第62話 好きって言ってよ
最近、篠田の様子がおかしいと、佐川が気にするようになったのは、三者面談が終わった頃だった。
最初は「日本の夫婦の愛は本物なのか」のようなアメリカの論説記事を、柄にも無く篠田が話題にし、白人特有の差別意識だと、佐川が一蹴した所から始まった。
その後、篠田の部屋に連れ込まれると、机の上に「一日に何度、好きと言ってもらえるか」のような雑誌記事が、これ見よがしに広げてあったり・・・。
どうやら、付き合うきっかけとなった屋上での会話での「お前なんか嫌いだ」という言葉が、今頃になって気になりだしたのでは・・・と佐川は思い至る。
そして心の中で(そう言えば、篠田に"好き"と言ってあげていないな。けどもし、言って欲しければそう言えばいいのに)と呟いた。
そんなふうに軽く考えていた佐川だったが、篠田の悩みはもっと深刻だった。
篠田は岸本に相談し、岸本は篠田に言った。
「男って、照れっていうものがあるから、好きな女にでも、なかなか言わないものよ」
これを傍で聞いていた山本は言った。
「要するに、佐川に好きって言わせればいいんだろ? そんなの簡単じゃん」
山本は、ノートにいくつかの漢字を書く。
佐川が登校すると、山本は言った。
「佐川、漢字テストだ。これは何と読む?」と、そう言って、樽の字を見せた。
「たる、だろ」と佐川。
「これは?」と錐の字を示す山本。
「きり、だろ」と佐川。
「これは?」と鍬の字を示す山本。
「くわ、だろ」と佐川。
「これは?」と犂の字を示す山本。
「すき、だろ」と佐川。
山本はドヤ顔で篠田に向かってVサイン。
「何のゲームだよ?」と不審顔の佐川。篠田は呆れ顔で溜息をつくと、ハリセンで山本を思い切り叩いた。
佐川は溜息をつくと「要するに篠田さん、俺に好きだって言って欲しいんだろ?」と言って、篠田の前に立ち、彼女の頭を撫でながら「好きだぞ、薫子」
そんな佐川に岸本は溜息をつくと「佐川君、そこに座りなさい!」
岸本は言った。
「女性っていうのは、自分が本当に愛されているのか、いつも不安に思っているものなの。だから常に言葉に出して欲しいの。だけど、ただ言葉に出せばいいってものじゃ無いの。義務的に言わせても何の意味も・・・」
その時、篠田は「そういう事じゃないの」と、岸本の話を遮った。そして言った。
「佐川君と付き合う時、言ってたの。佐川君って昔、酷い裏切りを受けて誰も好きになれなくなったって。けど、そんなの哀しくて・・・」
「それはお前のせいじゃないだろ?」と佐川。
「でも、変わって欲しいの。佐川君、どうすれば人をちゃんと好きになれるの?」と篠田。
「何かあったんだな?」と佐川。
「うん」と俯く篠田。
「何があった?」と佐川は問い質す。
篠田は「それは・・・」
岸本も口を挟んだ。
「篠田さん、ちゃんと言葉にしないと、解らないわよ」
篠田は意を決して、語り出した。
「遠山志信さん、憶えてるよね?」
「会ったのか?」と佐川。
「うん」
「誰なの?」と岸本が聞く。
「佐川君の元カノ」と篠田が答えた。
「えーっ?」と、居合わせた一同唖然。
男子達は口々に佐川を追求する。
「お前、ぼっちをポリシーとする一匹狼じゃなかったのかよ」と山本。
「しっかりリア充してたんじゃん! それで、なんちゃってぼっちとか・・・」と内海。
「うるせーな。俺だって色々あったんだよ。ってかクラスメートが昔モテた事があると嫉妬で裏切り者呼ばわりとか、んなもん漫画かアニメの中だけにしとけってんだ!」と佐川。
「お前のポリシーの話だろ? 何が撃沈王だよ。俺の同情返せ!」と清水。
「同情とか要らねーから・・・ってか何でその話知ってるんだよ? 大体それ、作り話だし、篠田さんにしか話してないし・・・」
そう言って佐川は篠田を見る。
「まさか篠田さん、人にしゃべった?」と佐川。
篠田は焦り顔で必死に言い訳を探したが、何も思いつかず、両手を合わせて佐川に「ごめんなさい」
佐川はうんざりした表情で「やっぱりお前なんか嫌いだ!」
篠田は泣きそうな声で「佐川くーん」
そして篠田は、先日の出来事を語った。
その日、篠田が佐川と映画デートに行った帰り、佐川と別れてしばらく歩くと、後ろから声をかけられた。
悲しそうな表情の女子高生だった。それが遠山である。
「あなた、佐川君の彼女だよね? ちょっと時間、いいかしら」と遠山。
「佐川君のこと、知ってるの?」と篠田。
喫茶店で遠山に佐川との関係を聞くと、元カノだという。
だが、篠田の知識では、彼に女性と付き合った経験など無い筈だ。
それらしい関係性があるとしたら、彼が告白して言い触らされた相手以外に無い。そのせいで佐川が人間不信に陥ったのだと思い、無性に怒りがこみ上げた篠田は、遠山を責めて言った。
「佐川君の彼女ですって? 彼はあなたが好きだったから、告白したんだよね? それを振ったんじゃなかったかしら? それを周囲に言い触らして、いじめの標的にしたんじゃないの? 何が元カノよ!」
「佐川君が言ったの? そんな事があったって・・・」と遠山。
「そうよ。しかもクラスの女子全員に告って振られたなんてデマ撒くとか、酷すぎるんじゃないの? 人間のやる事じゃないわ!」と篠田。
遠山はしばらく考え込むと「あなた、もしかして、いじめられた所を彼に助けてもらった?」と篠田に聞いた。
「そうよ」と篠田。
「やっぱりね。それで本当の事を言ったら、助けて欲しければ自分と付き合え、みたいになりかねないものね」と遠山。
(えっ?・・・)と篠田は衝撃を受ける。
「じゃ、あれは嘘なの?」と篠田。
「そうよ。私もいじめられてるのを、彼に助けてもらったの」と遠山。
話を聞きながら、大谷が口を挟む。
「けどさ、それでその子と付き合えたなら、悪い話じゃないじゃん。俺だったらクラス中敵に回したって、そっちを取るぜ。10人でも20人でもかかって来いってんだ!」と大谷は息巻いた。
だが篠田は言った。
「もし、そのまま付き合えたのならね。けどその子、佐川君を裏切ったの。いじめてる奴等に、仲直りしたければ佐川君と別れろ、って言われてね」
「ひでー。マジかよ」と男子たち。
最初は、クラスの中心グループでの、遠山に対する仲間外れだったが、次第にエスカレートして、公然たるいじめに発展した。
他の生徒が見て見ぬふりをする中で、いじめを非難する声を上げたのが佐川だった。
相手は数人の女子である。
だが、正義感が強くて他人の顔色を伺う事が嫌いな佐川のことだ。「いじめをやる奴に人権なんか無い」とばかりに、容赦無く彼女達を罵倒した。
思わぬ味方の出現に遠山は喜び、まもなく彼等は付き合うようになったが、いじめは陰湿化し、佐川の反発も激化した。
その罵声で首謀者を泣かせる事が重なると、他の男子が介入して、彼女達に公然と加担し、佐川達はクラス全員を敵に回した。
彼がクラスメート達に取り囲まれて、暴行に及びそうな事態になると、彼は躊躇せず防犯ブザーを、近隣にも聞こえる大音量で鳴らした。
学校は指導に乗り出したが、味方の数を頼むいじめ側はおさまらず、学校の対応が緩いとなると、佐川は警察に通報した。
そして、抵抗を続ける佐川に手を焼いたいじめグループは、彼の唯一の味方を引き離す挙に出た。
遠山に、佐川と別れれば、いじめの対象から外して仲直りすると、持ち掛けたのである。
抗争に疲れた遠山は、受け入れるしか無かったが、遠山は佐川を裏切る事をさすがに躊躇した。
いじめ首謀者の女子トップは言った。
「だったら最後に一度だけ、やらせてあげなよ」
そんなふうに、篠田は遠山から聞いた過去を語り、そして言った。
「それでね、遠山さんに頼まれたの。自分が佐川君から奪ってしまったものを、彼に返してあげて欲しい・・・って」
そう説明する篠田に、周囲は「奪ったものって?」
「童貞じゃないよね?」と言った大谷を、岸本はハリセンで思い切り叩いた。
篠田は言った。
「人を好きになる心を・・・って」
話が終わると、鎮痛な空気が場を包んだ。そしてチャイムが鳴り、ホームルームが始まってこの話題は打ち切りとなった。