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第8話 星涙樹の根へ

 夜明け前、王都の灯が背に沈み、東の稜線が薄桃色に滲み始めた。

 アズールの背は高く、その体温は風の刃を鈍らせる。私は彼のたてがみに指を絡め、呼吸を合わせた。

 ――呼ぶ声がする。谷の底から、土の奥から、ひと雫の鼓動のような呼び声が。


 聖なる谷が見えた時、私は思わず息を飲んだ。

 霧は晴れ、紅涙草の斜面が朝日に揺れている。泉の面が鏡を返し、小屋の煙突からは細い煙。

「ただいま」

 呟くより早く、花影を割ってエミリアが飛び出してきた。

「お姉さま!」

 駆け寄る足音、抱きつく体温。胸の奥の緊張がほどける。

 アズールが低く喉を鳴らし、彼女の髪に鼻先を埋めた。


「王都は?」

「いろいろあったけど、詳しくは帰ってから。……その前に、行かなきゃいけない場所があるの」

 エミリアは真剣に頷く。「星涙樹の根だね」

「知ってるの?」

「昨夜、夢で見たの。谷の底の底、石の糸と水の糸が結ばれてるところ」

 アズールが目を細める。『森が目覚めている。行こう、薬師』


◆◇◆


 谷の中央、星涙樹はまだ夜の余韻を抱いていた。

 幹は乳白、樹皮は光の薄片を含み、根は泉の床を突き破って地の奥へ垂れている。

 泉の縁に降りると、水は思いのほか温かかった。

 私が靴を脱いだのを見て、エミリアも裾を結び、アズールは肩を貸すように身を寄せる。

 泉底に足を下ろすごとに、音が変わった。水の音、石の音、土の音――すべてが呼吸のように上がってくる。


 底に、門があった。

 門といっても扉はない。根と岩が織り合って円をなし、その隙間に、夜空のような深い暗がりが浮かんでいる。

 足元の砂が、かすかに文様を描いていた。封紋ではない。縫い目だ。

「ここが、“縫合の核”へ降りる道」

 私の言葉に、アズールが頷く。

『おまえはもう気づいている。毒も癒しも、ただの側面。根に降りれば、両方の源に触れる』


「怖い?」エミリアが問う。

「少し。でも、行くよ」

 私は深く息を吸い、円環に足を踏み入れた。


 ひと瞬きで、世界は裏返った。

 水は上になり、空は足元に落ち、音は色に、匂いは光に変わる。

 目が慣れた時、私は巨大な空洞に立っていた。

 天井は見えない。四方八方に太い根が走り、その間を無数の糸が渡っている。

 糸は石で、光で、時間で編まれている。一本一本が、誰かの痛みや歓びの響きで震えていた。


「……綺麗」

 エミリアの声はすぐ近くで聞こえるのに、遠い鐘のようでもあった。

 アズールはここでは大きすぎなかった。むしろ、この空洞が彼のために拡がっているように見える。

『ここが、根。世界の裂け目同士を結ぶ場。古い名で“綴り場”と呼ばれた』

「あなたは、ここで何をしてきたの?」

『ほどけた糸を結び、結び目の毒を舐め、痛みが残す形を学ばせた。名付けるなら、看護だ』


 足元に、ひときわ太い糸が這っていた。

 黒と白が交互に撚られ、ところどころで赤い刺が滲む。

 触れると、指先に熱と冷たさが交互に走った。

「これが、毒と癒しの糸」

『そう。そして、今は癒しがわずかに勝って、全体の撚りが緩んでいる』

 カナンの言葉が脳裏をよぎる。均衡。――私の雫が、撚りを緩めてしまった?


「戻せばいい。緩みは、もう一度撚り直せる」

 言いながら、私は自分の手の震えに気づいた。

 撚りを戻すためには、痛みも引き受ける。毒の針を、ほんの少し心に刺す必要がある。

 アズールが鼻先で私の手を包む。

『それでも行くか』

「行く。私がやったことだもの。私が結び直す」

 エミリアがそっと私の背に額を当てた。

「わたしも、ここにいる」


 私は掌を開き、奇跡の雫を一滴落とした。

 雫は糸に吸われ、内側から淡い虹が灯る。

 次に、自分の血を少し滲ませ、その上に重ねる。

 最後に、アズールの息。

 青い震えが糸の芯に届いた瞬間、世界がうなるように軋み、糸がぐっと締まった。

 熱と冷たさが一つに混ざり、痛みが形から音へ、音が光へ移っていく。

 涙が一筋、頬を落ちた。流れるのは悲しみではなく、調律の汗だ。


 撚りが締まると同時に、別の糸が震えた。

 今度は薄い銀色――祈りの糸。

 ところどころに黒い墨のようなものが染み込み、きしみを生んでいる。

「これが、封紋……」

 私は墨に指を当て、その“名”を聞いた。

 名は言葉ではない。人の恐れが固まった形。

 私は恐れを否定しない。掌に乗せ、雫で薄め、息で温め、糸と糸の間へ返す。

 祈りが歌に変わり、歌が糸を渡っていく。


 どれほどの時が経っただろう。

 気づけば、私の指先は糸と同じ微細な震えを刻んでいた。

 糸に、私の呼吸が重なり、糸の記憶が私に重なり……境目が薄くなる。

 胸の奥が一度強く痛み、次に広く開いた。

 音が色に、色が味に、味が風に変わる。

 私は世界を“解く”のではなく、“合わせる”手を手に入れた。


 ――調律者。

 名が落ち、私の中に座った。


「リリィお姉さま?」

 エミリアの声が温かい。

 私は微笑み、彼女の額に触れた。「大丈夫。ただ、すこし大きくなっただけ」

 アズールが満足げに尾を揺らした。

『おまえは“毒の女”であり、“癒しの女”であり、今は“縫い手”の同伴者だ。名に縛られるな。歩み続けろ』


◆◇◆


 帰り道、空洞の端でひと筋の影が揺れた。

 炎のような衣、紙片の翼。

 カナンが、糸の上に立っていた。

「見事だ、調律者。撚りを戻し、祈りに息を与えた。――だが、均衡は保ち続けねばならない。王都はもう動き始めている」

「何が起きるの」

「学院の塔を燃やした炎は、象徴だ。知の独占も、奇跡の独占も、均衡を壊す。

 王は守りを誓い、教会は学びを許した。――ならば次は、商人たちが“雫の市場”を作る。命に値札が付くとき、必ず誰かが釣り上げる」


 胸に冷たい風が通る。

「止める」

「どうやって?」

「供給を開く。独占を壊すのではなく、構造の方を“縫い直す”」

 言いながら、私は自分の声の芯に驚いていた。怯えの代わりに、段取りが並ぶ。

 学校、共同の工房、森と都市の往復路、価格ではなく“誓い”で支払う仕組み。

 アズールが笑うように喉を鳴らす。

『ほらな。段取りだ』


 カナンの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。

「その答えを聞きたかった。また秤が傾いたら、呼べ。――調律者」

 彼は紙片の翼を散らし、影とともに消えた。


◆◇◆


 地上へ戻ると、昼の光はやわらかく、風は甘かった。

 泉の水は透き通り、星涙樹は静かに葉を揺らしている。

 私は掌を見た。指先の震えは落ち着いたが、内側に細い弦が一本張られているのがわかる。

 必要なときに、きっと鳴る。誰かの痛みと共鳴して。


「お姉さま、学校はどこに作る?」

 エミリアの瞳がきらきらしている。

「紅涙草の丘の、風が巻かない場所。冬は霧を薄めるために、星涙樹の根の石を少し借りる。工房は泉の北側、煙が谷に降りないように煙突を高く。寝床は子どもから――」

『段取り、段取り』

 アズールの冷やかしに、私は笑った。


 そこへ、谷の外れから馬の蹄音。

 商隊だ。黒衣の商人――あの日の男が、こちらに手を振っている。

「噂を聞いて戻ってきた。王都では“雫の市”を開く案が出ている。価格は王が決め、教会が認め、学院が鑑定する――そういう話だ」

 私は首を振った。「それは均衡を壊す。命は競りにかけるものじゃない」

 男は肩を竦めた。「だろうな。だからこそ、君の場で“別のやり方”を見たい」

「なら手伝って。市場じゃない、“祈願所”を。支払いは金貨じゃなくて“誓い”――森への奉仕、誰かへの看病、知の共有。雫は学びと引き換えに手渡す」

 商人は目を細めた。「採算は?」

「森が利を付ける。命が戻れば、土地が豊かになる。あなたの荷が軽くなる」

 男は唇の端を上げた。「いいだろう。賭ける価値がある」


◆◇◆


 夕刻、焚き火を囲んだ。

 エミリアは翌日の看板づくりに夢中で、アズールは彼女の足元を枕にしている。

 私は薄い紙に“綴り場規定”の草稿を書いた。

 ──雫は売らない。

 ──学ぶ者に渡す。

──誓いは三つから選べる:森へ一日、誰かへ一晩、知らない誰かへ一節。

 ──雫は奇跡ではなく、呼吸の延長。

 ──毒は罰ではなく、選択肢。

 最後に、私は一行を加えた。

 ──この場はすべての名の外に在る。悪女でも、聖女でも、王でも、乞う者でも。


 筆を置いた時、風が頁をめくった。

 谷の向こう、王都の方角に小さな狼煙。

 セラフィナからの合図だ。

 紙には短い書付が結ばれていた。

《鍵の複写は貴族議会の一派。雫を貨幣化し、戦の資金に充てる目論見。至急、対抗の場を》

 私は火の光の中で目を細めた。

「来るね」

『来い。谷は広い』とアズール。

 エミリアが看板を掲げて笑う。

「できた! “縫い手の学び舎 見学自由 もふもふ可”」

「最後の行……まあ、事実だし、いいか」


 夜が降り、星が幾つも縫い合わされていった。

 私の胸の弦が、遠い痛みにふっと共鳴する。

 王都のどこかで、誰かが泣いている。

 明日、その糸に触れよう。

 売らぬ雫と、学びと、誓いを持って。


 ――毒と癒しの間に、人の道を縫い合わせるために。

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