第92話 お姉ちゃんって呼んでよ
秋葉がいつものようにベッドで目を覚まし、起き上がって部屋から出る。
母親は居ない。
(また朝帰りか)と思いつつ、いつものように朝食と弁当の用意をしていると、母親が帰宅。
「母さん、大概にしときなよ」と、いつものように小言を言う秋葉。
「永久就職活動ですからね。それにけっこう、いい男だし・・・」と言う母親を見て苦笑する秋葉。
「どうせ、妻子持ちの浮気でしょ?」
「まあね、それより睦月、これ、使わない?」
「何?」
「その人に貰ったの。温泉ホテルの無料宿泊券よ。連休にでも芝田君達と行ってきたらいいわ」
学校で昼食中に秋葉が村上達に温泉行きの話題を振った。
「どこの温泉?」と芝田。
「星山温泉よ」
「よく聞く所だね」と村上。
「効能は?」と中条も乗り気。
「入ると美人になるとか」と秋葉。
「いいなぁ、それ」と中条が言うが、芝田と村上は「どこでも言ってるじゃん」と笑う。
「あと腰痛とか神経痛とかぎっくり腰とか」と秋葉。
「俺達、年寄りじゃないんだからさ」と芝田が言った。
「生理痛に効くってのもあるわよ」と秋葉。
「それも、いいなぁ」と中条。
「じゃ、決まりね。情報集めておくわ」
「今度は温泉間違えないでね」と村上と芝田が声を揃える。
去年の失態を突っ込まれた秋葉は赤面しながら「しつこいなぁ」と言った。
放課後、四人は村上のアパートに来て、パソコンで情報を集めた。
現地までの交通手段。温泉街の散歩コース。宿泊するホテルの宣伝ページ。そして食べ物。
そしてホテルに電話して予約をとる。
当日、八時に上坂駅集合。と言っても駅はいつもの通学コースの延長だ。
芝田が村上のアパートに寄り、そこに自転車を置いて、連れ立って中条家へ。
そして三人で駅に行くと秋葉が待っていた。
電車を乗り変えて星山駅へ。そこからバスに乗り換えて温泉街へ向かう。
窓の外を眺めながら秋葉が言った。
「こんなふうに遊ぶのも、これが最後かもね」
「これから受験シーズンに向けて受験勉強の圧力が強くなるからね」と村上。
「大丈夫だろ。何せ俺達は去年から受験に向けて勉強してるんだからさ」と芝田が言う。
「で、芝田君、この間の実力試験はどうだったの?」と言って秋葉は笑う。
「それは言わない約束だろ」と芝田。
「それは約束じゃなくて、ただの現実逃避だ」と村上が言って笑った。
口を尖らす芝田を見て中条が笑う。そして村上は中条の頭を撫でた。
バスが温泉街に着く。
様々な温泉宿が立ち並ぶ。日本家屋のひなびた旅館、大きなコンクリ造りのホテル。
目的地はかつて庄屋の屋敷だったという豪壮な館の脇に五階建てのコンクリの建物が建つ、この温泉街でも有名なホテルだ。
コンクリ建物の玄関に入ると正面にロビーがある。
秋葉は言った。
「それじゃ、手続きするわね。四人で一部屋なので、全員兄弟って設定でよろしくね。うっかり普段の苗字で呼ぶと嘘がバレるから、ここでは下の名前呼びでお願いね。オッケー?」
秋葉は言いたい事だけ言うと受付に向かい、旅館の人に宿泊券を見せて、受け答えしながら宿泊者名簿に四人分の氏名と年齢を書き込む。
後ろから村上達が覗き込む。
秋葉睦月19才
秋葉拓真18才
秋葉真言17才
秋葉里子16才
そして鍵を渡され、部屋に案内される。
中は広い畳の間。そこに荷物を置いて茶道具とお菓子のある座り机を囲んだ。
「秋葉さん、ちゃっかり一番上の設定にしちゃってるし」と芝田。
「当然でしょ。券を持ってきたのはうちの親なんだから。それに秋葉さんじゃなくて、睦月お姉ちゃん・・・だよ。さぁ、言ってみてよ、拓真君」
「何だかなぁ」とあきれ顔で言う芝田を見て村上は「芝田が言う事かよ」と言って笑い、秋葉に向かって「睦月お姉ちゃん」と言う。
秋葉はじーん・・・といった顔で「もう一回」
「睦月お姉ちゃん」
「もう一回」
「睦月お姉ちゃん」
「もう一回」・・・。
そんな秋葉を見て芝田は呟いた。
「今まで、自分がどんなに恥ずかしい事をやっていたか、解ったような気がする」
そんな芝田を見てくすくす笑う中条。
そして芝田は村上に言った。
「それからな、弟の真言、ここでは芝田が・・・じゃなくて、拓真兄さんが・・・だぞ」
「さっき言ってた"恥ずかしい事"はどうしたんだよ」と村上があきれ声。
「これは便宜上必要な事で、どこかの国とは違うんだ」と芝田。
「はいはい、拓真兄さん」と村上。
「もう一回」
「お前なぁ」
やれやれ・・・という顔で村上は、用意されている急須にお茶のパックを入れ、電気湯沸かし器のお湯を注いだ。
隣に居る中条が村上の上着の裾を引き、彼の耳元に囁く。
「真言お兄ちゃん」・・・。
悪くないな・・・と村上は感じ、いたずらっぽく笑う中条を見てその頭を撫で、二つの湯飲みにお茶を注いだ。
部屋で一服すると、彼等は旅館を探検した。
旧館の木造部分はかつての庄屋屋敷で、大広間が宴会場として使われ、広い日本庭園がある。
コンクリ建物の一階はロビーと売店の他、温泉とその入口にいくつかのゲームや卓球台。
「温泉卓球があるぞ。勝負だ」とはしゃぐ芝田。
「いや、温泉卓球は浴衣でやるのが作法だ」と村上。
「じゃ、着替えてくるぞ」と芝田。
「後にしなさいよ。それよりもうお昼だし、外に食べに行くわよ」と秋葉が三人を促した。




