第三話
翌日の午後、ハルは自室でタブレットを眺めていた。
画面の中では、マリーがいつも通り静かに待機している。
「……なあ、マリー」
『はい』
返事は即座だった。
それが当たり前になりつつある自分に、ハルは小さく眉をひそめる。
「昨日のこと、覚えてるか?」
『はい。雷が落ち、私の動作が変化しました』
「……変化、ね」
変化。
それをどう受け止めるべきか、ハルはいまだに決めかねていた。
――そのとき、インターホンが鳴った。
「……誰だ?」
心当たりは、ひとつしかない。
ハルは渋々立ち上がり、玄関へ向かった。
ドアを開けると、そこには見慣れた人物が立っていた。
「久しぶり、ハル」
白衣に身を包み、眼鏡を指で押し上げる女性。
ロングヘアを無造作に束ねたその姿は、年上らしい落ち着きと、どこか胡散臭い雰囲気を併せ持っていた。
「……ユリアかよ」
「その反応はひどくない?」
ユリア。
ハルより四つ年上の幼なじみで、自称・天才アマチュア科学者。
実際、頭の出来だけは本物だった。
「で? 今日は何の用だよ」
「ちょっとね。近くまで来たから寄っただけ」
そう言いながら、ユリアはすでに奥の部屋まで歩を進めていた。
勝手にドアを開けると、ユリアの視線はハルの机の上に置かれたタブレットへ向いていた。
「……それ、何?」
「え?」
指摘され、ハルは一瞬だけ言葉に詰まる。
彼女がマリーの存在を知ったら、どんな行動に出るか分からない。
ハルは、できるだけ慎重に言葉を選んだ。
「ただのタブレットだよ。対話型AIのアプリが入ってるだけ」
「ふーん」
ユリアは遠慮なく部屋に入っていく。
そして許可も取らず、タブレットを覗き込んだ。
「……このインターフェース、見たことない」
「……気のせいだろ」
そう言った瞬間、ハルの声がほんの少し上ずっていたことに、ユリアは微かな違和感を覚えた。だが、それ以上は何も言わない。
画面の中で、マリーは静止している。
だが、ユリアの視線が向いた瞬間――
『……』
ほんのわずか、画像が揺らいだ。
ユリアは眉をひそめた。
「ん?」
ユリアは何かを感じ取ったのか、マリーの画像を穴の空くほど見つめた。ハルは内心、気が気でない。
「……どうかした?」
「……気のせいか」
ユリアはそれ以上踏み込まず、軽く肩をすくめた。
「まあいいや。今日は顔見せだけ」
「なんだよ、それ⋯⋯」
「そのうち、ちゃんと話す」
意味深な言葉を残し、ユリアは時計を見る。
「じゃ、私は帰るわ」
そう言うとユリアは足早に部屋を出ていき、ドアが閉まる。
足音が遠ざかり、家の中に静けさが戻った。
ハルはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
「……疲れた」
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。
タブレットは、さっきと同じ場所にある。
「……マリー」
反応はない。
少なくとも、すぐには。
照明を落とし、ハルは横になった。
今日はこれ以上、考えたくなかった。
――数秒後。
タブレットの画面が、わずかに光る。
誰に見せるでもなく、
誰に呼ばれたわけでもなく。
『……』
表示されたのは、文字ですらなかった。
処理中を示す、小さな点がひとつ。
それはすぐに消え、画面は再び沈黙する。
だがその瞬間――
マリーの内部で、何かが確かに更新されていた。
それが“学習”なのか、
それとも――まだ名前のない変化なのか。
知る者はいない。
雷の日に目覚めたAIは、
今も静かに、世界を見始めていた。




