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第6話 神聖会議

 王都からの召喚状は、白い封蝋に金の王冠を浮かせていた。

 文面は丁寧で、しかし逃げ道を閉ざすほどに整っている。


王国は“聖なる谷”の変化と、奇跡の雫の効能を確認した。

王国・教会・学院の三者による「神聖会議」において説明の栄を給す。

安全は王命をもって保証する。


 保証。処刑前夜にも、似た言葉を聞いた。私は紙から視線を外し、泉に映る空を見た。

 隣で、アズールが尾を一度だけ振る。『選ぶのはおまえだ』という、いつもの調子だ。


「行くよ」

 自分の声が、思ったより静かだった。

「ここは森が守ってくれる。私が外へ出て、毒と癒しの境目を、もう一度言葉にしなきゃ」


「わたしも行く!」と、エミリアが手を挙げる。

 私はしゃがみ込んで彼女の瞳を覗き込んだ。

「王都は、森よりずっと刺が多い。……でも、あなたの目が必要なときが来る。だから――」

「わかった。谷を守る係、がんばる。もふもふの毛をちゃんと梳かして、花も摘んでおく」

 アズールが嬉しそうに喉を鳴らした。


 出立の日、私は谷に簡易の護りを編んだ。毒壺花の油を薄く塗り、風の筋を調え、星涙樹の露を門に垂らす。

 触れた者に敵意がなければ、甘い香りだけが残り、敵意があるなら、霧が濃くなる。

「帰ってくる」

 エミリアの額に口づけると、彼女は小さな手で私の袖を握り、離してくれた。


◆◇◆


 王都までの街道は、噂で満ちていた。

 馬上の兵がひそひそと私を振り返り、旅籠の娘が目を丸くする。

 「聖女さま」「毒の女」――互いに矛盾する呼び名が、同じ口から交互に転がる。

 アズールは霧を纏うように歩き、道端の子どもに鼻先を差し出しては、尻尾で線香花火のような円を描いてみせる。笑いがこぼれ、恐れがほどけた。


 三日目の夕刻、城壁が見えた。

 白い石の塔、鐘楼、尖塔。

 かつて処刑台が据えられた広場は、人波のざわめきに飲まれている。

 私の踵が石畳に触れた瞬間、心臓が小さく跳ねた。

 ――大丈夫。私は逃げに来たのではなく、話しに来たのだ。


 王城の大広間。高い天窓から光が落ち、床の大理石に三つの影を描いた。

 宰相クローヴィス――灰色の瞳の男が王権を代表し、

 大司教マルセル――白金の刺繍をまとった教会の長が聖印を掲げ、

 学院長セラフィナ――黒衣の女性が書板と水晶を携えている。

 三者三様の笑み。等しく、己の皿をいっぱいにした策士の笑みだ。


「フェンネル嬢。お戻り、痛み入る」宰相が口火を切る。

「あなたを“悪女”とした過去の不手際は、すでに検証中だ。まずは、民のために奇跡の雫の説明を」

 大司教が指先で十字の印を切る。「神意に背かぬものであろうな」

 学院長は無駄のない声で言った。「再現性、手順、危険性。全て開示願いたい」


 私は胸元の瓶を出した。虹色に揺れる液体。

「まず、これは“奇跡”ではありません。毒の性質を観察し、森の呼吸に合わせ、聖獣の息で位相――“毒の向き”を反転させたものです」

 セラフィナの眉がわずかに動く。「位相、とは?」

「毒には“とどめる毒”と“流す毒”がある。からだに残るものは死を呼び、通り抜けるものは学習を残す。私は後者に味方する」


 大司教が鼻で笑った。「詭弁だ。毒は毒。神が与えた試練だ。人の手で弄ぶな」

 アズールが私の背後で、ゆっくりと立ち上がる。青い目が大司教の胸甲に映り、ざわめきが走る。

 宰相が手を上げて収めた。「言葉より示せ。南区で“虚無熱”が流行っている。どの薬も効かず、祈りも届かぬ。救えるか?」


 虚無熱――。皮膚の温感を奪い、脈を浅くし、食物の味さえ消す厄介な熱だ。

 私は頷いた。「患者を」


◆◇◆


 南区の療養院は、干した薬草と汗の匂いが混じっていた。

 痩せた少年が横たわり、母親が手を握って祈っている。

 私は脈に指を添え、舌を見、爪の色を見た。からだは戦っているのに、戦い方がわからない――そんな脈だ。


 瓶を開ける前に、私は窓を開けて空気を替えた。

 アズールが喉で低く歌う。風が部屋を一巡りし、壁の埃がわずかに輝く。

 私は雫を一滴、少年の舌に落とした。

 すぐに効かせない。からだに“覚えさせる”ため、薄く薄く、呼吸に合わせて三度。

 やがて、少年の肩がふっと落ちた。

 強張っていた肋骨が、柔らかな弧を描く。

 頬に、色が帰る。


 母親が泣き笑いの顔で私を見た。

「……味が、する」少年が囁く。

「何の?」

「スープの、匂い」

 厨房で煮えている薄い麦粥の湯気が、確かに甘い。

 周りの見習い修道女たちが手を合わせ、小さな歓声が起こった。


 背中に、視線。振り返ると、セラフィナがじっと雫の瓶を見つめていた。

「聖獣の息が媒介、という仮説は正しい。だが、あなたの“落とし方”が鍵……呼吸への同調と、毒の向きを反転させる微細な振幅」

「学院長、理解してくださるなら嬉しいです」

「理解はする。だが、学院の術式ではまだ再現できない」


 大司教は沈黙していた。祈りの言葉が、薄く唇からこぼれる。

 宰相が短く言った。「一例では足らぬ。もう一つ、王城で診てもらいたい者がいる」


◆◇◆


 王城の奥、重い扉をくぐる。

 見覚えのある天蓋、金糸の刺繍。

 胸が冷え、足が止まった。

 ――ここは、王子の寝室。私が“毒殺”の罪を着せられた場所。


 寝台には、若い男が静かに横たわっていた。

 穏やかな顔。けれど、呼吸は浅い。

 皿に入ったパンは乾き、銀の水差しは埃を被っている。

 宰相の声が低く落ちた。「第一王子レオン。おまえの処方の後、突然倒れ、そのまま眠り続けている。生きている――だが、目を開けぬ」


 私は膝を牢に置き、指先を彼の脈に触れた。

 静かすぎる。深い地下水脈のような脈だ。

 舌の先に薄い金属の味――毒ではない。毒より古い、封じ。

 額の生え際。肉眼では見えない微かな痕。

 私はわずかな息で呟いた。「封紋ふうもん。……誰が?」


 セラフィナが瞬きをした。「見えるのか」

「森が教えてくれた。目ではなく、からだの困り方が、触れればわかる」


 私は雫の瓶に指をかけ、すぐに離した。

 これは違う。雫は毒の向きを変える。封じを解くには――名を呼ぶ必要がある。

 からだという土地に刻まれた“鍵の名”。

 その名を、聖獣の息でなぞってやる。


「アズール」

 聖獣が寝台の傍らに座り、青い目を細めた。

 私が額に手を置き、彼の喉に掌を当てる。

 私の呼吸、王子の呼吸、アズールの息――三つをひとつに重ねる。

 喉奥で、ごく微かな震えを作る。

 封紋の筋が、浮かぶ。

 私はそれに沿って、古い祈りの音を置いた。祈りではない。森の唄。毒を湿らせ、封を乾かす歌。


 ――カン。

 小さな音が、指先で鳴った気がした。

 次の瞬間、レオンの睫毛が震え、ゆっくりと持ち上がる。

 淡い金の瞳が光を集め、焦点を結んだ。


「……リリィ?」

 世界が一瞬、無音になった。

 大司教が椅子の肘を握り、セラフィナの書板が音を立てて床に落ちる。

 宰相は、はじめて表情を崩した。


「どうして、君が……」

 王子の声は乾いていた。

「あなたが倒れた日、私は……」

「覚えている。侍医の配合を変えたのは君だ。色は見慣れないが、匂いは正しかった。なのに、誰かが――」

 レオンは眉を寄せ、こめかみに手を当てる。「光のない部屋で、祈りの言葉を……」


 私は宰相を見た。「封じた者を、探してください」

 宰相はゆっくり頷いた。「王命として」


 大司教の声が震えた。「封紋は、古い典礼にしか残っていない……誰がそんなものを」

 セラフィナはふっと息を吐いた。「“奇跡の雫”は万能ではない。だが、あなたは毒と異端と祈りの境目を、言葉にできる」

「私は薬師です。毒も祈りも、からだに起きる“出来事”のひとつにすぎない」


 レオンが私の手を握った。

 温かい。

「君を、守れなかった。すまない」

「今はいいのです。あなたが生きている。それで」


◆◇◆


 神聖会議は、急ごしらえの祝宴に姿を変えた。

 民衆は広場で歌い、鐘楼の鐘が鳴った。

 “毒使いの悪女、生還の聖女へ”――軽薄な看板が屋台に躍るのが、少しおかしかった。


 控えの間で、宰相が私に向き直る。

「提案がある。聖なる谷を“王国保護領”とし、自治を認める。条件は一つ――雫の製法を、王国が独占しないこと。代わりに、森への武力介入は二度と行わないと誓う」

 私は息を吸い、吐いた。

「受けます。ただし、もう一つ条件を。教会と学院に“毒の学校”を併設すること。毒を恐れるだけでなく、扱い方を教える場を作って」

 セラフィナが微笑んだ。「学院は歓迎する」

 大司教は険しい顔のままだったが、やがてため息をついた。「……神の試練を、学ぶ場とするなら、よかろう」


 そのとき、壁のフレスコ画に目が止まった。

 剣を掲げる獣と、琥珀の冠。

 私は歩み寄り、指先でなぞる。「この獣……」

 アズールが私の肩越しに画を見、目を細めた。

『むかし、われは“縫い手”と呼ばれた。毒と毒の間、傷と傷の間、世界の裂け目を縫い合わせるもの』

 大司教の顔色が変わる。「古伝にある“縫合神ほうごうしん”……教会はそれを、悪しき獣の寓意として塗り替えた。まさか、実在……」

 アズールの声が、部屋の全員に落ちた。言葉ではなく、音の形で。


『わたしは神ではない。名は時に人がくれる。森の名、獣の名、そして女の名……。リリィ、選ぶのはいつもおまえだ』


 私はアズールの首に手を回した。

「選ぶよ。毒と祈りを縫い合わせ、誰も置いていかない道を」


◆◇◆


 夜更け、王城のバルコニー。

 下では人々が踊り、空には紙の灯が浮かんでゆく。

 レオンが薄い羽織を掛けてくれた。

「君は、戻ってくるのか」

「谷に。私はあそこが、わたしの居場所だもの」

「なら、いずれ訪ねる。民としてでも、王としてでもなく、病めるひとりの人間として」

 彼は少年のような笑みを見せた。「そのときは、苦い薬でも頑張って飲む」

「甘くする方法も、教えてあげます」


 背後から気配。セラフィナが小声で言う。

「封紋を施した者の手がかりが出た。教会の古文書庫の鍵が、誰かに複写されていた」

 遠く、鐘楼で鐘がひとつ鳴る。

 大司教の衣の裾が、夜風に揺れていた。


 私は夜空に浮かぶ紙灯を見上げた。

 炎は小さく、けれど確かに上へ。

 毒も祈りも、風に乗せれば、遠くへ行ける。

 アズールが隣で座り、頭を私の肩に預ける。

『明日、谷に帰ろう。学校の場所を選ばねばならぬ』

「うん。紅涙草の丘に講堂を――冬は風を避けられるように。寝床は小さい子から」

『おまえはすぐに段取りを語る』

「薬師だから」


 笑い合ったそのとき、広間の下から、甲高い警笛が上がった。

 火の線が、夜の闇を横切る。

 城壁の外、黒い煙。

 セラフィナが顔を上げる。「学院の塔が――!」


 風が変わった。

 甘いはずの夜が、一瞬で鉄の匂いに染まる。

 私は足場を蹴って走り出した。

 守るべきもののために。

 毒を、癒しに縫い直すために。


 ――聖なる谷の薬師の戦いは、まだ始まったばかりだ。

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