『イベント』の裏側
心ばかりのおもてなし、とアリアは言っていた。たしかに、心ばかりではあったのだろう。
セデ村には宿屋がない。十五人近い人間が前触れもほとんどなくやって来て、その全員へ寝床を用意しただけでも大仕事である。
各家から余っている毛布を引っ張り出し、空き部屋を詰め、馬を入れる場所を作り、薪を運び、水を汲み、それでも遠路はるばる来た客人だからと夕食まで用意した。
そこについてブラムウェルは何も言うつもりはなかった。自分の故郷だって、沖で遭難した船の人間を拾えば、どこの誰だろうとまず温かいものを腹へ入れる。客をもてなすという行為自体は理解できる。
問題は、その夕食に何を出したかである。
白い小麦粉で焼いたパン。燻製にせず冬の間ずっと凍らせて保存していた上等な鹿肉。山の木の実を蜂蜜へ漬けたもの。普段なら祭りでもなければ開けない酒。それから、去年仕込んで時間をかけて熟成させた大きなチーズ。
夕食前、厨房へ運び込まれていく食材を見たブラムウェルは、何かがおかしいとは思った。
村人たちの普段の食事を二月近く見ている。客人だから多少いいものを出すとしても、どう考えても豪華すぎる。嫌な予感を覚えて聞いてみたところ、少し前にバルト本人から聞いた話と繋がった。
もう少し暖かくなったら、バルトとジェナの結婚式がある。村中で祝うので、冬の間から少しずつ食べ物を取ってある。それだった。
「怒らないでください、ブラムウェルさん」
食事が終わったあと、空になった大皿を抱えたジェナに先回りして言われた。麦わら色の髪をした、小柄で愛らしい女性だ。通いの商人の娘で、数年前にこの村でバルトと出会い、一目惚れしたらしい。それから押して押して押しまくり、あの結構な朴念仁をとうとうその気にさせたという。ブラムウェルとしては、素直に尊敬している女性である。
「怒ってませんよ」
「本当は?」
「怒ってますよ。これ、結婚式で出す予定だったものですよね。全部とは言いませんけど、だいぶ使ったでしょう」
隠す意味もないので認めた。隣にいたバルトが、いつもの無表情でブラムウェルを見ている。
「使った。遠くから来た客だ、また狩ればいい」
「春になりかけているとはいえ、こっちはまだ雪の日が多いだろ。そう簡単に言うな」
「俺は猟師だ。お前が帰る前に式をする。今日出したやつよりでかい獲物を獲って、腹いっぱい食わせてやるよ」
「私が食い足りなくて怒ってるんじゃないんですよ」
知っている、とでも言うようにバルトは一度頷いた。たぶん本当に分かっている。バルトは長々と言葉を尽くす人間ではない。自分たちの祝いのために取っておいたものなのだから、自分たちがいいと言っているならいい。それでもブラムウェルが腹を立てているから、だったら今日よりいいものを結婚式で食わせてやる。それくらいのことなのだろう。
「うちの人の腕を信用してくださいよ。今日は急でしたから、普段食べる分を十五人分も出したら、明日から村のみんなが困るでしょう? 全部使ったわけでもありませんし、式まではまだ少しありますから。それに、ブラムウェルさんも式に来てくれるでしょう?」
「もちろんです。全力で寿ぐつもりなので覚悟してください」
「私達も覚悟して、今日よりもっと美味しいものを用意しなきゃね」
バルトは無言だったが、ジェナの「ねー?」に合わせて頷いていた。仲が良くて何よりだ。もう何も言えない。当事者二人がいいと言っている。
自分たちの祝いの食材を勝手に使われたわけではなく、二人とも納得したうえで遠くから来た客へ食べさせようと決めたらしい。
ブラムウェルはこの村の人間ですらないし、結婚式の食材について言えば、使節団と大差ない部外者である。その自分が、新郎新婦を差し置いていつまでも怒っているわけにもいかなかった。
「……あなたたちがいいなら、もう言いません。ただ、バルト。結婚式のためだからって無茶な獲物を狙うなよ」
「ああ」
返事が若干早かった。こいつ絶対でかいのを狙うな……。ここで張り切りすぎて事件が起こったら最悪なので、それについては式が近づいたら改めて釘を刺すことにして、ブラムウェルは話を終わらせた。
人間ができている。二人とも、非常に人間ができている。良かったな、ルーヴェル使節団。お前らが今日突然押しかけた村にいた結婚前の男女が、自分たちの祝いの飯を他人へ食わせても笑っていられる善良な人間で。
チッ。
もちろん心の中でである。向こうの年嵩の文官がチーズを美味そうに食っていたのを思い出して、もう一回。チッ。アリアを娼婦呼ばわりした若い神官が白いパンを二つ食っていたことを思い出した。チッ。あいつ蜂蜜までつけてたな。チッ。ゲルハルトに至っては煮込みを綺麗に平らげたあと、作った女へ頭を下げて礼まで言っていた。礼儀正しい。そこについては文句をつけようがない。チッ。もう誰に腹を立てているのか分からなくなってきた。
そんな具合に内心でのみ極めて治安の悪い時間を過ごしながら、ブラムウェルは集会所の奥の部屋へ戻った。
使節団はそれぞれ割り振られた家へ移っている。明日は改めて話し合いになるが、今夜のうちにこちら側でも今日の出来事を整理しておきたかった。部屋にはアリアとバルト、それから片付けを終えたジェナがいた。ジェナは話し合いへ参加するつもりというより、バルトが終わるのを待って一緒に帰るつもりらしい。湯気の立つ茶を両手で持ち、壁際の椅子へ座っている。
ブラムウェルが今日のやり取りを簡単に書き留めていると、向かいにいたアリアが突然、ぴんと右手を挙げた。最近、この女は何かを思いつくとまずこちらを見るようになった。以前は思いついたらそのまま動いていた。それに比べれば、挙手までして意見を求めてくるのは涙が出るほどの進歩である。
「ご意見いただきたいです!」
「はい、アリアさんどうぞ」
「今日の使節団にいた男の子なんですけど。ブラムウェルさんも見てましたよね?」
「見てましたよ。後ろの方にいた子でしょう」
十歳くらいの少年だった。身なりからしてただの見習いではない。外套そのものは地味でも生地が違うし、靴はきちんと足へ合わせた上等な山歩き用だった。腰へ下げた短剣も、子供の身体に合わせてわざわざ作られている。
使節団の中で妙に大切に扱われていたことも含め、身分のある家の子供を何かの事情で同行させているのだろうとは思っていた。
それとは別に、ブラムウェル自身も少し違和感を覚えていた。妙に落ち着いていたのだ。知らない国へ来たばかりの子供らしい好奇心がないわけではない。それでも、何かを見る時の目が違う。景色を眺めるのではなく、周囲の人間を一歩引いて観察しているようなところがあった。
大人の会話にも耳を澄ませ、自分がどう見られているのかまで考えている。賢い子供だと言われればそれまでだが、それだけでは説明しきれない気持ちの悪さが残った。
「何かありましたか」
「私、あの子にすごく見られてたんですよね。それが、なんだか変だったんです。説明が難しいんですけど……年齢に見合わない、奇妙さがあるというか……」
「もう少し具体的にお願いします」
「はい。ええと、子供って女性の胸を見ることがあるじゃないですか。小さい子なら、お母さんを思い出してるとか、赤ちゃんがお乳を飲んでるところを見たことがあって気になるとか。
もう少し大きい子でも、単に目についたから何となく見てるとか。私、子供の相手をすることが多かったので、そういうのって結構分かるんです」
大神殿にいた頃から孤児院へよく出入りしていたと言っていた。村でも子供には妙に懐かれている。そういう経験の話なら、ブラムウェルよりよほど信用できる。
「見られている方としては、何となく分かるんですよ。あ、この子は別に何も考えてないな、とか。お母さんのこと思い出してるのかな、とか。でも、あの子はなんというか……ええと……。性の対象として見ている感じが、凄くて」
「エロガキじゃねえか、きっしょくわりぃな」
思考がまっすぐ口から出た。アリアがぱちぱちと瞬きをした。バルトがこちらを見る。ジェナも茶碗を口元へ持ち上げたまま止まった。ブラムウェルは一度咳払いする。
「……失礼」
「いえ! そうです! それです!」
「そんな元気に同意しなくていいです」
だが、言葉にしてしまえば本当にそれだった。ああ、そうか。だから引っかかったのか。
ブラムウェルは昼間の少年の目を思い出した。アリアの顔を見て、身体へ視線を落とし、また顔へ戻す。その動き自体は一瞬だった。露骨に凝視していたわけでもない。むしろ、見ていると悟られないための動きが自然すぎた。
女学生を見るスケベ教授の目だ。
学生時代にいた。研究者としては優秀だった。論文も多く、学会でも名が知られ、大学では若手の進路を左右できる程度の権力を持っていた。その権力を、若い女学生へ妙な距離の詰め方をするためにも使う男だった。
露骨なことは絶対に言わない。成績を下げるとも、研究室へ残れなくするとも言わない。ただ食事へ誘い、必要もないのに二人きりになる状況を作り、肩や腰へ触れ、断られれば本人にも説明できない程度に少しずつ扱いを変える。何かをされたと訴えても、ひとつひとつ取り出せば「そのくらい」で済まされるやり方だった。
ブラムウェルの後輩も一人、狙われたことがある。正式に訴えることも考えた。権力的に勝てなかった。仕方がないので、フィールドワーク派の友人たちへ声をかけて夜道で囲んだ。
大学という場所では、どうしても文献を読む人間より山へ登る人間の方が身体が丈夫になる。森へ入る人間は腕力がある。崖へ登る人間は握力がある。大型魔獣の糞を採取するため半日追跡できる人間は、逃げる中年一人を追いかけるくらいでは息も切れない。
何があったのかについて、ブラムウェルは今でも詳細を語らない。ただ翌日、その教授は顔の片側を腫らして大学へ来て、その後は学生への距離感は常識の範囲内に留まるようになった。
まあ、若気の至りである。学生時代というのはそういうものだ。若さは凶暴性に直結する。
今同じ相談を受けたら、もちろん学生にはそんなことをするなと言う。自分がやるからお前は手を出すなと。
いや、違う。正式な手段を取る。
ともかく、あの目だ。
「分かりました。私も何か変だとは思っていたんですよ。妙に大人びているとか、そういう話じゃなかったんですね。あれ、女学生を見るスケベ教授の目だ」
「すけべ教授……」
ジェナが小さく繰り返してから、ものすごく嫌そうな顔をした。
「十歳くらいですよね?」
「見た目はね。ただ、十歳の子が年上の女性に興味を持つこと自体は別にいいんですよ。そういう子もいるでしょう。ただ普通、もう少し可愛げがありませんか。見てたのがばれて慌てるとか、顔を赤くするとか」
「目が合ったら笑ったんです。普通に。何も見てませんでしたっていう感じで。私もその時は、ちょっとませた子なのかなって思ったんですけど」
「それだ。誤魔化し方が上手すぎるんですよ」
バルトが、しばらく黙って聞いていた末にぽつりと言った。
「気持ち悪いな」
「気持ち悪いです」
「気持ち悪いですね……」
全会一致だった。客人の子供を大人四人で気持ち悪いと言うのもどうかと思うが、気持ち悪いものは気持ち悪い。
十歳なら十歳らしく、見つかったら焦るくらいの可愛げを見せてほしい。こっちはそのくらいなら、ああ年上のお姉さんに興味を持つ年頃なのね、と生温かく見なかったことにしてやれる。
それがない。見て、値踏みして、気づかれたと思えば相手が警戒しない顔を自然に作る。生々しい気色悪さがある。
少年の素性については明日ゲルハルトに確認しておいた方がいいかもしれない。別に今の段階で何かをしたわけではないが、アリアが違和感を持った以上、共有しておくに越したことはない。
そう結論づけたところで、扉が激しく叩かれた。続けざまに何度も。客が礼儀として叩いている音ではない。中に人がいるなら早く開けろという音だった。
ブラムウェルが立ち上がるより早く、扉が外から開いた。そこに立っていたのは、今しがた思い出していた若い神官だった。
オスカー。昼間、アリアを娼婦と呼んだ男である。髪が乱れていた。外套の前もきちんと留めていない。走ってきたらしく肩で息をして、昼間はあれほど刺々しかった顔から血の気が引いている。
「レオンはここにいないか!?」
アルディナ語だった。発音が少し怪しい。それでもそこまでは分かった。アリアが立ち上がる。
「レオン?」
「子供! 子供が夜いない、消えた! 知らない、私たち一緒、いつの間にか! 山!? 私行く、教えてください、道!」
一気に崩れた。普段ならもう少し話せるのだろう。昼間にも簡単なやり取りくらいはしていた。しかし完全に慌てている。語順も何もなく、知っている単語を思いついた順に並べている状態だった。
子供。いない。山。行く。その四つだけで、ブラムウェルには十分嫌な予感がした。
アリアはすぐにオスカーの前へ出て、ルーヴェル語へ切り替えた。
『落ち着いてください、私はあなたの母国語がわかります。何があったんですか?』
オスカーがはっとした。本気で忘れていたらしい。昼間、自分が母国語で吐いた悪口を綺麗に聞き取られ、その場で顔面に叩き返されたというのに、今の今までアリアがルーヴェル語を話せることが頭から消えていたようだ。
『レオンハルトがいないんだ!』
通じる言葉へ戻った途端、オスカーの表情が少しだけ緩んだ。しかし安心したわけではない。今にも泣きそうな顔になっただけだった。
『いつからですか? 最後に姿を見たのは?』
『夕食のあとまではいた。割り当てられた家へ戻って、ゲルハルト様たちと同じ部屋にいたんだ。ずっと誰かが近くにいた。なのに、寝る前に人数を確認したらいなかった。外套もない。手袋もない。短剣も持っていっている。勝手に外へ出たんだ』
ブラムウェルにも、ゆっくり話されれば半分ほどは分かる。夕食。部屋。いない。外套。短剣。頭の中で単語を繋いでいる間にも、アリアが必要なことを聞いていく。
『心当たりはありますか?』
オスカーが一度、目を閉じた。
『……ある。レオンハルトは賢い子だ。十歳にしては本当に頭がいい。剣も使えるし、魔法も使える。大人の話もよく聞いている。でも、自分の力を過信するところがある』
『神獣様ですか』
『おそらく。旅の途中から、ずっと神獣様へ会いたがっていた。私たちは何度も、勝手に近づいてはいけないと言った。出発前にも父親から、一行を離れるな、護衛の指示に従え、一人で神獣様へ近づくなと約束させられている。本人も分かったと言っていた。でも、あの子は、自分なら大丈夫だと思うかもしれない』
ブラムウェルは黙った。隣でアリアも黙った。二人の視線が合う。自分なら大丈夫だと思って、経験者から近づくなと言われた神獣へ勝手に近づいた人間が、この部屋に一人いる。アリアがそっと目を逸らした。
『他の方々はどうしていますか?』
『ヘルマン参事官が指揮を取ってる。村の中を分担して探して、出入口にも人を置いた。馬も全部いる。だから、たぶん徒歩だ。……ゲルハルト様は、もう駄目だ』
ヘルマンというのは、昼間ゲルハルトの隣にいた年嵩の文官だろう。アリアの家名を聞いた途端に顔色を変え、使節団長へ何事か耳打ちしていた男だ。あの場でも周囲を見る余裕があった。団長がまともに指示を出せない状態なら、代わって取りまとめる人間としては適任なのだろう。
『もう駄目、というのは?』
『山へ行こうとしてる。村長殿に止められてるけど、聞かない。レオンを探しに行くって……』
そこでオスカーは唇を噛んだ。焦っているせいか、さっきから言葉が短い。普段ならもう少し順序立てて説明できる男なのだろうが、今は聞かれたことへ答えるだけで精一杯らしい。
『ゲルハルト様は、レオンハルトの父親と昔からの友人なんだ。あの子が生まれた時から知っている。自分が預かって連れてきたのに、目を離した、自分の責任だって……。レオンハルトが死んだら申し訳が立たない、自分も責任を取って死ぬと泣いている。もう誰の言葉も耳に入らないんだ』
何をやっているんだ使節団長。
ただ、笑う気にはなれなかった。レオンハルトの父親との関係までは知らないが、生まれた頃から知っている子供を預かって外国まで連れてきて、その子が夜の雪山へ消えたのだ。責任ある立場の人間としても、身内としても、正気ではいられないだろう。
そこでオスカーは言葉を止めた。アリアを見て、ほんの一瞬だけ躊躇してから、両手の手袋を外した。
ブラムウェルには、次に何が始まったのか分からなかった。
オスカーは首から下げていた銀の聖印を外すと、それを右の掌へ載せた。
左の掌も上へ向け、何も握っていないことを見せるように指を開く。そのまま片膝を床へつき、背筋を伸ばしたまま両手を胸の前へ差し出す。そして、額が聖印を載せた掌へ触れそうなところまで深く頭を垂れた。
祈りにしては妙だった。神像へ向ける姿勢ではない。相手へ向けている。それも、明らかに何か形式のある動作だった。
ブラムウェルには分からない。バルトも眉を寄せ、ジェナも戸惑った顔をしている。アリアだけが息を呑んだ。
『お願いする。レオンハルトを探すのを手伝ってほしい。私たちはこの土地を知らない。この時間に山へ入れば、探す側まで死ぬと言われた。それが正しいことも分かっている。だから、あなたたちの力を貸してほしい』
アリアの顔から、昼間のことを思い出している様子は一切消えた。
『もちろんです。ですから、まず顔を上げてください』
オスカーはすぐには動かなかった。
『あなたが私へする礼としては、重すぎます』
『重くない。子供の命だ』
それでアリアも、それ以上は言わなかった。オスカーがようやく顔を上げるまで待ってから、こちらを振り返る。
「ルーヴェルの古い請願礼です。神官が自分の聖印を身体から外して掌へ載せて、もう片方の手には何も持たない。神職としての権威も、自分を守るものも使いません、ただあなたの慈悲にすがります、という意味です」
「よくやるものなんですか」
「いいえ。私も実際に見たのは初めてです。どうしても相手の助力が必要な時にする最大限の懇願です」
なるほど。昼間、この女を娼婦と呼んだ男が、数時間後には自分の国でできる最大限の礼を執って頭を下げている。
随分と忙しい一日だ。だが、少なくとも彼は自己保身に逃げなかった。
自分がどれだけ恥をかこうと、頭を下げる相手が誰だろうと、レオンハルトを探すためならやる。その点についてだけは、ブラムウェルも嫌いではなかった。
「状況をまとめます。いなくなったのは昼間の男の子。自分で外套と武器を持って出た。神獣様へ会いたがっていたうえ、自分の能力にかなり自信がある。山へ一人で入った可能性が高い、でいいですね」
「はい。使節団の方々は村の中を探しています。ゲルハルト様は……まだ止められているそうです」
「そっちはそのまま押さえておいてもらいましょう。土地勘のない大人が一人増えたところで、遭難者が二人になるだけです」
ブラムウェルは立ち上がった。怒っている場合ではない。いや、怒ってはいる。ものすごく怒っている。ただ、怒るより先に生きて連れ戻さなければならないだけだ。
「バルト。村から山へ抜けるなら、どこを通ると思う」
「北だ。昼、あの子はあっちを見てた」
「私もそう思います。まず足跡を確認しましょう。アリア、オスカーさんから服装と持ち物を全部聞いてください。使節団には、誰も勝手に山へ入らないよう伝えること」
バルトはもう壁へ立ててあった弓を手に取っていた。ジェナもすぐに立つ。
「私、灯りを集めてきます。温かいものも作っておきますね。見つかった時、冷えてるかもしれないから」
「お願いします。あと、村の人には山へ入らないように。道の入口までで十分です」
ジェナが頷いて部屋を出ていく。ブラムウェルは自分の荷物を置いていた壁際へ向かった。フィールドワーク用の装備は、いつでも持ち出せるよう一式にまとめてある。
厚手の外套。雪山用の靴。革手袋。携帯灯。火口。縄。短槍。雪の下を探る棒。止血布と薬。方位具。水筒。
研究者という仕事を、机に座って本を読むものだと思っている人間は多い。ブラムウェルの場合、実際にはこういうものを背負って泥と雪の中を歩いている時間の方が長い。
装備を確認しながら、頭の中で条件を並べる。子供。夜。雪山。土地勘なし。単独。大型魔獣の生息域。神獣へ接触するつもり。剣が使える。魔法も使える。そして本人は、自分なら大丈夫だと思っている。
死ぬ条件が綺麗に揃っている。
二十日前にも、似たような馬鹿を見た。
横を見ると、アリアと目が合う。目が合ってしまったからか、ものすごく気まずそうな顔をして口を開いた。
「……似てますね」
「自分で言うものじゃないな」
「はい」
「お前は少なくとも大人だったし、すぐ近くに俺とバルトがいた。それでもあれだったんだぞ」
「はい……」
今は説教をしている時間ではないので、それ以上は言わない。過ぎたことは蒸し返しても仕方ない、同じことを繰り返しさえしなければ、それでいい。繰り返したら次は回収もしない。雪山に還元されてもらう。
ただ、今回の馬鹿はもっと悪い。アリアは少なくとも、自分が傷ついても治るという根拠があった。間違った根拠ではあったが、本人なりの理由はあった。
あの少年は何だ。剣が使える。魔法が使える。賢い。だから知らない雪山へ一人で入っても大丈夫。
馬鹿じゃねえのか。
いや馬鹿だ。
しかも旅の間ずっと周囲の大人が止めていた。父親にも約束させられていたらしい。今日、現地の人間からも神獣へ近づくなと説明された。全部理解したうえで、自分だけは例外だと思った。それは賢いとは言わない。ただ知識のある馬鹿だ。
昼間の少年の顔が脳裏へ浮かんだ。妙に落ち着いた目。自分のことを周りの人間より一段上から見ているような態度。アリアを値踏みして、それを悟られれば子供らしい笑顔を作る。ついでに、さっきの話まで思い出す。エロガキ。スケベ教授。女を見る目だけ中年。そのくせ判断は浮かれた十歳児。
最悪の組み合わせだった。
ブラムウェルは背負い袋を乱暴に肩へ担いだ。
「浮かれボケガキが!!!」
部屋の空気が震えた。オスカーがびくっと肩を跳ねさせた。アルディナ語を多少勉強してきた青年神官にも、さすがに「浮かれボケガキ」は難しかったらしい。何を言われたのかはまったく分かっていない顔をしている。ただし、ものすごく怒っているということだけは完璧に伝わったようだった。
知るか。
ブラムウェルは短槍を掴み、アリアへ振り返った。
「お前も準備しろ!!」
「はい!」
外へ出ると、どうやら村長一人では押さえきれず、ヘルマンが人を追加で回したらしい。広場の向こうから『離してください、私が行かなければ……!』という泣き声が聞こえた。
見るとゲルハルトが男四人に腰や腕へしがみつかれたまま、それでもずるずると全員を引きずって山の方角へ進んでいる。
屈強な男たちが重りになっているのに、完全には押さえ切れていない。「縄持ってこい! 柱にくくるぞ!」という声まで聞こえる。使節団長としての威厳は完全に消えていたが、筋力だけはまるで衰えていない。
「……あの人、強くないか?」
「ルーヴェルでは神官も武闘術が基礎教養ですからね。あちらでは女神様が戦神として顕現された御姿を篤く信仰されていますので、神官が武を修めることも信仰の一部なんです。特に高位の方ほど、きちんと修めていることが多いですよ」
初めて聞いた。
ブラムウェルは泣きながら成人男性四人を運搬している神官をもう一度見た。ルーヴェルの宗教界、思っていたよりずっと物理に強い。
怖いな……。
とはいえ今は他国の神官教育へ怯えている場合ではない。ゲルハルトを押さえる役目は四人に任せ、ブラムウェルは携帯灯を掲げた。雪の向こうには、夜の山が黒々と口を開けている。
目指す先はひとつだった。ブラムウェルたちは灯りを掲げ、夜の山へ踏み込んだ。




