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第1話 毒の森のもふもふ

 「お前の毒薬が、王子の命を奪ったのだ!」


 火刑台の下から飛んだその罵声は、私の名とともに王都の石畳に染みこんでいった。

 薬師令嬢――リリィ・フェンネル。毒草の知識があり、薬を調える手がある。それだけの私は、いつの間にか“毒使いの悪女”になっていた。


 王子の病は奇禍で、私は処方箋を出しただけだ。毒ではなく、毒を薬に変えるための拮抗液。なのに「見慣れぬ色だ」「匂いがする」と、見たこともない者たちの言葉で真実は塗りつぶされる。王子付きの侍医は黙り、婚約者だった第二王子は横を向いた。

 最後に私の肩へ手を置いたのは、父ではなく、火刑吏だった。


 鎖に繋がれた手首が、月明かりに薄く光る。鉄の冷たさを、私は測るように指で押した。

 ――この鎖は、薬で焼ける。

 鞄に忍ばせていた小瓶を、そっと口で開ける。煙も匂いもない、蒸留毒草の濃縮液。鉄を脆くするが、肌を焼かない配合。

 私は息を殺し、滴を鎖に垂らした。鉄が泡立つほど静かに、音もなく、鎖はほどけた。


 走った。夜の王都は冷たく、私の名を載せた瓦版は風に舞っていた。

 城門は閉じられている。ならば下水。古い地図を思いだし、石蓋をこじ開け、私は闇の川を進んだ。靴が吸われ、裾が湿る。けれど私は薬師だ。匂いで方角がわかる。石灰、苔、発酵した穀物――市場の匂いは北、街道はさらに北西。


 やがて、空気の質が変わった。鼻の内側に針が立つような鋭さ。

 “毒の森”だ。


 人も魔物も避ける場所。草が舌を伸ばし、風が皮膚を刺す。

 だが私は、ここを庭のように知っている。

 毒は嫌いじゃない。毒は真っ直ぐだ。量も組み合わせも、正しく扱えば薬に変わる。

 私は枝で藪を払い、靴裏に油を塗った。皮膚に触れてはいけない草、踏み砕くほど効きが落ちる茸、夜露が毒の濃度を薄める時間。すべて頭の中の棚に並んでいる。


 森の奥へ奥へ。やがて、白い霧が低く溜まる谷に出た。

 谷底から、かすかに振動が上ってくる。鼓動のような、呼吸のような……いや、違う。

 私は耳を澄ませ、目を凝らす。霧の裏で、何か大きなものが動いた。


 息をひとつ飲んだ瞬間、霧が割れた。

 銀色の毛並み。月光を飴にしたような艶。

 それは巨大な獣だった。狼にも、虎にも似て、しかしどちらでもない。澄んだ青の目が、まっすぐに私を映す。

 ――聖獣。伝承でしか知らない、毒と共に息をする守り神。


 怖くはなかった。

 むしろ胸の奥がほどけていく。毒にさらされた喉が、ひと息で楽になる。獣は鼻先を近づけ、私の髪に鼻息をふっとかけた。甘い、草いきれの匂い。

 私は膝をつき、掌を見せる。敵意はない、触れたいわけでもない。ただあなたが美しいと伝えたかった。

 獣は、尻尾を一度だけ揺らし、ぽすりと私の肩に顎を置いた。

 温かい。重みがうれしい。涙が出そうになる。

「……助けて、くれたの?」

 返事の代わりに、獣は喉を鳴らした。


 私は自分の名を名乗った。リリィ。薬草と毒草を見分け、薬に仕立てる者。

 獣は私の言葉を理解したかのように目を細め、霧の奥を顎で示した。ついてこい、と。

 谷の縁を回り込むと、洞窟が口を開けていた。内部は青白く、壁には晶洞が光る。

 獣――私は心の中で彼を「アズール」と呼ぶことにした――は、洞の奥に横たわり、前足で床を引っかいた。

 そこには、紫の苔に覆われた小さな生き物がいた。森のリスに似ているが、呼吸が浅い。苔が肺を塞いでいる。

「……これを、助けてほしいの?」

 アズールが小さく鳴く。私は頷き、鞄から器具を取り出した。ピンセット、木匙、小さな乳鉢、そして空の小瓶。

 まずは毒の原因を特定する。紫の苔は、霧の成分と結びついて粘膜に貼り付く性質がある。対して効くのは、同じ谷に生える銀葉草の微粉と、樹液からとる甘露。

 私は銀葉草を砕き、微量の甘露を垂らす。粉は一瞬、青く発光し、すぐに透明に戻った。

 リスの口元に、微滴を落とす。

 十、数える。

 肺の動きが深くなった。貼り付いていた苔が、ぺろりと剝がれ落ちる。

 リスはくしゃみをし、次の瞬間、洞の隅へ走り去った。


 アズールが低く唸り、やがて満足げにあくびをする。その舌は花弁のようにやわらかく、牙は月の欠片みたいに白い。

「よかった」

 胸の底から言葉が漏れた。救える命を救えたときだけ、私は自分の存在を許せる。

 アズールは私の肩を鼻先で小突き、洞の壁を舐めた。滲み出た露がぽたりと落ち、石臼のような窪みに溜まる。

 私はその露に指を浸した。冷たく、舌に載せると仄かな甘みがある。微量だが鎮静と解毒の性質が混じっている。

「あなた、毒を食べて、甘露を吐くのね」

 アズールが尻尾を左右に振る。肯定だ。


 私は洞の外に出て、手早く野営地をこしらえた。苔のない石を集め、火打石で火花を散らす。燃やすのは、煙が毒を中和する黒樫の枝。フードを外し、濡れた裾を乾かしながら、鞄の底から小袋を取り出す。

 乾燥させた根菜と塩、そして“毒の森”の外から持ち込んだ安全なハーブ。

 ここで生きるには、ここで手に入るものと、外から持つものの境目を見誤らないことだ。

 私は薄いスープを煮立たせながら、アズールの方を振り返った。

 いつの間にか、彼は私の背に影を落とすほど近くに座っていた。大きな頭が、火に照らされて銀砂のように輝く。

「飲む?」

 木椀を差し出すと、アズールは遠慮がちに鼻先を寄せ、ぺろりと舐めた。

 その瞬間、洞の奥から、柔らかい風が吹いた。

 違う。風ではない。アズールの喉から出た、薄い歌のような響き。

 火が静かに揺れ、私の肩の力が抜ける。

 ――癒し。これが聖獣の“息吹”。


 少し眠り、少し起き、私は夜の半分を薬草の分類に費やした。

 谷の外縁には、毒を吸い上げて花に閉じ込める“毒壺花”が群生している。花粉は危険だが、花弁から抽出する油は傷を塞ぐ。

 朝までに、私は五本の小瓶を満たした。解毒、鎮痛、止血、鎮静、そして眠りの雫。

 手を止めたとき、洞の口は薄桃色に染まっていた。夜が明ける。


 そのときだった。谷の上から、金属のぶつかる乾いた音がした。

 私は反射的に身を伏せ、アズールの背に手を当てた。彼の毛並みは緊張のせいか、波打つように逆立つ。

 耳を澄ます。

 鉄靴、鎧の軋み、複数。

 そして、かすれ声。

「――この下だ。毒の谷で、女の足跡を見た」


 追手。王都の紋章は、毒の森に似合わないほど派手だ。

 私は舌を噛み、呼吸を整えた。逃げ続ければ、いつか掴まる。ならば、ここを生き延びる術を示さなければならない。

 アズールが私を見た。青い瞳は、問うている。戦うか、隠れるか。

 私は首を横に振った。ここは毒の森だ。戦場にするのではなく、森に味方になってもらう。

 私は腰の小袋から“眠りの雫”を取り、洞の出口近くに薄く塗った。霧に触れば拡散し、ほんの短い時間だが人の脚を鈍らせる。

 次に、外縁の“毒壺花”の花弁を摘み、花粉の袋を丁寧に外す。あれは危険すぎる。代わりに、花弁の油を四方の岩へ指で描く。香りは甘く、虫を誘うが、人にはほとんどわからない。

 最後に、私とアズールの匂いを消す。洞の露にハーブを溶き、毛布に染み込ませて、焚き火の煙にくぐらせる。

 できることは、やった。


 私はアズールの喉元に額を寄せた。

「ねえ、約束して。私が合図するまで、声を出さないで。あなたの歌は優しすぎるから」

 アズールは瞬きを一度し、鼻先で私の頬を撫でた。了解の合図。


 金属音が近づく。岩の縁に影が落ち、誰かが毒霧に咳き込む声がした。

「気をつけろ、足下――」

 言葉は眠りの霧に切り取られ、途切れた。

 私はアズールと目を合わせる。彼の尻尾がゆっくりと左右に振れた。

 生き延びる。私も、彼も、この谷も。


 私はそっと立ち上がり、外衣の裾を結び直した。

 薬師の仕事は、戦うことじゃない。けれど守ることだ。命を、土地を、そして――


 ――もふもふを。


 谷の上から、再び影が動いた。

 私の指は、小瓶の栓へ伸びている。

 アズールの青い瞳が、夜明けの光を跳ね返した。


 これは、私と聖獣が辺境の救世主になる、最初の朝だった。

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