第3話 奇跡の雫
洞窟の奥に火を灯すと、薄青い光が壁の結晶に反射してゆらめいた。
少女を寝かせるため、私はアズールの毛皮を一枚借りた。ふかふかのそれは、体温をすぐに伝える。
少女の名は――エミリア。
目を覚ましたとき、かすれた声でそう名乗った。
王都から辺境へ向かう途中、商隊に襲いかかってきた魔獣に馬車が転覆したという。
「皆……お父さまも、お母さまも……」
彼女は途中で言葉を詰まらせ、瞳を閉じた。
――その指先には、見覚えのある紋章。
王家直属の“学術院”が刻む紋章だ。つまり、彼女はただの商人の娘ではない。
アズールが横で静かに尾を打った。
「ねえ、アズール。彼女を守るために、森が呼んだのかもしれないね」
聖獣は私を見つめ、まるで「お前の出番だ」と言わんばかりに喉を鳴らす。
エミリアの腕には深い裂傷、そして……噛み跡。
魔獣の毒が回っている。
血管が黒ずみ、皮膚の下で脈が乱れている。
私は手早く薬包を広げた。
――間に合うかどうか。
この森で採れる素材だけで、解毒薬を作るのは難しい。
だが、諦めたら“薬師”ではない。
◆◇◆
私は外へ出た。夜風が、肌を刺す。
アズールが後をついてくる。
谷の東側、霧の奥に一本だけ輝く木がある。月の光を浴びると、樹皮が薄く光るそれは、“星涙樹”。
樹液は、あらゆる毒を中和すると言われているが、同時に極めて強い刺激性を持つ。
扱いを誤れば、心臓が止まる。
私は枝先に短剣を突き立て、垂れた雫を瓶で受け止めた。
ひと雫、ふた雫。
透明な液体が、ほんのり青に輝く。
――これだ。
アズールが低く鳴いた。
「大丈夫。分量は分かってる」
私は瓶を握りしめ、洞窟へ戻った。
◆◇◆
エミリアの唇は青い。
呼吸は浅く、体温も落ちている。
私は星涙樹の雫を薬鉢に注ぎ、銀葉草と鎮静の粉を混ぜる。
調合が進むにつれて、瓶の中の液体が薄い紫に変わった。
アズールが興味深そうに覗き込み、鼻息をふっと吹きかけた。
すると、液体の表面に細かい光の粒が浮かび上がる。
「……ありがとう、アズール」
彼の息吹が、毒の性質を穏やかに変えた。
私は匙で薬をすくい、エミリアの唇に少しずつ流し込む。
彼女の喉がわずかに動いた。
けれど次の瞬間、全身が震えた。
「――っ!」
彼女の体から黒い靄が立ち上る。毒が抵抗している。
私は両手でその体を支えた。
「大丈夫、怖くない。毒は、出ていくところを探してるだけ」
アズールが私の肩越しに、静かに歌うように唸った。
青い光が洞窟に満ちていく。
黒い靄がその光に吸われ、ゆっくりと薄れていった。
やがて、エミリアの顔に血の色が戻る。
私は彼女の手を握った。
小さな手が、弱々しくも握り返してくる。
「……お姉さま?」
「うん、もう大丈夫よ。眠っていい」
その言葉と同時に、彼女は穏やかに目を閉じた。
アズールが深く息を吐く。
空気が柔らかくなり、洞の中に甘い香りが広がった。
私は瓶の中を覗き込んだ。
残った液体は、青でも紫でもない。
光の粒が混ざり合い、虹色に揺れていた。
――毒を、癒しに変える雫。
「これが……奇跡の雫」
私の声に、アズールが喉を鳴らす。
◆◇◆
三日後。
エミリアは完全に回復した。
傷跡もなく、頬に赤みが戻っている。
「ありがとう、リリィお姉さま。あと、もふもふ様!」
アズールの胸元に抱きつくエミリアを見て、私は思わず笑った。
アズールは少し困ったように目を細め、しかし尻尾を揺らした。
私たちは谷の外れに小屋を建てた。
森の木と石を組み合わせ、毒の霧を防ぐように壁に薬草を塗る。
アズールが手伝ってくれたおかげで、数日で立派な住処ができた。
「ここ、あったかいね」
「うん。あなたの体温が戻ってきたからだよ」
私は彼女の髪を撫でる。
小さな命の鼓動が、まだ信じられないほど確かだ。
夜、焚き火を囲んで三人――いや、一人と一匹と一人で夕食をとった。
スープは薬草の香りが強く、けれど甘くて優しい。
アズールは舌を出して器を舐め、満足げに喉を鳴らす。
「ねえリリィお姉さま」
「なに?」
「お姉さまは、どうしてこの森にいるの?」
私は少しだけ考えた。
嘘をつく必要はない。
「追われていたの。悪いことをしたと決めつけられて」
「悪いこと、してないのに?」
「うん。だけど、信じてくれる人はいなかった」
エミリアはしばらく黙って、それから言った。
「わたしは信じる。お姉さまの薬で生きてるもん」
その言葉に、胸が熱くなる。
アズールが私の背を尾で叩く。
“もう大丈夫だろう”と言うように。
けれど、夜の静けさの中で、私は耳を澄ませた。
森の外で、遠くから風を切る音がする。
何かが、谷を見張っている。
◆◇◆
翌朝。
私はエミリアを残し、アズールと共に谷の外へ出た。
霧の外側、岩肌に黒い痕がある。
火薬の臭い。人の手による爆裂魔法の跡だ。
――やはり、来た。
岩の陰から、男が二人。王国の紋章を刻んだ外套を纏っている。
「見つけたぞ、毒使いの女!」
剣を構え、魔法陣を描く。
私は足元の草を掴んだ。
「アズール、霧を」
聖獣が唸ると、霧が一気に濃くなる。
男たちの視界が奪われ、魔法陣が中途で消えた。
私はその間に、銀葉草と星涙樹の雫を混ぜた瓶を投げる。
瓶が地に当たって砕け、甘い香りが広がった。
「な、なんだこの匂いは……」
次の瞬間、二人はその場に倒れた。
アズールが私を見つめ、低く鳴いた。
「殺してないよ。眠ってるだけ」
森の風が私の頬を撫でた。
谷へ戻る途中、私は思った。
もはや“逃亡者”ではなく、“守る者”としてここにいるのだと。
◆◇◆
夜。
エミリアは焚き火の前で、アズールの背にもたれて眠っていた。
私は外に出て、月を見上げた。
毒の霧がうすく、星がひとつひとつ鮮やかに瞬いている。
「――ありがとう、森」
この森に来なければ、私はもうとっくに死んでいた。
毒を恐れ、誤解された自分を、森が受け入れてくれた。
足元に、あの“奇跡の雫”の瓶が光を放っている。
私はそれを手に取り、月明かりにかざした。
光が瓶の中で屈折し、虹の輪を作る。
そのとき、アズールの声が頭の奥に響いた。
――リリィ。
私は驚いて振り返る。
聖獣は静かに私を見ていた。
声ではなく、心に直接届く感覚。
『おまえは、選ばれた。毒を癒しに変える者。森と共に在る者。』
「……選ばれた?」
『この地を守れ。毒は恐れではない。命の循環だ。』
アズールの目が淡く光る。
その瞬間、瓶の中の雫がふっと蒸発し、光の粒が私の胸へと溶け込んだ。
胸が熱い。
けれど、不思議と痛くない。
体の奥から力が湧き上がり、視界が広がっていく。
毒草の根の向き、霧の流れ、風の匂い……すべてがわかる。
「これが……森と一つになる力……?」
アズールが頷く。
『おまえがこの谷を癒すなら、森は応える。だが、外の者はまた来る。王も、教会も、奇跡を欲する。』
「わかってる。でも、私はもう逃げない」
『ならば、共に在ろう。リリィ』
聖獣の声が消えると同時に、谷全体が淡く光りはじめた。
毒の霧が虹色に輝き、夜風が草花を撫でる。
アズールの毛が月光を弾き、エミリアの寝顔が穏やかに照らされる。
私は瓶の欠片を拾い上げ、静かに呟いた。
「毒を恐れる世界に、癒しを返す。それが、私の罪への答えだわ」
遠くで、狼の遠吠えが響いた。
けれどその声は、どこか祈りのようで――。
翌朝、谷の霧が完全に晴れた。
空は高く、草花が一斉に光を返す。
エミリアが目を覚まし、眩しそうに空を見上げた。
「お姉さま、空がきれい」
「うん。森が、私たちを祝福してるの」
その日を境に、人々はこの場所をこう呼ぶようになる。
――“聖なる谷”。
毒使いの悪女と呼ばれた薬師令嬢が、
もふもふの聖獣とともに“辺境の救世主”になる物語は、
ここから始まった。