第7話 燃ゆる学院塔
鐘が鳴り止まぬ。夜の王都が、まるで心臓そのもののように脈打っていた。
王城のバルコニーから見下ろすと、学院の高塔が真っ赤に染まり、黒煙が空を裂いている。
炎は風に煽られ、尖塔の先端を呑みこみながら崩れ落ちていく。
私は息を呑んだ。「……あれは、学院の魔導庫!」
アズールが低く唸り、翼のように尾を広げた。
『封紋の残り香がする。燃えているのは、ただの紙ではない』
セラフィナが肩越しに叫ぶ。「行くわよ、リリィ! 資料の中に封印術の原本がある。誰かが意図的に――!」
私は頷き、彼女の手を取った。
「行きましょう。あの炎を、鎮めなきゃ」
◆◇◆
王城から学院までは二刻ほど。
アズールの背に跨がり、夜風を裂いて駆け抜けた。
焦げた木材の匂い、割れたガラスの音、人々の悲鳴。
塔の根元では、見習い魔導師たちが必死に消火魔法を放っていたが、炎は“拒むように”燃え広がっていた。
「違う……これは自然の火じゃない」
私は膝をつき、指で灰をすくった。
灰が赤く、じんわりと脈動している。
「生きてる……」
セラフィナが目を見開く。「封印解除の逆術式だわ。燃やすことで“封印を解く”ための……」
その言葉を最後まで言わせなかった。
塔の中心から、音がした。
金属でも、石でもない。心臓が割れるような音。
そして、燃え盛る炎の中から――“人の形”が立ち上がった。
◆◇◆
男だった。
白い外套をまとい、胸元には封紋の刻印。
背には黒い翼。燃え残った紙片がその周囲を回転し、まるで羽のように見える。
「封紋師……」
セラフィナの声が震えた。
「千年前、王国を滅ぼしかけた“封じの賢者”。文献の中でしか――」
男は微笑んだ。
「賢者、か。呼び名は千年経っても変わらぬな」
その声は、人の声というよりも、風そのものが言葉を選んで喋っているようだった。
「アズールよ、我を忘れたか」
アズールの瞳が光を宿した。
『……カナン。まだこの世に縫い目を欲するか』
「縫い目では足らぬ。世界は崩れかけている。毒と癒し、祈りと封印――その境界を壊さねば、新しい秩序は生まれぬ」
私は一歩踏み出した。
「あなたがレオン王子を封じたのね」
男は静かに頷く。
「あの少年は“門”を見てしまった。毒の谷の底、星涙樹の根に眠る“縫合の核”を。
王族の血がそれを動かせると知れば、争いになる。だから、眠らせた」
「……あなたは、世界を守るために人を封じたの?」
「守る? 違う。私はただ、均衡を保ちたい。毒が蔓延しすぎれば、癒しは腐る。癒しが増えすぎれば、毒は力を失う。
リリィ・フェンネル、お前が奇跡の雫で毒を“すべて”癒やした瞬間、世界の針が片方に傾いたのだ」
胸が凍る。
――癒しが、世界を壊す?
◆◇◆
アズールが前に出た。
『わたしが選んだ女を、秤にかけるな。毒と癒しの間に在る者こそ、均衡そのものだ』
「ならば証明せよ。彼女がこの炎を鎮められるなら、私は退こう」
男――カナンが腕を広げると、炎が再び塔を包んだ。
熱が皮膚を焼き、息ができない。
私はアズールの首元を掴み、叫んだ。
「風を、借りるね!」
『好きにしろ、薬師!』
私は瓶を開いた。奇跡の雫が、夜気を切って散る。
火の粒と混ざり、青白く光る。
けれど、火は消えない。
“毒のような火”だ。――癒しを拒む。
脳裏に、エミリアの声が蘇る。
《毒も人も、どっちも大事なんだよね?》
私は膝をつき、燃える床に手を当てた。
焼けた木の下に、まだ生きている根がある。
“毒を薬にする”のではない。
“毒と共に、生かす”んだ。
手のひらから血が滲む。
その血に雫を混ぜ、私は呟いた。
「――燃えるなら、燃やしきれ。燃え尽きた灰が、薬になるまで」
青と赤が混じり合い、炎が逆流した。
塔全体が光に包まれ、瞬く間に沈黙する。
燃えていたはずの書棚は灰一つ残さず、ただ中央に一輪の紅涙草が咲いていた。
◆◇◆
風が止み、煙が上空で輪を描く。
カナンはその光景を見上げ、微笑んだ。
「……均衡の詩、か。なるほど、アズールが惚れるわけだ」
アズールが低く唸る。『惚れるなどと言うな』
カナンは掌を差し出し、指先に小さな符を浮かべた。
「世界の縫い目が軋みを上げる日、また会おう。リリィ・フェンネル」
炎の残り香とともに、彼の姿は霧に溶けた。
セラフィナが私の肩を掴む。
「生きてる?!」
「……ええ。けど、彼の言葉が気になる。“星涙樹の根”……」
「それが、本当の奇跡の源かもしれない」
夜空の向こうで、王城の鐘が再び鳴る。
遠く、谷の方角に淡い光――まるで呼びかけるように、森が揺れていた。
私は唇を結んだ。
「行かなきゃ。あの場所に」
『戻るのだな』
「うん。私の始まりの場所、そしてきっと……世界の縫い目の中心」
アズールが翼を広げる。
夜風が血と灰を洗い流し、王都の明かりが遠ざかっていく。
毒の森が、再び私を呼んでいた。