第4話 辺境の客人
森の朝は、静かだった。
霧が消えて十日。毒の谷は、生まれ変わったように清らかだ。
泉には光の粒が浮かび、鳥たちが戻り、花々が香る。
エミリアが摘んだ花束を抱えて駆け寄ってくる。
「リリィお姉さま、見て! 赤い花が咲いたよ!」
「まあ……これは“紅涙草”。毒の森では咲かない花だったのに」
その花は、毒を吸って育つ。
毒が薄まれば咲かない。
つまり――この森の毒は、もう癒え始めている。
アズールが泉のそばで尻尾をゆるやかに振った。
彼の毛並みも、以前より柔らかな銀色に戻っている。
私たちはようやく“暮らし”というものを手に入れた。
◆◇◆
朝食を終えると、私は薬草棚の前に立った。
瓶が並ぶ棚の上で、陽光が反射して虹を作っている。
この一つ一つが、誰かを救う手段になる。
だが、辺境には人がいない。
薬を必要とする者がいなければ、薬師の意味もない。
「……誰かが来ればいいのに」
私がそう呟いた瞬間、アズールの耳がぴくりと動いた。
聖獣が立ち上がり、洞の外を見つめる。
私も外へ出ると、森の奥から荷馬車の軋む音が聞こえてきた。
「まさか、人間が?」
霧の消えた道を、三頭の馬に引かれた荷車が進んでくる。
その後ろには、黒衣の商人と、腕を怪我した青年がいた。
彼らは辺境の交易商――毒谷が浄化されたと聞き、確かめに来たらしい。
「ここに、人が住んでいるとは……。まさか、聖獣が守っているというのは本当だったのか」
商人はアズールを見て膝をついた。
アズールは低く唸り、けれど威嚇ではない。
“歓迎する”という音だ。
私は前に出て名乗った。
「リリィ・フェンネル。薬師です」
商人の目が驚きで見開かれる。
「ま、まさか……! 王都で処刑されたはずの“毒使いの令嬢”!?」
その言葉に、エミリアが一歩前に出て、胸を張った。
「お姉さまは悪女なんかじゃないの! この森を救ったのよ!」
商人は息を呑み、やがて静かに頭を下げた。
「……なるほど、聖獣が従うのも納得ですな」
私は笑みを浮かべた。
「毒はもう薄れました。ここを通るなら、呼吸用の布を使えば安全です」
商人たちは荷車から木箱を下ろし、果物や布を置いていった。
代わりに、私は彼らに薬草の束を渡した。
鎮痛薬と、発熱時の煎じ葉。
“毒の森”が、人を癒す土地へ変わる。
――それが私の願いだった。
◆◇◆
その夜。
私は焚き火の前で、星を見上げていた。
アズールが隣に座り、エミリアは毛皮に包まって眠っている。
「……ねえ、アズール。あの商人たちは、王都へ戻るでしょうね」
聖獣は尾を振る。
「そうしたら、私が生きてることも、知られるわ」
『いずれ避けられぬことだ』
アズールの声が、心の中に響く。
『王は奇跡を欲する。森が癒えたと知れば、また奪いに来るだろう』
「そのときは……逃げない。ここは、私が守る」
『おまえは変わったな。かつてのリリィなら、夜明けを恐れていた』
「今は違う。ここに光がある。あなたとエミリアがいるから」
聖獣は静かに喉を鳴らし、月を見上げた。
青白い光が森を包む。
焚き火の炎が風に揺れ、遠くで鳥が羽ばたいた。
◆◇◆
翌日。
森を出た商人たちが王都に到着するより早く、別の一団が森の外に現れた。
王都の紋章を掲げた兵士たち。
――やはり、来た。
私は泉のそばで薬草を摘んでいたが、アズールの警戒する声で振り返った。
「リリィ、あそこ!」
エミリアが指差した先には、十人ほどの兵士が並んでいた。
鎧の隙間から、毒除けの香煙が立ちのぼる。
「命令により確認する! この谷に“奇跡の雫”を操る女がいると聞いた!」
隊長格の男が叫ぶ。
奇跡の雫――あの夜、私の手の中で光ったもの。
誰がそんな名をつけたのだろう。
「あなた方に危害を加えるつもりはありません」
私は静かに答えた。
「けれど、ここを乱すなら、森が怒ります」
男は嘲るように笑った。
「森が怒る? 神を気取るか。奇跡の雫を献上せよ。さもなくば――」
その言葉を遮ったのは、アズールの咆哮だった。
地が震え、風が渦を巻く。
毒の霧が再び立ちのぼり、兵たちは咳き込む。
「アズール、やめて!」
私が叫ぶと、聖獣は一瞬だけ動きを止めた。
私はその隙に、瓶を取り出した。
中には、星涙樹の樹液と銀葉草を調合した新しい薬。
「あなたたちが持つ毒除けは古いものです。霧には効きません」
私は瓶の蓋を外し、霧の中に投げた。
甘い香りが広がり、霧が薄くなっていく。
兵士たちは目を見張った。
「……消えた?」
「毒が……浄化された!?」
私は息を吐いた。
「見なさい。毒も扱い方次第で薬になる。それを“奇跡”と呼ぶなら、森のすべてが奇跡です」
兵士たちは言葉を失った。
やがて隊長が兜を脱ぎ、深く頭を下げた。
「……確かに、噂は真実でした。あなたこそ、聖なる谷の守り人」
エミリアが駆け寄ってきて、私の手を握った。
「お姉さま、すごい!」
アズールが低く鳴き、尾を揺らす。
私は微笑んで彼の頭を撫でた。
「ありがとう。あなたがいてくれたからよ」
◆◇◆
夕暮れ、兵士たちは森を後にした。
その背を見送りながら、私はそっと呟いた。
「もう、“毒使いの悪女”ではなくなったね」
『いや、毒と共にある限り、おまえは毒の女だ。だが、それでいい』
アズールの声は穏やかだった。
私は泉に映る自分の姿を見つめた。
頬に泥がつき、髪も乱れている。
それでも、目は確かに光を宿している。
「毒も人も、どちらも救える世界を作りたい」
『ならば歩め。この森の外へ』
アズールの尾が夕陽を弾いた。
その光の中、私は決意した。
――聖獣と共に、癒しの薬師として世界へ踏み出す。
その始まりの日。
風が優しく吹き抜け、森の花が一斉に揺れた。
まるで、“悪女”という名を葬るように。