第12話 移ろう綴り場
王都を出て三日目の夜、風は西から吹いていた。
馬車の帆布の向こうに、星涙樹の花粉が帯のように流れている。
谷へ帰る道が、薄い光で縫い付けられているようだった。
セラフィナは並走する馬上から声をかける。
「王城の改革案、もう“誓い帳本位”の名前で通ったわ。あなたが針を持ったおかげね」
私は微笑む。
「名前はどうでもいい。ただ、人が息を合わせられれば」
「……その言葉、いつか学院の門に刻ませて」
アズールは前を行き、夜風を割って走る。
彼の足跡のあとに、薄い光が残り、やがて小さな輪になって地面に沈む。
“移ろう綴り場”。
神殿の縫い目が、私の胸の弦と繋がった結果だ。
針を置いた私の代わりに、土地そのものが動き、糸をつなぐようになった。
◆◇◆
谷に戻ると、空気が変わっていた。
以前より柔らかく、温かい。
紅涙草の丘には子どもたちの声、泉の周りでは老人たちが看病の歌を口ずさんでいる。
――私の歌ではない。
けれど、それでいい。
工房の戸を開けると、エミリアが飛びついてきた。
「おかえりなさい!」
その声を聞いた瞬間、胸の奥の弦がふっと鳴った。
音は出ないのに、光が走る。
私の失った“歌”が、彼女の声に宿っていた。
アズールが天井近くの梁に乗り、尾を垂らして笑う。
『置いてきたものは、形を変えて戻る。おまえの声は、もう人の声の中にある』
「……そうみたいね」
◆◇◆
翌朝。
谷の広場には、新しい織り台が組まれていた。
木と石と金糸でできたその機は、地を這うように長く、風が触れると糸が鳴った。
それは動かない建物ではなく、森とともに移ろう“移動する綴り場”――
どこかで均衡が崩れれば、この台が自然に向きを変え、その土地の糸を拾う。
「これからは、私たちが縫う番ね」
私はエミリアの手を取って糸に触れた。
彼女の小さな指が震え、糸が柔らかく光る。
「お姉さま、今度はどんな糸を縫うの?」
「“時間”の糸。過去と未来が喧嘩しないように、真ん中に橋をかけるの」
アズールが口を開く。
『時間は直線ではない。輪だ。おまえの針が抜けた跡も、やがて誰かが踏む』
「その時、ちゃんと“痛くないように”縫っておく」
◆◇◆
昼過ぎ、王都から早馬が着いた。
封筒の中には、セラフィナの手紙と小さな欠片。
――光の繊維。あの日の“針”の破片だった。
手紙にはこうあった。
針の残響はまだ続いている。
いま、王都では季節の境がゆるやかになった。
病の波も緩やかで、人は息を合わせることを覚えつつある。
だけど時間の糸がずれている。
ある子が、まだ起きぬ夢の中で未来を語った。
彼女が見た“十年後の谷”を、あなたにも見てほしい。
私は封筒を閉じ、紅涙草の花弁を一枚挟んだ。
「未来を語る子……?」
『時間の針が動いた。行こう』
◆◇◆
夜、谷の西端。
移ろう綴り場が静かに輝き、糸の端が空に伸びる。
そこに、一人の少女が座っていた。
白い髪、淡い瞳。年のころは十。
彼女は私を見ると微笑んだ。
「はじめまして。私は“未来のエミリア”」
息を呑む。
彼女の声には、私の歌の響きが混ざっていた。
「十年後、世界はどうなっているの?」
「争いはあるよ。でも、みんな“誓い”で結び合うようになった。
雫を奪い合うんじゃなくて、時間を分け合うの」
少女は織り台の糸を撫でた。
糸が未来の景色を映す。
森と街を繋ぐ空中路、看取りの教室が各地にでき、
人々が“さようなら”と“ありがとう”を同じ調べで歌っている。
その映像の端に、見覚えのある影。
――カナンが、誰かの傷を縫いながら微笑んでいた。
彼もまた、人として生きている。
「未来を見に来たら、もう少しだけ世界を縫って」
少女の声がかすれ、糸が風に溶けた。
次の瞬間、彼女の姿は薄い光となって消えた。
◆◇◆
夜が明けた。
紅涙草が一斉に咲き、谷を赤く染める。
私は泉のほとりに立ち、胸に手を当てた。
音は出ないけれど、確かに胸の弦が震えている。
それは“歌”ではなく、“続き”の音。
アズールが並び、ゆっくりと尾を揺らす。
『終わりは、綴りの途上だ』
「ええ。だからまた、縫おう。毒も癒しも、時間もぜんぶ抱いて」
遠くで鐘が鳴る。
王都の新しい暦――“綴り暦”の始まりを告げる音だ。
私はその音に合わせ、糸を一筋手繰り寄せた。
その先にあるのは、まだ名もない未来。
けれど、もう怖くはなかった。
エピローグ:縫う者たちへ
世界はほつれる。
だからこそ、誰かが縫う。
名も針も持たぬ人が、
恐れや痛みを布にして結び直す。
そのたびに、新しい歌が生まれる。
――“毒使いの悪女”と呼ばれた薬師令嬢リリィ・フェンネル。
いま、彼女の名はもう歴史の頁の中にない。
けれど世界のどこかで、誰かが息を合わせて言う。
「ありがとう」
「さようなら」
その声の震えこそが、彼女の残した“調律”だった。
〈終〉