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第11話 縫い手の神殿

 夜明けとともに王都の鐘が鳴り、広場の布告台に新しい札が打ち付けられた。

 ──王国は雫貨幣制度しずくかへいを施行する。

 ──雫は王国鋳造所にて封印金ふういんきんへ転化し、価値尺度および軍備維持の裏付けとする。

 ──教会は認証、学院は鑑定、議会は配給を司る。


 人々のざわめきが、波のように城壁へ当たって砕けた。

 私はセラフィナとともに神聖会議の間へ向かう。

 石畳の冷たさの奥で、胸の弦が細く鳴る。

 ――均衡が、貨幣という名の針で一方へ縫い留められようとしている。


 玉座の前、三者が揃っていた。

 宰相クローヴィスは布告を広げ、

 大司教マルセルは聖印を胸に当て、

 学院長セラフィナは静かな目で私の横顔を見ていた。


「フェンネル嬢――いや、“調律者”。」宰相が口を開く。

「雫を貨幣に換えるのは、戦乱を防ぐ現実策だ。等価の基準がなければ、奪い合いは止まらぬ」

 大司教が続ける。「神が与えた実りに秩序を。価値は数えられねばならぬ」

 私は一歩進み、雫の瓶を高く掲げた。

「数えるために“閉じる”のですか? 雫は呼吸の延長。閉じれば、肺は硬くなり、世界は息苦しくなります」

 セラフィナが短く頷く。「私は賛成しない。学びは開くものだ」


 空気がわずかに歪んだ。

 床下――城の根のどこかで、古い歯車が噛み合う音。

 大理石に刻まれた細い文様が淡く浮き、会議の円形卓の縁にびり、と裂け目が走る。

 宰相が警備に目をやった瞬間、広間の隅の燭台が青く燃え、床石が沈んだ。

 現れたのは、地下へ続く狭い螺旋のきざはし

 セラフィナが息をのむ。「……王城直下に“かさね”があるなんて、記録には……」

 私は瓶を握り直す。「呼んでいる。根が」


◆◇◆


 燭火を手に、私たちは降りた。

 冷たい石の匂い、湿った金属の味。

 螺旋の底で、扉のない広間が口を開けている。

 壁一面に縫い目の紋。糸を象った浮彫が交差し、中央に円卓――いや、織機しょっきのような台。

 天井から吊られた細い弦が数千、わずかに震え、誰かの寝息のようなリズムを刻んでいる。


「ここが……“縫い手の神殿”。」

 声に応えるように、弦が一斉に鳴った。

 低く澄んだ音の上に、聞き覚えのある足音。

 紙片の翼が揺れ、カナンが闇から現れた。


「調律者。秤が傾き始めたから、扉は自ずと開いた」

 宰相が剣に手をかけるが、セラフィナが制す。「刃はやめて。ここでは音が血になる」

 カナンの瞳が私を捉えた。「問う。雫を貨幣に封じれば、人は目盛りを信じ、痛みの物語を忘れる。

 だが、開ききった流れは、やがて方向を失い、命を痩せさせる。――どちらを縫う?」


 私は台の前に立ち、手を置いた。

 震えが掌へ移り、掌の震えが弦へ返る。

 私は吸うときに“ありがとう”、吐くときに“さようなら”を思い、森の呼吸を落とした。

 さざ波のような共振が広間に広がる。


「私は、“開いて結ぶ”。

 雫は売らない。だが、流れは数える。数は閉じるためでなく、均すために使う。

 価値は金属ではなく“誓い”に記録し、誓いは誰かの手の温度で確かめる」


 宰相が眉を上げた。「抽象だ」

「具体にしよう。」私は雫の瓶を台にのせ、空の瓶を三つ並べる。

「一つは“看病した時間”、一つは“森を整えた日”、もう一つは“語られた物語”。

 雫を受け取った者は、どれかに『名を縫う』――誰の看病に自分の時間を投じ、どの木を植え、どの物語を誰に渡したか。

 名のない価値は、ここでは流れない」


 弦がぱちり、と明るく鳴った。

 神殿が、私案を“可”と告げたのだ。


 大司教はなお渋い顔を崩さない。「名を縫うとは、告白の義務か」

「違います。誓いを“誰か”に接続すること。神はそれを記憶し、人はそれに支えられる」

 セラフィナが前に出た。「学院は、誓いを記録する“織帳”を設計する。紙ではない、声と息の台帳を」


 そのとき、神殿が深く鳴った。

 奥の壁が割れ、二つのレリーフが現れる。

 一つは銀毛の獣。

 一つは翼の男。

 文字が、古い言葉で浮かび上がった。


かつて、人は恐れを“神”と呼び、

かつて、人は痛みを“賢者”と呼んだ。

だが両者は人であり、獣であり、ただの名であった。

名は、縫い手が与え、奪い、また返す。


 アズールの気配が背に降りる。いつの間にか、彼は広間の入口にいた。

 蒼い目が刻文を撫でる。

『わたしは神ではない。かつては森の傷に集まるただの獣だった。

 人が“神”という名を縫い付け、わたしはそれで眠りを分け与え、歌で痛みをほどいた』

 カナンが静かに言葉を継ぐ。

「私も人間だった。疫病の村で死にきれず、祈りの糸に体を縫い付けた。

 永く生きたのではない。長い痛みを繕い続け、名の下で人のまま留め置かれただけだ」


 彼のまぶたの裏に千の夜が宿っているのが、音でわかった。

 私は一歩近づき、問う。「それでも、いま均衡を語るの?」

「語る。生き延びた者の義務として」


 神殿の弦が、低い調べで割って入った。

 円卓の上に“針”が一本、立った。

 針は金でも鉛でもない。光の繊維。

 空気が細く切れ、床の糸が震える。


「……“最後の針”」セラフィナが息を呑む。

 カナンが頷く。「世界の裂け目に差す針。誰か一人の名と結ばねば、動かない」

 宰相が険しくなる。「代価は?」

 カナンは私を見る。「差す者は、最も強い“声”を一度失う。歌か、祈りか、誓いか――選べ」


 胸の弦が強く鳴った。

 私に、問われている。

 ――声を、何に使い、何を失うのか。


 耳の奥で、誰かの息。

 看取りの教室で、老女が最期に残した“ありがとう”。

 誓い市の歌い手が置いていった一節。

 エミリアの「ただいま」を待つ声。

 アズールの夜の歌。

 カナンの、長い痛みの沈黙。


 私は針に指を伸ばし、震えを掌で受け止めた。

「私は――“歌”を失う」

 セラフィナが目を見張る。「リリィ!」

「雫は人の歌で巡る。私の歌は、もう森が覚えた。これからは、誰かの歌に場所を空ける。

 私は言葉で、手で、段取りで結ぶ。歌は、世界へ返す」


 アズールがゆっくりと首を垂れた。

『その選びは、美しい』

 カナンがわずかに笑う。「均衡も頷くだろう」


 私は針を握った。

 熱も冷たさもない。ただ、震え。

 台座の“織り目”がひとつ開き、王都の地図が糸で浮かび上がる。

 市場、鋳造所、教会、学院、下町の路地、戦傷者の寝台――ばらばらの点が、ほどけた糸のように震えていた。


「結ぶよ」

 針先を、最初の点へ。

 誓貨炉。雫を硬貨に閉じ込める鋳型。

 私は針で硬さの縫い目をゆるめ、誓いの名札を縫い込む。

 次に、市場。高台の秤に“看病の時間”をひと目で示す紋を縫う。

 教会へは、“告白”ではなく“接続”の入口を。

 学院へは、織帳の複写ではなく“合唱”の術式。

 路地の片隅に、小さな織り台を。

 寝台の上に、呼吸の譜面を。


 縫うたびに、胸の奥の歌が一行ずつ薄れていく。

 口を開けば、音は出る。けれど、もう旋律にはならない。

 代わりに、糸がよく見えた。

 誰が誰を支え、どこで風が止まり、何が光を邪魔するか。

 均衡の全体が、手の中に入ってくる。


 最後のひと針。

 それは王都でも谷でもなかった。

 遠い戦場の、泥の匂い。

 見知らぬ兵士が倒れ、彼を抱く見知らぬ誰かが泣いている。

 私は針を、その涙の縁へ差した。

 小さな“看取りの教室”が、そこに生まれた。

 吸うとき“ありがとう”、吐くとき“さようなら”。

 彼らの息が、細い橋になって夜を渡っていく。


 針が静かに消え、神殿の弦が晴れ渡った音で満ちた。

 私は膝をつき、肩で息をした。

 喉はからっぽ。けれど、胸は満ちている。


「……終わった?」

 セラフィナの問いに、カナンが頷く。

「均衡は“いまこの瞬間”は保たれた。だが、針は永遠ではない。人がほどき、人がまた縫う」

 宰相は深く息を吐いた。「雫貨幣制度は――」

「“誓い帳本位”へ改めて。」私は声を絞り、言葉にした。

「鋳造は続けていい。ただし硬貨は雫ではなく“誓い札”と結ぶ。

 雫を硬貨に閉じ込めない。森と人の呼吸を止めない」

 大司教はゆっくり聖印を下ろした。「……祈りは数えられぬと信じていたが、数えるのでなく“数を縫う”のなら、反対はしない」

 宰相が首肯する。「王命として改める」


 アズールが横に座り、私の額に鼻先を寄せた。

『歌を置いてきたな、リリィ』

「うん。でも、みんなの歌が聞こえる」

 耳には静寂。胸には合唱。

 私は微笑んだ。


◆◇◆


 地上に戻ると、昼の光が白かった。

 広場の布告台には新しい札が重ねられている。

 ──雫を硬貨に封じてはならない。

 ──誓いの記録を以て流通の尺度とする。

 ──看病・造林・物語の三誓を基礎とし、追加は学び舎で審議する。


 人々が読み上げ、疑い、やがてひとりが拍手し、波が広がる。

 セラフィナが肩で笑った。「文字は遅いけれど、音に追いつくわ」


 そのとき、遠くで雲が割れた。

 谷の方角に、細い光。

 アズールの耳が動く。『呼んでいる。帰ろう、調律者』

「うん。学校の工房を増やす。織帳の写し方も、誰でもできるように」

 カナンが私の横に並んだ。

「次の軋みは、きっと“時間”の方から来る。均衡は、いつも別の名を選ぶ」

「そのときは、また縫おう。あなたも――人として」

 紙片の翼が一枚、私の掌に落ちた。

「借りておく。返しに来い」

 カナンは笑い、青い燐光に解けた。


 私は雫の瓶を胸に抱え、王城を振り返った。

 処刑台の影はもうなく、石は陽に温まっている。

 誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが誓いを札に縫いつける。

 世界は、今日もほつれ、そして誰かが縫う。


 歌を失った喉に、言葉がひとつ残っていた。

「――ただいま」


 風が応え、遠く谷から、子どもの「おかえり」が重なった。

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