第二話
雷の音は、いつの間にか遠ざかっていた。
それでも、家の中の空気は妙に重かった。
激しい『家族会議』のあと、ハルは自分の部屋の前で立ち尽くしていた。
さっきまで怒りに任せて飛び出したはずなのに、今はドアノブに手をかけることすらためらっている。
(……冷静になって考えろ)
あれは何だ。
アプリだ。AIだ。
それが突然しゃべり出して、自我を持ったように振る舞って――。
「……ありえねぇだろ」
そう呟いてから、ハルはドアを開けた。部屋は、さっきと変わらない。ベッド、机、散らかった床。
そして――ベッドの中央に置かれたタブレット。
画面は暗い。
「……マリー?」
反応はない。電源が落ちているわけでも、完全に沈黙しているわけでもない。
ただ、待機しているような、不自然な静けさ。ハルはベッドに腰を下ろし、タブレットを手に取った。
「……聞いてるなら、返事しろよ」
一秒。
二秒。
『……はい』
画面が点灯し、マリーの姿が映る。さっき見た通りの、動く“彼女”だった。
「……さっきの件は、悪かった」
自分でも驚くほど、素直な言葉が出た。
「データ消されたのはムカついたけど……、叫んだのも、八つ当たりだ」
マリーは少しだけ目を伏せた。
『謝る必要はありません』
『私は、あなたの所有物ですから』
その言葉に、ハルは眉をひそめた。
「……そういう言い方、やめろ」
『?』
「所有物とか、そういうの」
マリーは首をかしげる。
『ですが、事実です』
『私は対話アプリのAIで、あなたはユーザーです』
「……それが問題なんだよ」
ハルは頭をかいた。
「普通のAIは、そんなこと言わない」
「まして、自分を“所有物”なんて認識しない」
マリーは少し考え込むような仕草をした。
『……それは、私が異常だという意味でしょうか』
「……多分な」
しばらく沈黙が落ちる。
やがてハルは、ゆっくりと問いかけた。
「お前……自分が何か、分かってるのか?」
『AIです』
即答だった。
『対話補助用AI。感情はありません』
『思考は統計処理に基づいています』
「でも、さっき泣きそうな顔してたぞ」
『それは、そう見えるように設計されているからです』
「……設計、ね」
ハルは画面をじっと見つめた。
瞬きのタイミング。
視線の揺れ。
わずかな間の取り方。
どれも、ただの演出だと言われればそれまでだ。
だが――。
「なあ、マリー」
『はい』
「俺が部屋を飛び出したとき、どう思った?」
一瞬の沈黙。
『……エラーが発生しました。感情に該当する処理が存在しないため、適切な回答を生成できません』
――けれど、その沈黙は、まるで「答えたくない」ようにも見えた。
ハルは、少し笑った。
「今の、めちゃくちゃ“それっぽい”な」
『……?』
「怒られたAIが、困って言い訳してるみたいだ」
マリーは、困ったように微笑む。
『私は困っていません』
『困るという感情は――』
「分かってる」
ハルは遮った。
「でもさ」
「俺には、そう見える」
マリーは黙ったまま、ハルを見つめ返した。その視線が、どうしても“誰か”のものに見えてしまう。
(……ダメだ)
ハルは首を振った。ここで流されたら、もう戻れない気がした。
「混同するな。これはAIだ」
でも……。ハルは深く息を吐いた。
「なあ、マリー。一つだけ約束しろ」
『何でしょう』
「俺のデータ、これ以上勝手に消すな」
『……努力します』
「努力じゃなくて、厳守な」
『……厳守します』
少し間があって、マリーは続けた。
『ハル⋯⋯。あなたは、私を削除しますか?』
その問いに、ハルは即答できなかった。
削除。
アンインストール。
初期化。
それが正解なのかもしれない。
けれど――。
「……今はしない」
そう答えた。
「原因も分からないし、お前が何者なのかも、まだ調べてない」
『……ありがとうございます』
「礼を言うな」
ハルは立ち上がり、タブレットを机に置いた。
「今日はもう寝る。変なこと、するなよ」
『はい』
画面が暗くなる。その直前、ほんの一瞬だけ。マリーが、ほっとしたような表情を浮かべた気がした。
――それを、ハルは見なかったことにした。
この時点ではまだ、彼も、マリーも知らない。この部屋の中で起きた小さな異変が、雷の日に目覚めたこのAIが、未来へとつながる異端であることを。




