を思い出すらしい。
一方、私は彼が毎朝飲む苦い黒茶を断れなかった。夫婦なのだから、相手の好きなものを一緒に楽しみたいと思った。
十一か月もの間、二人とも好きではないお茶を飲み続けてきたわけだ。
笑い話のようで、今日は笑えない。
「奥様。お茶はいかがなさいます?」
午後、家政婦長のメイが茶器を運んできた。夫が幼い頃から屋敷を取り仕切る、五十を過ぎた女性だ。
「今日は林檎のお茶を。旦那様には黒茶をお願い」
メイの手が止まる。
「……ご存じだったのですね」
「あなたも知っていたの?」
「お二人で決められたことに口を出すのもと思いまして」
困ったように微笑む彼女を責める気にはなれなかった。私だって夫の好き嫌いを聞こうとしなかったのだ。
婚礼の日、祭壇の前で夫は言った。
『あなたが望まないことは、決して押しつけません』
嬉しくて、私も同じ約束をした。
私たちは、その約束を守ろうとするあまり、相手の望みを聞かなくなっていた。
*
夕食はいつもどおり七時に始まった。
白身魚の香草焼きが運ばれると、エルヴィンが取り分け用の皿に手を伸ばした。
「大きい方をどうぞ」
「あなたに差し上げます」
「私は小さい方が好みなんだ」
「……私も、大きい方が好きです」
彼は一瞬驚いてから、魚を私の皿へ移した。たったそれだけで胸が詰まり、水を飲んだ。
食後の梨が出されたところで、夫が口を開く。
「今日のことは謝るよ。北へ行く話を、君に相談しなかった」
「聞かせてください。どんなお仕事なんですか」
夫の目が少し明るくなった。
「古い星図に記された北の星の位置を、冬の夜を通して確かめるんだ。あの岬の観測所は長い間閉じていたけれど、ようやく屋根の修理が終わった。王都からではできない仕事で、私は五年前から再開を願っていた」
「なら、なおさら行きたいでしょう」
「行きたいさ。でも、君は冬至の領主会議を任されている。共同倉庫の契約も更新の時期だろう」
「私の仕事のために断るんですか」
「君を一人にしたくないんだ」
「私が行ってほしいと言ったら?」
「無理をしなくていい」
まただ。私は梨の皿を押しやった。
「無理かどうか、まだ聞いていないでしょう」
「聞いたら、君は断れないじゃないか」
「それはあなたも同じです」
エルヴィンが黙る。手元のフォークが皿に触れ、小さな音を立てた。
「行きたい、でも心配だ。一緒に考えてほしい。そう言ってくださればよかったのに」
「君に負担をかけると分かっていて、そんなことを言えるものか」
「勝手に決められる方が、私は困ります」
「……どうすればよかったのか、分からないな」
夫の声には怒りより戸惑いがあった。私も上手に言えない。ただ、笑って終わらせたら元に戻ってしまう気がした。
「エルヴィン。私たち、今、喧嘩をしているんですね」
「……そうらしい」
「初めてです」
「ああ。初めてだ」
彼が少しだけ笑った。私も口元を緩めかけたが、首を振る。
「今日は先に休みます。明日、続きを話してください」
「約束するよ」
席を立つとき、いつもなら差し出される夫の手を待たなかった。
*
翌朝、隣の枕は冷えたままだった。
夫は書斎で夜を明かしたのだろう。胸が痛み、謝りに行きたくなる。けれど、何を望んでいるのかも分からないまま仲直りするのは、違う気がした。
私は仕事着を選び、屋敷の会計係ノーラを呼んだ。
「冬至会議の帳簿を、私一人で説明できるようになりたいの」
「奥様は数字をよくご存じでしょう」
「質問されたら、旦那様を見る癖があるでしょう?」
ノーラは四十代の落ち着いた女性だ。困ったような顔で、それでも頷いた。
「では遠慮なく。川沿いの共同倉庫が満室になりました。別館を建てる案がありますが、費用はどちらの家が持ちますか」
「両家で半分ずつ……」
「その半分を出す余裕が、どちらにもございません」
私は黙り込んだ。夫が『考えておくよ』と言うたび、自分も分かったつもりになっていたのだ。
「ほかの方法を探さなくてはね」
「はい。正解が決まっている話ではございません」
納品票を調べると、倉を埋めている荷の多くは冬の間だけ置く布地だった。新しい建物を建てず、空き倉を借りてしのげるかもしれない。
「商人組合に問い合わせたいわ。私の実家にも、空いている倉を知らないか聞いてみます」
「それなら会議で比べられますね」
ノーラは帳簿の端に、私の指示を書き留めた。
結婚前、私は実家で数字を扱っていた。ところが伯爵家へ来てから、誰かの助けを待つことばかり覚えてしまったらしい。
「昼まで付き合ってくれる?」
「もちろん。今日は奥様が決める日なのでしょう」
彼女は珍しく茶目っ気のある顔をした。
*
午後、屋敷の裏にある観測室へ向かった。
屋根の半分が開く、小さな建物だ。婚約が決まる前、エルヴィンはここで私に月を見せてくれた。
『何か見たいものはある?』
『……月を』
星の名を知らないのが恥ずかしくて答えた私を、彼は笑わなかった。望遠鏡の高さを私に合わせ、真鍮の筒を何度も調整してくれた。
『月って、つるつるしたお皿ではないんですね』
『そう。遠くから見れば丸くても、近くで見るといろいろある。私はそこが好きなんだ』
あのとき初めて、この人と明日も話したいと思った。
奥から木箱の触れ合う音がする。
「どなた?」
「サーシャ・ベルンです」
現れたのは、王立天文院の観測員だった。三十三歳で夫より二つ年上。結婚式で一度会っている。
「こんにちは、伯爵夫人。北方観測の道具を取りに来たんです」
「夫は行かないと聞きましたが」
「本人はそう言っています。だから私が担当する予定です。二人で準備してきた仕事なんですけどね」
サーシャは木箱を開け、金属の定規を布で包んだ。
「北は寒いのでしょう?」
「ええ。測るたびに手袋を外していたら指が持ちません。だから、厚い手袋のまま扱える道具をエルヴィンが考えたんですよ」
棚には木の柄と歯車を組み合わせた装置が置かれていた。夫が夜中まで調整していたのを覚えている。
「五年前から再開を待っていたんです。去年ようやく屋根の修理が決まって、今年こそはと」
サーシャの指が布の上で止まる。
「夫人は、行ってほしくないですか」
「行ってほしいと思っています。でも、怖くもあります」
「それは私も同じです」
彼女は壁の北方星図を示した。王都から馬車で六日。そこから小舟で海峡を渡る。冬の海が荒れれば、帰路は何週間も遅れることがあるという。
「帰る日付は約束できないんです。そこだけは、先に知っておいてください」
その言葉で五か月という時間が急に重くなった。
「それでも、あなたは行くんですね」
「仕事ですから。それに、見たいんです。何年も追いかけてきた星を」
サーシャは笑った。怖さを知らない人の顔ではない。怖くても行きたい人の顔だ。
夫が夜の庭で空を見上げるときと、よく似ていた。
*
観測室を出ると、雨が降り始めていた。
屋敷に駆け込んだところでエルヴィンに会う。彼は濡れた私を見るなり、肩に掛けていた外套を外した。
「風邪を引く。これを」
「大丈夫。着替えがありますから」
差し出された外套が、行き場を失う。
「あなたは、私が濡れると嫌ですか」
「嫌というより、心配だよ」
「私も同じです。あなたが、行きたい場所へ行かないと聞くのは」
彼は外套を畳み直した。
「少し話せますか」
「もちろん」
小さな談話室へ入ると、夫は暖炉に火を入れようとした。私は隣の椅子を引いた。
「今は、ここに座ってほしいの」
彼は火ばさみを戻し、素直に腰を下ろす。
「今日、ノーラと倉庫のことを話しました。知らないことが山ほどあったわ。でも、まずは私が考えてみます」
「必要なら手伝うよ」
「必要になったら頼みます。あなたも、自分がどうしたいのか教えてください」
夫は長い間、手を組んでいた。指に小さな傷がある。望遠鏡の部品を削ったときについたものだ。
「……行きたい」
聞き取るのがやっとの声だった。
「北の岬で観測したい。自分の計算が正しいか確かめたい。でも、帰ってきたときに君が寂しかったと知るのが怖いんだ」
「寂しいに決まっています」
「私を嫌いになるかもしれないだろう」
思いがけない言葉に、私は顔を上げた。
私は商家の娘だ。貴族の妻として失敗したら、夫に嫌われるかもしれないと考えたことはある。でも夫も、同じことを恐れていたなんて。
「寂しいのと、嫌いは違います」
「分かっている。それでも五か月、君を一人で待たせることになる」
「待たせる、って」
言葉が勝手に出た。
「私は毎日、あなたの帰りだけを待っている人だと思われているの?」
「そんなことは言っていないよ」
「でも、そう聞こえました」
「どうして何もかも悪く受け取るんだ」
初めて聞く、硬い声だった。
私は口を開いた。『私だって怒っているのよ』と言いたいのに、出てきたのは別の言葉だった。
「……ごめんなさい。私も少し考えます」
夫は呼び止めなかった。
廊下へ出てから、私は立ち止まる。謝ったのは本心だった。でも、怒っているのも本当だ。
その両方を言えないのなら、私も夫と変わらない。
*
次の朝、夫の席は空いていた。
「旦那様は天文院へお出かけです」
メイの言葉に胸が跳ねる。
「返事を出しに?」
「そこまでは聞いておりません」
彼女は朝食の横に、塩を振った焼き栗を三つ置いた。
「今朝は奥様のお好きなものにいたしました。昨日のお茶の件で、私も反省しましたので」
「ありがとう」
「この家でも、好き嫌いはきちんとお尋ねすることにします」
「答えたくない人もいるかもしれないわ」
「でしたら、そう言っていただきます」
もっともな話に、思わず笑った。
向かいに夫のいない食卓は静かだった。昨日までだって食器の音しか聞こえない時間はあった。けれど、その合間には『明日は晴れるかな』『星の話?』『庭の洗濯物の話だよ』なんて、何でもない言葉があった。
たった二日で、もう恋しい。
私は彼に行ってほしい。それでも、いないと寂しい。どちらか一つを選ばなくてはならないのだろうか。
焼き栗を口に入れると、塩気が舌に残った。
*
昼過ぎ、夫は書斎に戻っていた。あの返事の封筒は、まだ机の上にある。
「天文院へ行ったんですね」
「サーシャから計算表を受け取ってきた。返事は出していないよ」
「期限は?」
「三日後だ。断るなら、代わりの観測員を探してもらわないと」
私は一度息を整えた。
「昨日は途中で逃げてしまって、ごめんなさい」
「私も言いすぎた」
「でも、謝って終わりにはしたくありません」
「私もだよ」
「あなたが五か月いなければ、私はきっと寂しがります。今朝だって、あなたがいなくて寂しかった」
夫が視線を落とす。
「だから行かないで、という意味ではないんです」
「……私には、その二つを別々に考えるのが難しい」
彼はしばらく庭の観測室を見つめた。
「子どもの頃、父が冬の観測へ行ったことがある。母は毎日、門を見ていた。帰りの便りが遅れ、ひどく心配していたんだ」
「お父様はご無事だったのね?」
「ああ。でも帰ってきたとき、母は笑うより先に泣いた。それから父をひどく叱ってね。父は翌年、もう冬の観測へ行かなかった」
夫は机の端を指でなぞった。
「父は優しい人だった。母も私も大切にしてくれた。でも……少し、気の毒だった。星が好きで、よく屋根裏の小窓から夜空を見ていたから」
幼い彼は、帰りを待つ母を見ていた。夢をしまった父の背中も。
「あなたが北へ行かなくても、私は幸せかもしれません。でも、そのせいであなたが屋根裏の窓から星を見上げることになったら、私は悲しいわ」
「君は言葉がうまいな」
「昨日は何度も間違えました」
「それでも、また話しに来てくれた」
私は大きな机を回り込み、夫の隣へ立った。
「私の話も聞いてください」
「うん」
「私、結婚してからも実家の仕事を続けたかったんです。けれど伯爵家の妻になったのに、商いに未練があると言えなかった。あなたがいつも助けてくださるので、甘えてもいました」
「そうだったのか。君が望むなら――」
「ほら、また」
夫が口をつぐんだ。
「あなたの許しがなくても、私は仕事がしたいと言っていい。あなたも、私の許しを待たずに北へ行きたいと言っていいはずです」
「……失礼な言い方をしたね」
「私も、あなたに『行っていい』と言っていました。自分の望みを話すべきでしたね」
「では、どうすればいいだろう」
「あなたが自分の行きたい場所を決める。私は寂しいとか、心配だとか、ちゃんと話す。その上で、二人の暮らしを考えたいの」
エルヴィンはゆっくり頷いた。
「分かった。……ところで、一つ頼んでもいいかい」
「何ですか?」
「君に抱き締めてもらいたい。いつも私の方から手を伸ばしてしまうから」
私は笑って腕を広げた。
ところが机と椅子に邪魔され、夫に近づく前に脚をぶつけた。支えようとしたエルヴィンが紙筒を落とす。大きな星図が床に広がり、二人でしゃがみ込んだ。
「大変。破れていませんか」
「紙は無事だよ。私たちの方が危なかった」
夫が星図の端を持ち、私が反対側を持つ。小さな星が二人の間に広がった。
「ねえ、これ、私にも読める?」
「一緒に読もう。今夜はどう?」
「一枚だけなら」
「五枚くらい見てもいいのに」
「眠れなくなります」
彼が心から残念そうな顔をしたので、私は笑った。
*
その夜、私たちは約束どおり星図を一枚見た。
端には大きな帆の船が描かれていた。学生の頃の夫の落書きだという。
「立派な船ね。遠くまで行けそう」
「帆が大きすぎて転覆するよ」
「そこは詳しいのね」
「船大工に見せたら怒られる」
私は声を上げて笑った。夫もつられて笑う。
こんなふうに、ずっと話していたかった。彼が知らない場所へ行くのを恐れる理由を、私も一つ見つけてしまった。
星図を巻き終える頃、壁際に二つのカップが運ばれてきた。私には黒茶、夫には林檎の皮のお茶だ。
「……エルヴィン。私、夜の黒茶は飲みません」
「えっ」
「あなたも林檎のお茶は苦手でしょう」
夫はカップを見た。
「知っていたのか」
「昨日、メイから聞きました」
「君が嬉しそうに淹れるから、言えなかった」
「私も同じです」
顔を見合わせるうち、二人とも笑い出した。
「明日の朝から、好きなものを飲みましょうね」
「では私は黒茶を」
「私は林檎のお茶」
夫は私の手を取った。その手には、遠慮しすぎた人のぎこちなさがなかった。
それでも、北へ行くかどうかの返事はまだ決まっていない。
*
翌日、私は共同倉庫へ向かった。
冬至会議までは六週間。エルヴィンが北へ行くなら、出発まで二週間ほどしかない。
川沿いの三棟を見せてもらうと、布地の倉だけがいっぱいだった。別館を建てるには大金がかかる。それなら一冬、ほかの倉を借りられないだろうか。
管理人のグラントは、私の姿を見て帽子を取った。
「伯爵様はご一緒で?」
「今日は私だけです。布を移す先について相談したいの」
「でしたら、川上に空き倉があります。ただ、船着き場が浅くて大きな荷は運べません」
「布の箱なら?」
「十分でしょう」
「では賃料を調べてください。商人組合の空き倉とも比べたいんです」
彼は私をまじまじと見たあと、鍵を持ってきた。
川上の倉は古かったが、屋根に穴はなく、冬の布を置くには悪くない。私は床板を確かめ、荷を運ぶ船賃まで含めた見積もりを頼んだ。
帰り際、扉に触れた指先へ小さな木のささくれが刺さった。
抜くと赤い点が一つ残る。地味な仕事の証だったけれど、なぜか嬉しかった。
その晩、私は夫に見積もりを見せた。
「いまは川上の倉が一番安そうなんです」
「春の増水で船がつけなくなるかもしれないね」
「だから春には元の倉へ戻すつもりです。荷を運ぶ回数が増えるのが悩みですが」
「保管する期間ごとに船賃を計算すると比べやすいよ」
「それ、私がやってみます」
「うん。分からなければ聞いて」
夫は私の帳簿をのぞき込み、赤く印を付けた数字を指した。
「値段だけではなく、運ぶ人の手間まで考えたんだね。いい案だ」
「お世辞じゃない?」
「お世辞なら、もう少し立派な言葉を使うよ」
夫が笑い、私の指先を見た。
「傷がある。痛むかい」
「もう平気よ」
エルヴィンは手のひらを返し、傷のない方へそっと口づけた。
「これで治ると思った?」
「治らないのは知っている。ただ、そうしたくなった」
今度は私が夫の手を取り、指の付け根へ口づける。
彼があまりにも驚くので、私はおかしくなった。
「君が怒ると、こんなことも起きるんだね」
「怒っただけではありません」
「分かっているよ」
夫は私を抱き寄せた。
まだ答えは出ていない。でも、夫がいなくてもできることと、夫にいてほしい気持ちを、私はようやく別々に考えられそうだった。
*
返事の期限を翌日に控えた午後、サーシャが屋敷を訪れた。
持ってきたのは北方観測所の冬服だった。厚い羊毛の上着に革のひじ当てがつき、指先を守る手袋には夫が考えた道具を扱うための留め具がある。
「エルヴィン。最後に聞くわ。本当に来ないの?」
夫は上着を見つめた。
「……まだ決めかねている」
「明日には人員を決める。準備を進めなくちゃいけないから」
サーシャは私にも日程を見せてくれた。
「王都を十五日後に出ます。岬に着いたら最初の二週間は器具の調整。その後、冬の空を四か月近く記録して、海が渡れるようになったら帰ります。日付は天気次第です」
「手紙は届きますか」
「冬の初めまでは。雪で道が閉ざされると、郵便を運べないこともあります」
「決まった日に知らせる約束はできないんですね」
「はい。そこを安心させるような嘘はつけません」
私はサーシャに礼を言った。心配させないために大事なことを隠されるのは、もう嫌だった。
彼女が帰ると、夫は冬服を膝に置いたまま動かなかった。
「やはり危険がある。連絡も途絶えるかもしれない」
「そうね」
「君は返事がないたび、心配するだろう」
「すると思います」
「眠れなくなる夜もあるかもしれない」
「きっとあるわ」
夫は冬服を握った。
「それなのに、なぜ行ってほしいと言うんだ」
「あなたが行きたいからよ」
「私は五か月も、君に何もしてやれないんだぞ」
「私もあなたの代わりに星は測れないわ」
「そういう話じゃない!」
声が響いた。廊下でロッタが短く鳴く。
私もついに立ち上がった。
「分かっているわ。あなたが私と暮らしたいと思ってくれるのは嬉しい。でも、さっきから『君は心配する』『眠れなくなる』と、私の気持ちをあなたが決めているでしょう」
「実際、そうなるんだろう!」
「そうよ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「心配するし、眠れない夜もあるわ。寂しくてあなたに腹を立てるかもしれない。それなのに、どうしてそう思うことさえ許してくれないの?」
夫が言葉を失った。
「私が寂しいと言ったら、あなたは悪い夫になるの? 私が泣いたら、あなたは夢を諦めなければいけないの? そんなこと、一度も頼んでいない!」
「……だが、私には責任がある」
「私にもあるわ。冬至会議を引き受けたのは私よ。屋敷で暮らすことも、あなたの夢を応援したいと思うことも、私が選んだの。全部あなたの責任にしないで」
エルヴィンの顔から血の気が引いた。
「……では、君は私がいなくても平気なんだな」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
「そんなことない」
声が震える。それでも、今度は引き下がらなかった。
「いてほしいわ。毎朝、隣にいてほしい。手を握ってほしいし、昼食でくだらない話もしたい。夜になったら、一緒に眠りたい。そんなの決まっているでしょう」
夫は口を開きかけ、閉じた。
「でも、それと同じくらい、北へ行ってほしいの。帰ってきたら、あなたが見た星の話を一晩中聞きたい。私の知らない空を、あなたの言葉で教えてほしい」
「……五か月だよ」
「知っています」
「もし半年になったら?」
「半年も待ったって、怒ります。手紙も山ほど書くわ。返事が遅いと文句も言うし、帰ってきたら全部聞いてもらいます」
「構わないよ」
「それに、北へ行っている間は夜の黒茶を一杯も淹れてあげません」
夫がうつむいた。口元が少し動く。
「それは困るな」
「帰ってきたら淹れます。あなたの好きな濃さで」
ようやく夫が顔を上げた。
「……君が私を必要としていないみたいな言い方をして、すまなかった」
「私も、怒鳴ってごめんなさい」
「怒って当然だよ。君の気持ちまで、自分の責任にしていたんだ」
夫は私に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「今、抱き締めたい」
「私もよ」
どちらから近づいたのか分からなかった。腕の中で、夫の心臓がいつもより速く打っている。怖かったのは私だけではない。
「次からは、遠慮しないで喧嘩しましょうね」
「なるべくしたくないけれど」
「私もよ。でも、必要なときは」
「うん。必要なときは」
少し離れると、エルヴィンは目尻を指で拭っていた。
私はその頬に手を添える。
「私も泣いていい?」
「もちろん。そんなこと、聞かなくたっていいんだよ」
言われた途端、涙があふれた。
夫は何も言わず、私が落ち着くまで背中を撫でてくれた。
*
翌朝、夫は王立天文院へ返事を出した。
「受けたよ。私が、行きたいから」
封をする前、彼は自分の言葉で書いた返事を読んで聞かせてくれた。私は文面を直そうとしなかった。
「よかった」
「よかった、だけ?」
「寂しいです」
「……うん」
「でも、やっぱりよかった」
夫は笑った。どちらかを我慢する答えではないのだと、ようやく二人で分かった気がする。
「私もバルデン家の倉庫の仕事を正式に引き受けます。母には昨夜、手紙を書いたの。結婚前に覚えたことを、これからも生かしたい」
「嬉しい知らせだね。必要なことがあれば手伝いたい」
「頼むときは頼みます。頼まないときは?」
「……君を信じて見守る」
「難しそうね」
「君の夫には練習が必要らしい」
彼が私の額に口づけた。
冬の間の屋敷の仕事は、ノーラやメイと分担した。ノーラは毎週の帳簿、グラントは倉の修理の相談相手。私が決めるべきことは私が決めるけれど、一人で全部を抱え込む必要もない。
「奥様も毎週、一日はお休みを取ってください」
予定表を手にしたメイが、きっぱりと言った。
「今からそこまで?」
「旦那様が同じことで叱られたばかりですから」
ノーラまで笑うので、私は観念して休みの日に印を付けた。
その日は庭を歩こう。読みかけの本もある。夫を待ちながら、私自身の毎日を暮らすのだ。
*
出発の十日前、夫は観測室の鍵を私に預けた。
「助手が道具を取りに戻ることもあるけれど、君が星を見たいときにも使ってほしい」
「一人でも見られる?」
「望遠鏡は君の背丈に合わせておいたよ。月なら探せる」
「満月ではない日でも?」
「むしろ、その方が面白い」
私は鍵を握った。小さくて、ずっしりと重かった。
出発前夜、二人で観測室へ行った。雲の多い季節なのに、その晩はよく晴れていた。
「北では、どの星を調べるの?」
「古い航海図にある北の星の位置だよ。岬の観測記録は古いままでね。今の空と照らし合わせて、船が進む方角をもっと確かにしたいんだ」
「船にも役立つのね」
「星は、帰る道を教えてくれるから」
夫はただ夜空を眺めているだけではない。空を見上げる余裕もない誰かのために、星を測ろうとしている。
「……あなたも、帰る道をよく確かめてね」
「もちろん。無理はしない。船長の判断にも従うよ」
「私、手紙をたくさん書きます」
「全部読みたい。届かなくても、帰ってきてから」
「約束よ」
エルヴィンは星から目を離し、私を見た。
「リディア。愛している」
「知っています」
「それでも言いたい。君が自分の望みを隠さず話してくれたから、私も行きたいと言えた」
「私も愛しているわ。だから、怖いことも寂しいことも話してね」
「次は喧嘩になる前に?」
「できれば、お茶が冷める前に」
夫は笑い、私に口づけた。
望遠鏡の金属は冷たかった。頬に触れる彼の手だけが、いつもの温かさだった。
*
夫が出発してから、手紙は四通届いた。
一通目には道中の硬いパンの話。二通目には観測所の屋根の仕組み。三通目にはサーシャが手袋を片方なくした事件。四通目には、雪の夜に観測した星の記録が細かく書かれていた。
私は十通書いた。
ロッタが庭で靴を隠したこと。冬至会議で緊張し、資料を逆さに持ってしまったこと。別館の建設を見送り、商人組合の倉を一冬借りる案が認められたこと。
母が初めて、娘の手伝いではなく仕事相手として私の意見を聞いてくれたことも。
ときには愚痴を書いた。
『今夜は寂しいです。明日は倉の契約があるので、明日の私はもう少し元気でしょう』
返事が来なくなっても、日付を付けて書き続けた。道が開けば届くはずだ。
冬至の夜、一人で観測室へ入り、細い月を見た。光と影の境目には、小さな山がいくつもある。
『今日は月に山を見つけました。帰ってきたら名前を教えてください』
その手紙も束に加えた。
春になり、北の岬を出たという知らせが届いた。けれど帰りの日付は分からない。海峡の風を待たなければならないからだ。
その夜は眠れなかった。
翌朝、赤い目で帳簿を開くと、ノーラが心配そうに声をかけた。
「怖いんです。あの人が海を渡っているのに、私には何もできなくて」
「それは怖いでしょうね」
「でも、行かなければよかったとは思わないの」
「なら、帰ってきたときに伝えましょう」
私は頷いた。その日は午前で仕事を切り上げ、庭でロッタと遊んだ。
心配していても、お腹は空く。犬は散歩を待っている。夕方には屋敷の灯りをつけなければならない。
夫が選んだ五か月を、私もこうして暮らしてきた。
*
エルヴィンが帰ったのは、出発から五か月と九日目だった。
玄関へ馬車が着く音がしたとき、私は商人組合の試算書を読んでいた。
椅子を引くのも忘れて立ち上がる。廊下の敷物で滑りそうになり、柱に手をついて走った。
玄関の扉が開く。
焦げ茶色の外套を着た男が立っていた。髪は少し伸び、目の下には薄い隈がある。大きな荷物を背負っていたが、私を見ると床へ下ろした。
「ただいま、リディア」
「エルヴィン!」
胸へ飛び込むと、彼は一歩よろめいて壁に背をぶつけた。
「おかえりなさい。遅かった! 九日も!」
「すまない。海峡で風を待ったんだ」
「心配したのよ。手紙も途中から全然来なくて」
「届いた分は全部読んだよ。何度も読み返した」
「まだ送っていないのもあるわ。聞いてほしいこともいっぱい」
「私も話したいことが山ほどある」
私は夫を見上げた。
「その前に、ちゃんと抱き締めて」
「喜んで」
厚い外套は海の匂いがした。肩に触れた手袋は冷たい。それでも、その下にある体はあたたかかった。
「あなた、帰りが遅いわ」
「本当にすまない」
「私、何度も泣いたのよ」
「うん。……話してくれてありがとう」
夫は私の頬に触れ、泣き腫らした目を見て少し顔をしかめた。でも、行かなければよかったとは言わなかった。
「北の空のこと、聞かせてね」
「夜が明けるまででも」
「それじゃ足りないかもしれないわ」
メイが玄関の奥から顔を出した。
「お茶をご用意いたしましょうか」
夫が私を見た。私も夫を見る。
「黒茶を、濃いめでお願いします」とエルヴィン。
「私は林檎の皮のお茶を。焼き栗も二人分お願い」と私。
メイは嬉しそうに頷いた。
夫が荷物を拾おうとする。私はその手を捕まえた。
「荷物はあとでいいでしょう。今はあなたと一緒に歩きたいの」
「では、少しだけゆっくり歩こうか」
「嫌です。五か月も待ったんですもの」
私はエルヴィンの腕を引いて、食卓のある部屋へ急いだ。
彼は笑いながら追いついてきた。




