一方その頃 洞窟にて②
朝、目を覚ましたとき、洞窟の中には誰もいなかった。正確には、誰もいないように見えた。
お父さんもお母さんも叔父虎も、ガブもヴァウもナーヤもいない。いつもなら誰かしらの身体が私の上か横か下にあるのに、今日は寝床の草が少しへこんでいるだけだ。夜更かししたせいで寝坊したのは確かに悪かったけど、起こしてくれてもいいじゃん! みんなどこ行ったの。
「ガウーワ、起きたかい。君の家族は外にいるよ。少し来た方がいいと思う」
天井のどこかからフィロンの声がした。やっぱりいた。姿は見えない。昨日もその前もそうだったけれど、声だけ聞くと洞窟そのものが喋っているみたいでちょっと不思議だ。たぶん岩の隙間か何かに細長い身体を押し込んでいるんだろう。
「みんな外にいるの? フィロンも?」
「私も外だよ。心配しなくても、君の家族から見える場所には出ていない。それより、妙なものが来ているんだ」
「絶対に出ないでね。見つかったら死だからね」
「その点は私の方がよく理解していると思うよ」
それはそう。昨日まで恋バナをしていた友達が、今日はお母さんのお腹の中です、なんてことになったら嫌すぎる。
私は大きく伸びをしてから洞窟の外へ向かった。入口へ近づくにつれて、家族の匂いがする。そのほかに、知らない獣の匂いも混じっていた。獲物の匂いとはちょっと違う。生きている。あと、なんか臭い。土と血と、濡れた毛と、ずっと洗っていない犬みたいな匂いがする。くちゃちゃ。
外へ出ると、家族全員が少し離れたところに集まっていた。
お父さんと叔父虎が前、お母さんがその少し後ろ。その後ろをガブとヴァウとナーヤがうろうろしている。全員が同じものを見ていた。
いつものように遊んでいる感じではない。雰囲気は深刻。でも危険という感じではない。お父さんの身体は低く、お母さんも耳を前へ向けたまま動かない。叔父虎なんて、普段なら知らないものを見つけた瞬間に「とりあえず近づこう」という顔をするのに、今日は鼻先を近づけようともしていなかった。
なになにー? 食べれるもの? 私もその輪へ加わろうと駆けていき、お母さんの後ろからひょこっと顔を出した。そこにいたものを見た。
「肉塊おばけ!」
ひっくり返った。いや、転んだ。
自分で後ろへ飛び退こうとして後ろ足が前足に引っかかり、そのままごろんと一回転した。だって肉塊だった。どう見ても肉塊だった。
小さくて、本当なら全身に毛が生えている生き物なんだと思う。でも毛がほとんどない。背中から腰にかけてごっそり抜け落ち、剥き出しになった皮膚は赤黒く、ところどころ分厚く盛り上がっていた。
乾いた泥を何回も重ねて固めたみたいにごわごわして、ひび割れたところには黒いかさぶたがついている。
首の周りにはまだ少し毛が残っているけれど、それも束になって固まり、地肌へ貼りついていた。顔もひどい。目の周りの毛がなく、耳の端はかさかさして、鼻先だけがやけに黒く見える。痩せているせいで頬が落ち、身体も肋骨の形が分かりそうなくらい細い。尻尾なんて本来はもっとふさふさしていたはずなのに、今は毛の抜けた細長い棒みたいになっていた。
知ってる。これ、知ってる。前世で見たことがある。ニュースか何かで、山の近くに怪物みたいな動物が出たと騒ぎになって、専門家が「疥癬にかかったタヌキです」と説明していた。
写真を見た私は、可哀想と思うより先に「こわっ」となり、そのあと可哀想になった。そして画像を閉じてから自分の頭まで痒くなった。
「疥癬のタヌキだ! 前世で見たことある! だから私、ノミダニ疥癬が怖かったもん! これだよ! 私が恐れてた最終形態これ!」
「なるほど。ずいぶん重度の皮膚病だね」
フィロンの声がした。近いけれど、どこにいるのかはやっぱり分からない。私が転がっている間にも、ガブとヴァウは興味津々でタヌキへ近づこうとしていた。
特にヴァウがひどい。鼻を伸ばして匂いを嗅ぎ、そのまま一歩、さらに一歩。口まで開けている。言葉がわからなくてもわかる。ちょっと味見しておきましょうね……の顔をしている。
お母さんの大きな前足が横から出てきて、ヴァウを胸元から押し戻した。反対側では叔父虎がガブの首根っこをくわえ、その場から持ち上げている。ナーヤは二匹より慎重だけれど、それでもお母さんの脚の間からじーっと覗いていた。
「いま何て言ってるの?」
「ガブは『これは何だ、まだ生きている、触りたい』。ヴァウは『変な匂いがする、少し噛んで確かめたい』。君の母君は二匹へ『触るな、病気がうつるかもしれない』と言っている。父君も同じ意見だね。叔父君は……『それは食べるものではない』と言っているよ」
「叔父虎、そこからなんだ……」
「彼にとっては重要なのだろう」
重要なんだろうなあ。野生なので。お父さんたちも、このタヌキが普通ではないことは分かっているらしい。
お父さんが低く唸ると、叔父虎もガブをくわえたまま返した。お母さんは子供たちを後ろへ追いやりながら、タヌキから視線を離さない。フィロンがそのやり取りを拾う。
「君の父君は『ひどく弱っている。ここまで来られたこと自体がおかしい』。叔父君は『匂いも悪い。肉も悪い。子供を近づけるな』。母君は『動けるうちに遠ざけた方がいい』と言っている。ただ……向こうは、それとは少し違うことを言っているよ」
「向こう?」
「この獣だよ。さっきから、殺してくれと言っている」
私は起き上がりかけた姿勢のまま止まった。タヌキを見る。さっきから逃げないとは思っていた。お父さんと叔父虎なんて、タヌキから見ればどう考えても巨大な肉食獣だ。
元気な野生動物なら見つけた瞬間に逃げるだろう。それなのに、このタヌキは地面へ腹をつけて伏せたまま、ほとんど動かない。
「殺してほしいって、自分から言ってるの?」
「ああ。身体が痛い、痒い、眠れない、もう歩けない。ここへ来れば大きな獣がいることを知っていたらしい。『食べてもいいから、早く終わらせてくれ』と」
「自殺のために私たちのところまで来たの?」
「そういうことになるね」
野生動物、覚悟ガンギマリすぎない? 私はタヌキを見た。タヌキもこちらを見ているような気がする。ただ、目の周りが腫れているのか、どこを見ているのか分かりづらい。それでも逃げようとはしなかった。
この身体で、ここまで歩いてきたのだ。どこから来たのか知らないけど、途中で倒れてもおかしくなかっただろう。それでも大型肉食獣の縄張りまで来て、食べられるために自分から姿を晒した。思っていた以上に重い話になってしまった。
「私がいたころにも、これに似たひどい皮膚病はあったよ。激しい痒みが続き、掻けば皮膚が裂け、その傷が悪くなる。人から人へ広がることもあった。君の言う疥癬が同じものなら、確かに苦しいだろうね」
「じゃあ、殺してあげた方がいいのかな」
「私はそうは思わない。苦しさの中で死にたいと言う者は、人でも珍しくなかった。だが、苦しさが取り除かれたあとまで同じことを望むとは限らない。治せる可能性があるのなら、少なくともそれを試してからでも遅くはないよ」
返事は早かった。フィロンはそれ以上何も言わなかった。そういう人なんだろう。私はもう一度タヌキを見る。治せるかどうかは分からない。私の素敵な魔法は、ノミとかダニとか、身体へ取りついて悪さをする小さいものを凍らせるだけだ。抜けた毛を生やすことも、傷を塞ぐこともできない。
でも、疥癬ってダニだったはず。たしか。たぶん。前世知識の検索結果、ものすごくぼんやりしているけれど、なんか小さいダニが皮膚に潜るやつだったと思う。
「そういえば、この子どこから来たの? 山に住んでたのかな」
「『人間のところで病気になった、家族にうつしたくない』らしい」
「人の村から来たんだ」
「君たちが以前近づいた場所と同じとは限らないが、人の住む場所がこの山の周辺にあるのは確かだろうね」
へえ。案外、人の村って近いのかもしれない。前に叔父虎と出かけたときも人間のいるところまで行ったし、今回このタヌキが自力で歩いてこられたのなら、少なくとも何十日もかかるような距離ではないだろう。人間。村。ちょっと気になる。でもそれはあと。今は目の前にもっと重大な問題がある。
ノミ。ダニ。疥癬。それ以外にも絶対いる。この状態の野生動物へ、疥癬だけが単独で「失礼しまーす」と住んでいるとは思えない。弱った身体へ便乗して、なんかもういろいろいるに決まっている。
フィロンは「硫黄さえ手に入れば……いや、今の私には軟膏を作ることも塗ることも出来ないか……」と悲しそうに呟いている。硫黄……? なんで……? 薬の原材料なのかな……。
私はそろそろとタヌキへ近づいた。お母さんがすぐに私の首元をくわえようとしたので、その前足へ自分の前足をぺたりと置く。大丈夫。たぶん大丈夫。私には対ノミダニ最終兵器があります。
タヌキから少し離れたところで止まり、前足を地面へつける。小さい悪いやつ。身体にくっついているやつ。血を吸うやつ。皮膚を齧るやつ。潜るやつ。痒くするやつ。卵を産むやつ。病気にするやつ。全部。
「ノミダニ疥癬、消えろ~~!」
胸の奥がひやりとした。白い光が私の前足から地面を走り、タヌキの身体へ触れた。次の瞬間、ぞわっとした。
毛のほとんどない背中を薄い光が包み、残っている毛がふわっと浮く。その隙間から、小さな氷の粒がぱらぱらと落ち始めた。一個、二個、十個。いや多い多い多い。首の毛から、耳の後ろから、脇の下から、腹から、尻尾の付け根から、皮膚のひび割れたところからまで、白い粒が浮き上がってくる。
前に家族へ魔法を使ったときも十分嫌だった。でも今回は比べものにならない。砂糖をまぶしましたみたいな勢いで氷の粒が出てくる。
しかも一粒一粒の中に、何か黒っぽいものだったり、白っぽいものだったり、よく分からない極小の何かだったりが閉じ込められている。
見えない。見えないけど、いることだけは分かる。見えない方がいい。詳細を確認してはいけない。私の前世知識が「疥癬の原因はものすごく小さい」と囁いている。つまり今この氷の中には、肉眼ではよく見えないサイズの何かが、もんの凄い大量に入っているということだ。
やだ。やだやだやだ。
光が消えるころには、タヌキの周りだけ細かな氷の粒がびっしり散らばっていた。お父さんたちまで一歩下がっている。ガブとナーヤは不思議そうに首を傾げている。ヴァウだけはまだ氷の粒へ近づこうとして、お母さんに前足で止められていた。
「ピギャー!」
私は全力でひっくり返った。この『ピギャー』には、『ピギャー』という意味しかない。言葉として翻訳できるようなものは何ひとつ含まれていない。
ただし私の頭の中では、うちに来ないでよ~~! お父さんにもお母さんにも叔父虎にもガブにもヴァウにもナーヤにも絶対つかないでよ~~! という悲鳴がものすごい勢いで駆け回っていた。疥癬! こわい!
一方その頃、虎一家+蛇はなんか凄いことになってるタヌキにドン引きしていた




