第58話 片桐さんの永久就職
渡辺のマンションに住み着いたままの片桐は、就職希望であったが、夕食時に進路の話題が出た。
「やりたい仕事とかあるのか?」と渡辺。
「とりあえず、どこかに就職して、渡辺君が会社創ったら、退社して入るって出来るかしら。社員として渡辺君を助けたいの」と片桐。
「それはいいが、辞めるつもりで入るような所で働くって、辛いと思うぞ」と渡辺。
「渡辺君が起業するのって、大学卒業した後だよね?」と片桐。
「そうなるだろうな。どうせなら片桐さんも大学に行ったらどう? 社員として助けてくれるなら、専門知識があった方が助かる」と渡辺。
「私に、大学に行くお金の余裕は無いよ」と片桐。
渡辺は「俺の起業資金にそれくらいの余裕はあるが、家訓があるから援助は出来ない。だけど個人的な奨学金という名目なら、家訓を破った事にならないが、どうだ?」
「そんな迷惑、かけられないよ。それに奨学金って借金だよね?」と片桐。
「企業による奨学金で、その会社に入れば返済が免除される・・・ってのもあるぞ」渡辺。
「だったら猶更・・・」と片桐。
「遠慮はいらないさ。会社がそういう制度創るのだって、それで会社にプラスだからだぞ」と渡辺。
二人は形ばかりだが、真似事のような感覚で、奨学金の契約書を作った。
翌日、片桐は教室で女子達の間で進路の話題が出ると、奨学金の事を話し、二人で作った契約書を彼女達に見せた。
話を聞いた女子達は・・・。
「渡辺君って優しい」と吉江。
「片桐さんが羨ましい」と篠田。
その時、校内放送で片桐は教務室に呼び出され、教室を後にする。
その場に残された契約書を、吉江が見ているうち、急に深刻な表情になって声を上げた。
「渡辺君、片桐さんの気持ちは私も知ってるし、意味なんて無いのも解るけど、こんな形で彼女の将来を縛るなんて、どうかと思うわよ」
周囲の面々が改めて契約書を見ると、返済免除の条件に「永久就職」とある。
一同唖然
だが渡辺は彼女達の反応が理解に苦しむ・・・といった呈で反論した。
「いや、病院出資の看護婦学校の奨学金が、自分の所の看護婦になるのを条件に返済免除されるってのもあるし」
「でも就職とは違うでしょ? 女性の一生の問題よ」と吉江。
聞いていた男子も口を挟んだ。
「まあ、法律用語じゃないから、これでどうなるものでもないけどね」と鹿島。
「けど、両者がそういう意味で合意したって言い張られたら、契約と見なされる事もあるぞ」と佐川。
「だから一生の仕事をどうするかって事で、他の場合でも同じようなのが・・・」と渡辺。
(どうも会話が噛み合ってないような気がするんだが)と佐川は感じ、渡辺に問い質す。
「渡辺は永久就職の意味、解ってるのか?」
「だから終身雇用って事だろ」と渡辺。
一同唖然とする中、岸本は言った。
「渡辺君、そこに座りなさい!」
「座ってるけど」と渡辺。
岸本は言った。
「あのね、永久就職って、結婚の事よ」
「な・・・」
渡辺絶句。
「お前、相続放棄とか知ってるくせに、そんな事も知らないのかよ」と佐川。
「星空見てて足元に井戸があるって知らなかった昔の人みたい」と秋葉。
「そもそもこの文面、誰が書いたんだよ?」と鹿島が問い質す。
渡辺は「片桐さんだけど」
その時、教務室から戻った片桐が教室に入る。
全員の視線が自分に突き刺さるのを感じて、片桐はたじろいだ。
「え? 何?・・・」
話の経緯を聞いて状況を把握した片桐は、渡辺に平謝り。
「ごめんなさい。渡辺君を縛るつもりは無かったの。ただ、せめて雰囲気を楽しみたくて・・・」と片桐。
「っていうか、片桐さんの熱意は解るけど、何も結婚なんて持ち出さなくても、何でこんな?・・・」と、猶も状況を理解できない渡辺。
その時、吉江が口を挟んだ。
「何で・・・って、渡辺君、何で結婚なのか解らない?」
「だから一生かけて俺の仕事助けるって意気込みを・・・」と渡辺。
「じゃなくて、結婚したかったからでしょ?」と吉江。
渡辺は「いや、結婚ってのは異性として好きな人と・・・」
「異性として渡辺君のことが好きだからでしょ?」と吉江。
「え?・・・」
渡辺しばし唖然、そして片桐を見て「そうなの?」
「うん・・・」と片桐は頷きながら「けど渡辺君、迷惑だよね?」と涙声で言う。
渡辺は慌てて「そんな事は無い。俺、片桐さんの事が好きだ」と言う。
片桐は嬉しさで号泣し、渡辺に抱き付いてその胸に顔を埋めた。
周囲の男子達は溜息をつくと、口々に言った。
「最強の唐変木だな」と内海。
「鈍いったって限度があるだろ」と清水。
「本当に会社作る事しか考えてないのな」と津川。
だが岸本は片桐にも説教する。
「だけど片桐さんも片桐さんよ。女は待つだけなんて昔じゃないんだから、ちゃんと自分で告白でも何でもしなきゃ。言葉にしないと伝わらない事もあるわよ。特に渡辺君みたいな人にはね」
「けど渡辺君、言ってたの」と片桐。
「何て?」
片桐は言った。
「恋愛とかお金のかかる事には手を出さない主義だって・・・」
次の瞬間、岸本の怒鳴り声が教室に響いた。
「渡辺君、そこに座りなさい!」
その後、渡辺は岸本ら数名の女子から小一時間説教を受けた。
進路希望調査が出揃うと、親を呼んでの三者面談がある。
中条は祖父、芝田は兄、秋葉は母が来校して、本人とともに担任と面談する。学校での様子や成績とともに、進路の方向性も重要な話題だ。
親が遠くに居る村上は、携帯端末を持参して遠隔通信を使った面談となった。
その日、松本は部活中で、まだ自分の予定まで時間はあったが、教室に忘れ物を取りに行く途中で生徒玄関を通る時、中年男性に呼び止められた。「二年二組の教室はどちらですか?」と、道順を尋ねる男性。
見ると上着に「蕎麦善」の刺繍。
松本は「もしかして武藤君のお父さんですか?」
彼を教室へと案内する中、彼は息子について話した。
武藤本人がスポーツ選手への道を希望しているが、父親は家業を継いで欲しいと溜息をつく。
芽が出なければ家に戻ると言うが、いつになるかも解らないと・・・。
「お嫁さんでも来て、店の面倒を見てくれたら、有難いんですけどね」と男性は言った。
松本は専門学校希望だったが、分野はまだ決めていなかった。
教室の前に武藤が待っていた。順番を待ちながら父親と話す武藤を見て、松本は彼の隣で蕎麦を茹でる自分の姿を想像した。
やがて予定の時間が近付き、松本の親が来校した。
時間が来て、二人で担任の前に座る。進路の話になった時、松本は調理の専門学校に行きたいと、親に告げた。