第5話 聖なる谷の噂
王都の市場に、新しい噂が広がり始めた。
――毒の森が癒えた。
――聖獣が現れた。
――“毒使いの悪女”が、聖女になって蘇った。
その名は、リリィ・フェンネル。
かつての処刑囚が、いまや“奇跡の女”として人々の口に上る。
◆◇◆
そのころ、リリィは森の小屋で薬草を煮ていた。
アズールは洞の入口で昼寝をし、エミリアは薬草の仕分けをしている。
いつもと変わらぬ、穏やかな一日――になるはずだった。
だが、森の外から鈍い金属音が響いた。
アズールが耳を立てる。
馬車の音。しかも、王都製の鉄輪の響き。
「……また、誰か来た」
私は手を止め、アズールと視線を交わした。
やがて、霧の向こうから現れたのは、金糸の外套をまとった男。
その背後には護衛の兵が五人。
男は私を見ると、恭しく頭を下げた。
「フェンネル嬢。いや、“聖なる谷の薬師”とお呼びすべきでしょうか」
「王都の方ですね?」
「はい。王立学院の使者、ギルバートと申します」
彼の瞳は穏やかだったが、その笑みの奥に冷たい探りを感じた。
「学院では、あなたが作る“奇跡の雫”の力を研究したいのです。
陛下も興味をお持ちでしてね。王都へ同行していただければ、正式に地位を回復させるとのこと」
――王都へ戻れ?
処刑台の記憶が脳裏をよぎる。
燃える木枠、嘲る群衆。
私は拳を握った。
「申し訳ありませんが、そのご厚意はお断りします」
「……理由を伺っても?」
「私はもう、王都に用はありません。この谷で、命と向き合いたいのです」
ギルバートは少しだけ眉を上げた。
「……やはり、噂通りの方だ」
そう呟き、彼は外套の内から小さな瓶を取り出した。
――星涙樹の樹液。だが、色が濁っている。
「学院でも、同じものを再現しようとしました。ですが、毒性が強すぎて数人の研究員が倒れた。
あなたの“奇跡”だけが、毒を癒しに変える」
「それは、森とアズールの力です」
「聖獣が協力した、と?」
「はい」
ギルバートは一瞬、視線を鋭くした。
「……聖獣をも従えるとは、やはり只者ではない」
その言葉に、アズールが低く唸った。
森の空気が震える。
「下がってください」
「おっと、失礼」
ギルバートは一歩退き、すぐに笑みを戻した。
「ただ、我々としては陛下に報告せねばなりません。森の座標、雫の性質、そして――あなたの生存」
その言葉に、胸の奥が冷たくなる。
逃げても、隠しても、もう王都は私を見つける。
◆◇◆
ギルバートが帰ったあと、私は焚き火の前で黙り込んだ。
エミリアが心配そうに覗き込む。
「お姉さま、怖いの?」
「少しね」
「でも、悪いことしてないのに」
「そう。でも“奇跡”は、時に罪より重いの」
アズールが頭を寄せてくる。
『リリィ。王都はまたおまえを試す』
「わかってる。でも、私は逃げない」
私は瓶を一つ手に取った。
“奇跡の雫”――森の息吹と、聖獣の力が宿った液体。
光を反射して、虹色に揺れる。
「これがあれば、人を癒せる。けれど、争いの種にもなる」
『おまえはどうする? 壊すか、広めるか』
「どちらでもない。私は“教える”。毒を恐れず、理解する方法を」
アズールが目を細め、喉を鳴らした。
『それが、おまえの道か』
「ええ。たとえまた王に裁かれても、私は“薬師”でありたい」
◆◇◆
その夜、森の外で焚き火の光がちらついた。
王都から来た別の一団――教会の聖職者たちだった。
彼らは森を“異端の聖地”と呼び、浄化を名目に火を放とうとしていた。
私は瓶を握りしめ、アズールの背にまたがった。
「行こう。森を守る」
聖獣が吠え、夜風が渦を巻く。
毒の霧が再び立ちのぼり、炎を包み込む。
毒と炎がぶつかり、霧の中で光が弾けた。
「やめて! この森はもう毒の地じゃない!」
私の声が夜空に響く。
聖職者たちは目を見張り、膝を折った。
その手のひらに、虹色の雫が落ちる。
――燃えた灰の中から生まれた、第二の奇跡。
アズールの咆哮が夜を裂く。
炎が静まり、森が再び呼吸を始めた。
◆◇◆
翌朝。
森は焦げ跡ひとつ残さず、静かに光を浴びていた。
私は泉のそばに膝をつき、祈るように呟いた。
「この森はもう誰のものでもない。
毒も癒しも、生きるものすべてのものだから」
アズールが私の肩に鼻先を寄せた。
エミリアが花を摘んで駆けてくる。
「お姉さま、森が笑ってる!」
「ええ。森は生きてるの」
谷の風が優しく吹き、葉がきらめいた。
その光の中で、私は小さく誓った。
――いつか王都が再び私を呼んでも、
私はこの谷の薬師として、森と共に在り続ける。
そしてその日、
“毒使いの悪女”という名は完全に消え、
“癒しの聖女リリィ”という新たな伝説が、王都に広がり始めた。