硝子の残響
冬の空気は、研ぎ澄まされた刃物のように私の皮膚を刺す。この海辺の町では、風は常に塩の匂いを運び、あらゆるものの輪郭を僅かに、しかし確実に蝕んでいく。私が住む木造アパートの二階の部屋では、窓ガラスがきしむ音が、まるで老人の呻き声のように、昼夜を問わず聞こえていた。
私の聴覚は、壊れていた。いや、むしろ正常に機能しすぎているのかもしれなかった。遠くの埠頭で船体を洗う波の音、舗道を転がる乾いた木の葉の摩擦音、隣室の時計が秒を刻む微かな金属音。それら世界の些末な響きが、私の頭蓋の内側で際限なく増幅され、一つの巨大な不協和音となって渦巻いていた。人々が気にも留めない音の洪水の中で、私の意識は絶えず溺れかけていた。
唯一の安息は、私が週に数日だけ店番をする古書店の、奥まった一室にあった。そこでは、埃が音を吸い、古紙の乾いた匂いが時間を吸っていた。客のいない午後に、分厚い本のページを一枚めくる音だけが、許された世界の響きだった。
その日、私は店の片隅に置かれた古い桐の小箱を見つけた。蓋を開けると、くすんだ薄紙に包まれて、小さな硝子の塊が横たわっていた。取り出すと、それは季節外れの風鈴だった。空気に長く晒されていなかったためか、その水色の硝子は奇妙なまでに透明で、冬の低い陽光を浴びて、冷たい光を内に宿していた。
私はそれに値をつけず、外套のポケットに忍ばせた。部屋に帰り、固く閉ざした窓の内側に、その風鈴を吊るした。風の入らない室内で、それは沈黙したまま、ただの硝子のオブジェとしてぶら下がっていた。それでよかった。音を立てない、という一点において、それは完璧な存在だった。
だが、その夜から、何かが変わった。
世界が寝静まった深夜、私の耳にだけ、あの風鈴の音が届き始めたのだ。
ちりん、と。
それは、凍てついた氷柱の先端が触れ合うような、硬質で、どこまでも透明な音だった。幻聴だ、と私は思った。私の壊れた聴覚が作り出した、新たな悪夢の一節に違いない。しかし、その音は不思議と苦痛ではなかった。むしろ、その硝子の残響は、私を苛む外界のあらゆる騒音の上に、清らかな一枚の膜を張るように響き渡り、私をその音だけの世界に閉じ込めてくれた。
それは、私だけの聖域だった。私は次第にその幻聴に身を委ねるようになった。ちりん、という音が聞こえ始めると、私は世界のすべてから切り離され、硝子の音色でできた繭の中にいるような、倒錯した安らぎを感じた。古書店の仕事も休みがちになり、私はただ部屋で、鳴らないはずの風鈴の音に耳を澄ますようになった。
その音は、死の静けさに似ていた。あらゆる生命活動が停止したあとに残る、絶対的な無の響き。私はその響きの中に、自らの存在が溶けていくのを感じていた。
風の強い日だった。灰色の雲が空を覆い、海は鉛色に荒れ狂っていた。ごう、という風の唸りが、アパート全体を揺さぶっていた。そのとき、私は抗いがたい衝動に駆られた。この風鈴が、本当に音を立てているのか、確かめなければならない、と。
私は窓の鍵に手をかけた。固く錆びついたそれを、渾身の力で回す。窓が開いた瞬間、凍てついた風が、叫び声と共に部屋へなだれ込んできた。
風鈴は、狂ったように揺れ始めた。もはやそれは、ちりん、という澄んだ音ではなかった。ぎゃん、ぎゃん、という硝子の悲鳴。そして次の瞬間、風に煽られた風鈴は壁に激しく打ち付けられ、甲高い破壊音を残して砕け散った。
その刹那。
私の世界から、すべての音が消えた。
風の音も、波の音も、私自身の心臓の鼓動さえも。まるで分厚い水の中に沈められたように、完全な無音だった。あれほど渇望していたはずの静寂。しかし、それは安らぎなどではなかった。音のない世界は、存在しないのと同じだった。音によって世界の輪郭を確かめていた私は、今や、無限の虚空にただ一人、放り出されていた。恐怖が、私の喉を締め上げた。
私は床に膝をつき、散らばった硝子の破片を、祈るように拾い集めた。太陽の光が雲間から差し込み、破片は私の掌の上で、涙のようにきらきらと輝いた。音は失われた。だが、光は残っていた。
私は、一つの大きな破片を手に取った。その鋭利な縁を、そっと耳朶に当てる。もちろん、何も聞こえはしない。しかし、私はそこに、かつて聞いたあの透明な残響の記憶を、必死に聴こうとしていた。あれは、世界との断絶を意味する音ではなかった。あれは、音の洪水の中で溺れる私を、かろうじて世界に繋ぎとめていた、最後の糸だったのだ。
私は立ち上がった。コートを羽織り、ドアを開ける。一歩外へ踏み出すと、冷たい風が頬を打った。音は、まだ戻らない。
私は、海へ向かって歩き始めた。あの潮騒を、もう一度聞きたかった。遠くに聞こえるはずの、あの生命の響きを。それがたとえ、再び私を苛むことになるとしても。私は、この無音の牢獄から抜け出したかった。
私の足音はしない。だが、私は歩き続けている。失われた音を探して、世界との関係を結び直すために。いつか、この掌にある硝子の破片が、遠い潮騒に共鳴して、微かに震える日が来るのを、信じながら。