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EPISODE4 狂気と凶器

 1ヶ月前の9月2日。

「ママ!今日の夕飯は何?」

「今日はね…怜人が好きなチキンソテーよ!」

「やったー!」

 夕飯の献立について楽しくお喋りを交わしているのは母親の市原瑠璃(35)と息子の市原怜人(11)。退勤時間と下校時間が珍しく被ったため一緒に歩いて帰っている。怜人にとって母親と一緒に帰れることは嬉しくて仕方ない。信号機が青になり右左を確認していると

 ブーン…

 2人は気付いていないが遠くからスピードを出しすぎている車の音が近付いてくる。当然近くまで迫ると

 ブーーーン!

「何かしら…」

 瑠璃は気を取られて足が止まる。だがその瞬間!

「怜人!危ないッ…!」

 瑠璃は反射的に怜人の身体を強く押す!

「うわっ…!?」

「キャーッ…!!」

 ガシャーン…!!

 黒のセダンが凄まじい轟音を立てて市原親子に突っ込み、怜人はギリギリ轢かれなかったが瑠璃は強く轢かれてしまう!

「おい人が轢かれたぞ…!?救急車!誰か救急車を…!」

「ママァ!?ママ…!?ママ…」

 下半身グチャグチャで血塗れ。これはかなり危険な状態だ。セダンは一切戻ることなく走り去っていた…

「ダメだ…血が止まらないぞ!?救急車まだかよ!?」

 轢き逃げした犯人は取り敢えずどうでもいい!とにかく瑠璃の命が最優先だ!

 ピーポーピーポーピーポーピーポー!

 ようやく救急車が到着するとすぐさま病院まで運ばれたが、命はもう風前の灯火だ。いくら助かったとしても障害は100%残ってしまう。そして緊急オペ中

「瑠璃…!怜人、ママの様子は!?」

 息を切らして駆けつけたのは瑠璃の夫で怜人の父親、修吾(37)だ。お互いが息をするのも忘れるくらい緊迫した状況に深夜を迎えても寝るなんてことができなかった。既に手術から6時間経過した頃

「市原さん!ギリギリのとこでしたが何とか助かりましたっ…!」

「えぇッ〜…!?」

「ママ…!」

 大好きなママが助かったことに大喜びする怜人だが何故か肝心の修吾は「えぇッ〜…!?」と鳩が豆鉄砲を喰らったような反応だ。だが状況が状況なのでこのような反応をされても気にするどころか誰も気にしない。後日病院に警察が訪れ

「葉琉州警察署の山口です。詳しく状況をお聞かせ願えますか?」

「はい…」

 警察から事情聴取に呼ばれたのは修吾と担当医。怜人は一命を取り留めたことに安堵して母の横で眠っている。まだ11歳で母は35歳だってのに…

「一旦命を繋ぎましたが…下半身は今後一切動かすことができません」

「あの…犯人はわかったんですか?」

「いえ…まだ犯人の目星はついていません…」

 事件の状況はこうだ。まず事件が置きたのは16時12分。怜人の下校時間と瑠璃の退勤時間が珍しく同じだったため一緒に帰っていた。横断歩道の信号が青になったと同時、黒色のセダンが推定時速90km以上の猛スピードで突っ込む。怜人は瑠璃が押したことで掠りもしなかったが、セダンは怜人も轢かんばかりの勢いだったという。考えられるのは飲酒運転など酩酊状態で運転したことによる暴走か、もしくは明確な殺意を持って突っ込んだかのどちらかだ…轢き逃げした犯人は市原修吾…だが1ヶ月経った今でも容疑者として疑われてはいない。


 1ヶ月後の21時。約束通り幸人と知沙はライティングでディナーを済ませた後、2人きりで渋谷の街を歩いていた。そして1ヶ月前に起きた轢き逃げの事件現場の前を通る。

「ここ…1ヶ月前に女性が轢き逃げされた現場ですね…」

「私も知ってるわ…」

 今じゃ人通りが多くて賑わっているが当時は地獄のような現場だ。

「実は私…私たちは今…その犯人の男を追っているの」

「僕も追っていますよ。それに僕が唯一犯人の正体を知っています」

「でもあなたも追っているなら何ですぐ逮捕しないの?居場所に身元だってわかっているはずなのに…」

「僕もそのお言葉、そっくりお返しします。あんな素人なら知沙さんもすぐに殺せるはずです…」

「うぅん…」

 彼の勘が正しければ神戸真美も市原修吾を追っているだろう。彼の現時点での推測では、知沙を動かしている人間が誰なのかは何人か挙がっている。まず一人目は彼の実母である水瀬千草。二人目は幼馴染である奥野健吾(故人)の母、奥野明美。三人目は彼が小学生の頃に担任だった教師、野村静枝などその他諸々。あくまで憶測の域だが明美と静枝は2006年の同時期に行方がわからなくなり、さらに両者の旦那が全く同じ手口で殺害されたからだ。だとしたら千草が明美たちを利用して指示しているか、明美か静枝が指示しているかのどちらかだろう。すると知沙は重い口を開いて

「私から言えることはないわ…」

「そうですか…」

 彼はこれ以上追及することはなかった。それでも動かしている人間が実母ではないことは想像できる。水瀬はそうそうある苗字ではなく、もしそうなら知沙はもっと警戒するはずだからだ。

「それにしても何で私に接触するの?やっぱり他に目的があるんでしょ?」

 彼は不器用にも身の丈を知沙に話してしまっていた。だが彼にとってこの先知沙たちに殺されようが、破滅しようがどうでもいい。それでももう一度だけ、母に会いたい。

「水瀬千草を知っていますか?」

「水瀬?幸人君の家族なの?」

「はい…聞き覚えありませんか?」

「ごめんね…聞いたことないわ」

「あぁ…」

 彼の表情は哀しげ、いつもといえばいつもなのだが、そんな表情を見れば知沙も連られて哀しげになる。知沙は元旦那だけでなく息子をも手に掛けてしまった人間だ。

「もしかして、お母さんが行方不明なの?」

「もう25年ですかね…僕が3歳の頃から会えてません…」

 歩きながら話しているうちに2軒目のスイーツカフェに辿り着く。

「父親は飲酒運転の挙げ句轢き逃げ殺人…そこからすぐ母さんは姿を消した…その後僕は施設をあちこちたらい回しにされました…」

「…!?」

 あまりに語られる衝撃の事実に知沙の表情が強張る。

「その父親はどうなったの?」

「車に轢かれて殺されました。多分父親を殺したのは母さんだと思っています。だから知沙さんを雇っているのは水瀬千草だと思ったんですが、どうやら違うみたいですね…?」

「誰なのかは言えないけど…幸人君のお母さんじゃないことだけは言っておくわ」

 彼も表情と目を見れば嘘を吐いているかどうかを判断できるが、知沙は間違いなく嘘を言っていない。汗を舐めて嘘か真かを判断できる知沙だからこそ誤魔化さないだろう。すると知沙はおもむろに彼の両手を掴み

「じゃあっ…私が幸人君のお母さんになってあげよっか!」

「えっ?お母さんに…!?」

「そうと決まればさっ!」

 知沙は急に明るくなった。彼女の奢りでカフェの会計を済ませると彼の手を強く繋いで引っ張り

「お願い…幸人君のこと私に守らせて…!罪滅ぼしにならないことはわかってるけど」

 知沙にできることは唯一つ。手に掛けてしまった息子の分、それは今を生きる幸人を守ること。


 一方、森家では森雄吉の厳しい監視のもと、娘の美衣紗(12)が控える難関私立中学受験に向けて休む間もなく勉強を強いている。100点満点を取らなければ家から追い出し、無理が祟って入院した際も点滴を打ちながら勉強させられる。母の美紀は「やりすぎ」や「やめて」と夫を止めるが、美紀(39)に至っては暴力で制されていた。美衣紗の担任教師も雄吉に抗議しようとするのだが、雄吉が大企業勤めのエリートサラリーマンで、さらに重要な役職持ちであることが壁だった。さらに驚くべきことが美衣紗は父親に褒められたことが生まれてから一度もないという。

「あなた!もうやりすぎよ!やめてください…!!」

「満点取らなきゃ俺の娘じゃねぇんだよ!出来損ない!!」

「…」

 外へ追い出されているが何故か美衣紗は一切表情を動かさない。長年の教育虐待の影響で抵抗する力を喪失しているのもあるが、同時にサイコパスと化している。母親は娘の変化に気付いていても父親にとっては抵抗しないこともまたストレス。実はここ数ヵ月美衣紗は言葉を一つも発していないのだ。

「おい美衣紗!何とか言ったらどうなんだァ!?」

 バチン!バチン!バチン!

「………」

「やめてぇ!!美衣紗の様子がここんとこおかしいわ…!?」

 殴られるにも無抵抗。もはや森雄吉にとって愛娘であるはずの美衣紗は自分の理想を叶えるだけの道具だった…だがそれが死の前触れであることを知らず。何とか家に入れてもらったが

「美衣紗…ママの仕事がうまくいったらパパともう離れよう…ママももう限界だから…!」

「……」

「ねぇ美衣紗…ちょっとだけでも話せない?」

「……」

 やっぱりダメか…実のところ美衣紗は失語症になってしまった。娘は言葉を発さず機械的な動きはまるでロボットのようだ。母の懸念はこのまま父親と離れることができても、前と同じ感情を取り戻せるかどうかだった。もしこのまま逃げることができたら娘を連れて病院へ行こう…そうすれば救いの手は少しでも現れるはず…それを今は信じるしかない。


 翌日。美紀は仕事を終え、いつものように娘が虐待されているのではないかと怯えながら帰宅した。だが

「あれ…ねぇ美衣紗…パパは?」

 いつもいるはずなのに雄吉がいない。財布と携帯は何故か置かれたまま。流石に美紀は心配になり近所の住人に聞き込みをするが有力な情報は得られなかった。それも当然、何故なら執行人に捕まってしまったからだ…


「んん…!?おい何だここ!?何で縛られてんだ俺は!?」

「あらあら?もう少しゆっくり寝ててもよかったのに?」

「テメェ誰だコラ!俺が誰だわかってんのか!?俺はエステルルージュ(大手の製薬会社)の部長だぞ!」

「知ってる…」

 雄吉は目を覚ますと案の定叫び倒す。それも見覚えのない森の木に縛られているからだ。

「おいババア!テメェなんて一瞬で捻り潰してやんよ!!」

「あっそう…じゃあやってみなよ」

 彼女はおもむろに拘束を解いて雄吉にナイフを手渡した。

「じゃあ私を殺してみな…?もし殺せたら、解放ってことで」

「余裕かましやがってぇ…!後悔すんじゃねぇぞ!」

 毎日毎日小さい娘に教育虐待だけでなく身体にもダメージを負わせてたダメ親父の代表的な奴だ。当然自分より弱そうな女性が相手なら挑発に乗って無我夢中で殺そうとする。

「社会的にも死にやがれぇ…!」

 予想通り奴は彼女に切先を向けて力いっぱい振り下ろす!だが

 スパン…!

「えっ…」

 ポトポト…

「アァァァーー…!?」

 ナイフを持っていたはずの右腕がない!あまりの早業に痛みが遅れて出てしまうほどだ。

「そういえば…まだ虫さんは餌を求めてるんだよ?まだ暖かいもんねぇ…」

「何…言って…?」

 彼女は再び奴を大木に縛りつけた。そしてあるものを見せる。

「これが何かわかるかしら?」

「それ家にあったワインじゃねぇか…?それが何だ…」

 ボトボト…

「うわっ…!?何するんだ…!?」

「ワインはブドウにベリー…とにかく甘い香りがするのよ。それがもし、虫さんたちが群がる前で塗りたくったらどうなるかな?」

 すると数分も経たないうちに

 ブ〜ンブ〜ン…

「痛ぇ…!痛ッ…!?」

 そう。ワインの甘い香りはその味に誘われるかのように無数の虫が集まってくる。

「さぁ…あなたは幼子から夢だけじゃなく、自我さえも貪り食った…今日はあなたが虫に貪り食われる番ね…」

「やめろ…!これを解いでくれ…!家族にはきちんと謝る!会社を懲戒になっても構わないから…!やめろ…やめろやめろ…!助けてくれ…!」

「黙れ…!」

 彼女はまるでゴミを見るような目で最後の言葉を掛け、そうして数時間後に森雄吉は全身を無数の虫に食われて絶命した。当然勤め先や家族は大混乱だが仕方ない。


 そうして2日後。美紀と美衣紗は雄吉がいつ帰ってきてもおかしくない状況を察し、急いで荷物をまとめていた。2日もいなくなるなんて本来おかしいのだが、これは絶好の機会だ。相変わらず美衣紗は能面のような表情で言われるがまま荷造りだが…

「これでオッケーね…行きましょっか?」

「……」

 美衣紗の手を繋いで家を後にした。本来奥野明美が仕置きを実行する際は事前に美紀と美衣紗に伝えるはずなのだが、今回は一切事実を知らせていない。理由は美衣紗がサイコパスと化す寸前であったため、ここで殺人の事実を知らせてしまえば悪い刺激になってしまうと考えたからだ。美衣紗の自我を取り戻せる存在は母しかいないだろう。母親の愛が生み出す奇跡は無限大と、彼女は信じている。


 明美が真美と次なる計画、市原瑠璃を保険金目当てで殺害しようとした市原修吾の殺害計画を立てていた頃だった。知沙は明美にバレないよう、携帯で撮影した幸人の写真を眺めている。すると

「あの…」

「…!君は確か、新入りの?」

「神戸真美です。今見てた写真って、もしかして水瀬幸人ですか?」

「私は高橋知沙。真美ちゃんも知っているのね…?」

 実は真美も幸人のことが気になっていた。確かに「変態!」と罵ったが彼が見せた優しさは本物で、どこか女性を気遣っているような言動だった。

「真美ちゃんは旦那を殺したんでしょ?」

「…はい…」

「私は旦那だけじゃなくて、まだ中1の息子も殺したの…旦那を刺し続けたときの記憶はあるのに、息子を殺した記憶がない…」

 おそらく知沙の中にある狂気が息子の命まで奪ってしまったのだろう。

「ただ…息子の身体を舐めて以来、汗の味で嘘を吐いているかわかるようになったの…」

「な…舐めたんですか…!?(えぇ~…中1っちゃ思春期なのに、身体を舐めたの…?)」

「翔星が帰ってこなかったら私だってあの子なんか殺してない…!けどもし殺さなかったら、どこか別の機会できっと殺してた…!」

「知沙さん…」

「狂気と愛情は暴走させてはいけない…溢れ出て受け止めるのは自分じゃなくて真っ先に家族や恋人、ときには自分の子供になるの。だから…私はもうそんなことはしたくない…」

 今の言葉はかなり心に響く内容だった。それと同時に明美に唆されて卓郎を殺したことも、愛情は抜きに狂気を暴走させた先の受け皿だったのかもしれないと悩んだ。それでも最初に溢れ出した狂気の受け皿として選ばれたのは神戸卓郎。知沙は受け皿として翔星を選ぶ必要はなかったと非常に後悔していることが聞かなくてもわかる。そして爆発した狂気はすぐ人を殺せる「凶器」を生み出す。


「知沙…!」

「はい…?」

「あなた、幸人君と随分仲が良いみたいね…?」

「…」

 知沙は「やらかした!」と心の中で呟いているが極力平然を装った。実は幸人と初めて出会う前にも明美から「遭遇したら気を付けろ」と再三注意されている。しかし

 トン…

「よくやったわ…」

「えっ…?」

「そこであなたに任せたいことがあるの」

 何を言われるのかと冷や汗が止まらない。

「あの子を生け捕ってくれない?」

「えっ…!?」

「あの子の口から水瀬千草の名前が出たんじゃない?」

 水瀬千草…そういえばちらっと彼が言っていた。

「多分なんだけど、あの子は私の正体は自分のママだと信じてる。けど、まだ千草を会わせるわけにいかないの」

 多分会話の内容までは筒抜けではない。何故なら明美の正体はママじゃないと伝えたことを知らないからだ。

「安心して…!生け捕るんじゃなくて、ちょっと話がしたいだけなの」

「私から伝えるじゃダメなんですか?」

「それだと示しがつかない…それと最後に通告しておくわ」

 やはりまだ明美と話すことに慣れない。果たして最後通告とは…?

「私のお願いが聞けないなら、このまま私から離れて幸人君と一生傍にいるべきだと思う…もし従うなら、幸人君がこの先知沙の敵になるか味方になるかは、あなたの想い次第…これだけは忘れないで」

 40歳になって手にした愛する人…旦那と翔星を殺してしまった自分を拾ってくれた恩人…知沙はどっちの選択肢を選ぼうか非常に思い悩むことになる。果たして知沙はどっちを選ぶ…?だがこの二択は、後に知沙の運命を大きく変えてしまうものだった…

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