第9話 誓い市の朝
夜が明けると、谷の空気が澄んでいた。
霧が星涙樹の枝に残り、光の粒をいくつも吊るしている。
その下で、私は最後の縄を結んだ。木の看板がゆっくりと揺れ、「縫い手の学び舎 誓い市」と墨が光る。
今日は初めての“市”の日だった。
雫を金で売らず、誓いと交換する――それだけのことが、王都では異端と呼ばれる。
けれど、私の指は確かに震えていた。
「……本当に人が来るかな」
「来るよ!」とエミリアが胸を張った。「昨日、もふもふ可って書いたもん!」
アズールが喉を鳴らして、尾で彼女の頭をぽんと撫でる。
『わたし目当てで来るなら、それも学びの入口だ』
「そういう理屈、嫌いじゃないわ」
私は笑い、紅涙草で染めた紐を整えた。
丘の向こうから、最初の客が現れた。
足を引きずる老人、籠を背負った少女、旅装の女商人。
その後ろに、見覚えのある黒衣――王都の商人ギルド代表だ。
「フェンネル嬢。これが“誓い市”とやらか?」
「ええ。ここでは金貨はいりません。誓いだけ」
「誓い、とは?」
私は卓上の札を指した。
──森へ一日。
──誰かへ一晩。
──知らない誰かへ一節。
「森の手入れ、看病、そして物語。どれかを果たしたら、雫を渡します」
商人は顎に手をやり、くつくつと笑った。
「変わった市だ。だが、面白い。……見せてもらおうか、誓いの価値を」
◆◇◆
昼までに、広場は人で埋まった。
山の村から来た炭焼きが“森へ一日”の札を取り、
旅芸人が“誰かへ一節”の札を手に歌を残した。
その歌に雫の瓶が淡く光り、聴いた人々が涙を拭った。
けれど、人波の中に異質な影があった。
青い外套、見慣れぬ紋章。
アズールが小さく唸る。『王都貴族の派閥印だ。商会を通さぬ密使』
男は列を抜け、卓の前に立った。
「“奇跡の雫”を一瓶。支払いは王国議会の印章だ」
「それは誓いではありません」
「金でも権でも足りぬと?」
「ええ。この雫は均衡のものです。奪えば、毒に変わる」
男は薄く笑い、懐から瓶を取り出した。中の液体は雫に似て、だがわずかに濁っていた。
「ならばこれは? 学院の錬金師が再現した“雫”。同じものだろう?」
人々がざわめく。
私は瓶を受け取り、指先で軽く叩いた。音が違う。
澄んだ鐘ではなく、鉄の鈍い響き。
「これは偽物。毒の向きを変えられない」
男の口元が歪んだ。「ならば、確かめてみろ」
彼は近くの少女の腕を掴み、瓶の口を向けた。
私の手が勝手に動いた。
“音”を聴く。
空気の波、血の速さ、心臓の拍。
私はアズールと視線を交わし、息を重ねた。
「調律」
声が空を震わせ、偽の雫が弾ける。
霧が反転し、瓶は粉のように砕けた。
少女の腕には、紅涙草の花弁が一枚だけ落ちていた。
男は呻き、後ずさる。
「き、貴様……何を――」
「本物の雫は、人を傷つける者に触れない。それが“均衡”」
兵士が彼を取り囲み、商人ギルドの代表が前に出た。
「この男は議会派の密偵だ。雫を金貨に変えようとした。……私も見誤っていたようだ、フェンネル嬢」
「人は間違えます。大事なのは、どんな糸で結び直すかです」
アズールが静かに尾を振る。
『均衡は、恐れと勇気の真ん中にある』
◆◇◆
夕暮れ、誓い市は静かな笑い声に満ちていた。
焚き火の周りでは、今日の誓いを語る人々。
病を癒した者、森を整えた者、歌を贈った者。
その全てが、雫の光を受けて淡く照らされる。
私は泉のほとりに座り、火に手をかざした。
「ねえ、アズール。これで少しは、均衡に近づいたかな」
『近づいた。だが秤の反対側も動く。偽雫を作った者が、必ず次を打つ』
「わかってる。けれどもう逃げない。私は、毒を恐れない者たちを増やす」
エミリアが眠そうに目をこすりながら言った。
「お姉さま、明日はなにするの?」
「明日は“看取りの教室”を開く。死を怖がらない方法を、みんなに教えるの」
「こわいのに?」
「怖いままでいい。それが、人が生きる証だから」
アズールが空を仰いだ。
夜空に糸のような光がいくつも走る。
流星ではない。糸が結ばれている。
『見ろ、縫い手の星が動いた。均衡が新しい形を取ろうとしている』
私は胸の奥の弦をそっと鳴らした。
微かな音が夜気に溶け、谷のすべてが一瞬だけ同じ呼吸をした。
――毒も癒しも、誓いも、恐れも。
どれもが世界を編む糸。
ならば私は、その糸を美しく結ぶ手でありたい。