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第2話 毒の森の来訪者

 霧の向こうに、金属音が続いた。

 鎧が擦れ、剣の鞘が岩を叩く。

 追手たちは三人。先頭の男は鼻を押さえ、後ろの二人が布で口を覆っていた。

「……毒が濃い。ここに人が逃げ込むなど自殺だ」

「報告では、この谷に“生きた女”がいたと」

「王命だ。確認しろ。悪女を生かして帰すな」


 “悪女”。

 たった二文字で、胸の奥に古い痛みがよみがえる。

 私は洞の奥で息を殺した。アズールの胸が静かに上下し、青い光がほのかに揺れる。


 谷の霧が動いた。

 私は祈るように指を組んだ。

 ――お願い、森。彼らを眠らせて。


 すぐに、霧の粒がわずかに虹を帯びた。

 眠りの雫が霧と混ざり、空気を柔らかくする。

 先頭の男が舌打ちした。

「……空気が……おかしいな」

 そのまま膝を折る。

 次の男も目をこすり、剣を落とした。

 最後のひとりが慌てて後退ろうとするが、すでに視界が霞んでいる。

「毒だ! 引け――」

 叫ぶ声は、霧の中に溶けて消えた。


 私は肩の力を抜き、胸を押さえた。

 アズールが静かに立ち上がり、洞の外を覗く。

 眠る兵たちの姿を確かめると、鼻を鳴らして私を見た。


「殺さなくてもいいの」

 私の声に、アズールは尾を一度だけ揺らした。

 “それでいい”と言うように。


 私は腰の鞄を開き、手早く瓶を三つ取り出した。

 解毒薬と、回復用の薄い薬湯、そして麻痺を和らげる香。

 兵たちの口元にほんの少しずつ垂らしていく。

「あなたたちは敵。でも、死んでほしくはない。毒は罰じゃなくて、選択肢にしたいの」


 夜明けの風が吹き抜ける。霧が薄くなり、谷に光が射した。

 銀色の毛並みが、陽を受けて輝く。

 アズールが私の隣に並び、喉の奥で低く鳴いた。

 優しい音。まるで、ありがとう、と言っているようだった。


 私はその背にそっと手を置いた。

「行こう、アズール。ここを“聖なる谷”に変えるの」


◆◇◆


 それから数日。

 私は洞の近くに薬草棚を作り、地形を調べた。

 谷底の水は毒を含んでいるが、石灰を混ぜれば中和できる。

 苔の裏に眠る種は、太陽を当てると芽吹き、毒を浄化する力を持つ。

 森は、思っていたよりも優しい。

 人の手が間違えたとき、毒に変わるだけだ。


 夜ごと、アズールは洞の入口で歌う。

 その声は谷全体を包み、草花が微かに光を放つ。

 眠ると、夢の中に光の粒が降り注いだ。


 朝になると、リスたちや鳥たちが姿を見せる。

 毒を恐れぬ彼らが、私の足元で遊ぶ。

「ねえ、アズール。あなたが呼んだの?」

 聖獣は静かに瞬きをした。


 ――ここに、もう一度、命が戻り始めている。


◆◇◆


 そして十日目の朝。

 私は谷の上から、小さな黒煙が上がるのを見た。

 火。しかも人工の。

 アズールが唸り声を上げた。

「人間?」

 答えはすぐにわかった。

 煙の向こう、倒れた馬車と、血の跡。

 誰かがこの谷へ迷い込んでいる。


 私は鞄を手に取り、駆けだした。

 アズールが後ろから静かに続く。


 毒霧の層を抜けた先で、私は見つけた。

 ――少女。

 十にも満たない年頃。淡い金髪が泥に濡れ、腕に深い切り傷。

 傍らには、割れた木箱と倒れた馬。

 王都の商隊が使う印章が押されていた。


「生きてる……」

 脈は弱い。けれど、まだ温かい。

 私は薬草袋を開け、手際よく止血用の薬を練った。

 灰白の粉を唾で溶き、傷口に押し当てる。

 少女が微かに呻き声を上げた。


「大丈夫。すぐ楽になる」

 私はそっと微笑んだ。

 アズールが背後で首を傾げ、鼻先を近づける。

 少女の体から血の匂いが消えると同時に、聖獣はゆっくりと座り込んだ。


 やがて少女のまぶたが震え、金の瞳が開いた。

「……あなた、だれ?」

「私はリリィ。薬師よ」

「もふもふ……おっきい」

 かすれた声に、私は笑った。

「彼はアズール。あなたを守ってくれたの」


 少女は小さく頷き、再び目を閉じた。

 呼吸は安定している。

 私は彼女を抱き上げ、洞へと戻る。


 アズールの背で、少女の小さな手が私の指を握った。

 その温もりが、ひどく懐かしかった。

 ――いつか、私にも、こうして誰かの命を抱く日が来ると思っていた。


 それが、“辺境の救世主”と呼ばれる始まりになるなんて、

 このときの私はまだ知らなかった。

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