第10話 看取りの教室
朝霧の向こうで、泉が淡く光っていた。
水面に映る雲は白く、風は冷たい。
それでも谷には、昨日より多くの人が集まっていた。
“誓い市”が開かれた翌日、私は広場に粗末な布を敷き、そこを「看取りの教室」と呼んだ。
雫を求める者ではなく、別れを恐れる者たちが静かに集まっている。
病の家族を抱える母親、年老いた男、戦で傷を負った兵士――誰もが手を握りしめて、私を見つめていた。
私は言った。
「――毒は、終わりを告げるためだけのものじゃありません。
終わりを“知らせる”ために、毒は生まれました。
それを受け止めた人は、死を恐れずに“生きる”ことができます」
人々の間に、風が走る。
エミリアが焚き火のそばで紅涙草を手に、私の言葉を待っていた。
アズールは後方の岩に伏せ、目を閉じている。
「――今日は、死を恐れない呼吸を教えます」
私はしゃがみ込み、胸に手を当てた。
「吸うときに“ありがとう”を、吐くときに“さようなら”を思って。
それを繰り返すだけ。心臓が、毒を流すように。命は、回るんです」
老女が最初に息を合わせ、次に母親が泣きながら、兵士が震える手で。
やがて、全員の呼吸が一つになった。
谷全体がゆっくりと脈打つようだった。
私は静かに告げた。
「――人は“恐れ”を消すことはできません。
でも、それを抱いて息をすることなら、誰でもできる。
そのとき、毒は薬に、別れは祈りに変わるんです」
沈黙のあと、誰かが小さく拍手をした。
それが波のように広がり、やがて谷全体が歓声に包まれた。
◆◇◆
夕方。
私は焚き火の前でノートに記録をつけていた。
参加者の数、誓いの札の受け渡し、呼吸法の効果。
アズールが覗き込み、尾で頁を押さえる。
『忙しいな、薬師』
「全部残しておきたいの。誰かがまた同じように苦しんだとき、これが道になるから」
『おまえの道はいつも先を見ている』
「そうしないと、怖くて止まってしまうもの」
アズールは鼻先を私の肩に押し当てた。
『怖れを抱く者ほど、調律の音は深い』
そのとき、エミリアが駆け込んできた。
「お姉さま! 森の端に、黒い馬車が!」
◆◇◆
夜の帳が下りるころ、黒い馬車が谷の入口に止まった。
紋章は王国議会派――あの密偵を送り出した貴族たちだ。
四人の護衛が松明を掲げ、その後ろから、一人の女が現れた。
金髪を高く結い、黒い手袋をしている。
その姿に、私は息を呑んだ。
「……セラフィナ?」
学院長が微笑んだ。
「久しいわね、リリィ。貴族派が動いたわ。雫を“貨幣”として鋳造し始めた」
「……そんな、もう?」
「ええ。あなたの“誓い市”を見て、逆を考えたのよ。
誓いを貨幣に換える装置――“誓貨炉”。雫を金属に閉じ込め、供給を管理するつもり」
アズールが牙をわずかに見せた。
『均衡を歪める気か』
「わかっているわ。でも、私ひとりでは止められない。……リリィ、あなたの力が必要なの」
「王都に戻るつもり?」
「ええ。けれど今回は、あなたを犠牲にするつもりはない。
“調律者”として、雫を正しく流す仕組みを作るの」
私は拳を握った。
燃える塔、カナンの言葉、均衡の針。
もう、逃げる道はどこにもない。
「わかった。行くわ。けれど――」
私はエミリアの頭を撫でた。
「あなたはここを守って。アズールがついてる」
エミリアの瞳が揺れた。
「でも、お姉さま……」
「大丈夫。また帰ってくる。谷は、もう私たちの家だから」
◆◇◆
夜明け前、私はセラフィナの馬車に乗り込んだ。
道の先には、王都の灯がかすかに見える。
胸の奥で、弦が小さく震えていた。
恐れでも、悲しみでもない。
――決意の音。
アズールが最後に言った。
『気をつけろ。均衡を欲する者は、おまえの心を試す。
だが、恐れるな。毒も癒しも、どちらもおまえの声だ』
「うん。どんな声でも、ちゃんと歌にしてみせる」
馬車が動き出す。
紅涙草の花びらが夜風に舞い、朝の光が谷に差し込んだ。
――“毒使いの悪女”と呼ばれた薬師令嬢。
今、その名は“調律者リリィ”として、
均衡を縫うために再び王都へ向かう。