第40話 芝田君の悩み
文化祭の後、牧村と水上が付き合うようになった事が、クラス全員の耳に入った。
「さもありなん」と彼等は受け止め、公認の仲として水上は、牧村に近付く他の女子を露骨に威嚇するようになった。
そして彼女を中心とするクラス女子のグループ・・・通称「水上女子会」はといえば、トップの水上が自ら「みんなの牧村君」の掟を破ったという事で、暗黙のうちに自然消滅の形となった。
水上自身も牧村と過ごす時間が最優先だとして、他の女子と疎遠になったが、それに誰かが不都合を感じる様子は皆無だった。
周囲の女子達は「水上が付き合いが悪くなった」とは言いながらも、それに不平を言うのを牧村を獲得した水上への嫉妬と受け取られるのは真っ平だった。
そして何より、水上を怒らせて孤立する恐怖から解放され、むしろのびのびと、各自自分達どうしの人間関係を維持していた。
そんな中を数日が経った。村上のアパートでは二日ほど芝田も中条も来ていない。
帰宅した村上は着替えもそこそこに、夕食を食べる気にもならず、布団に横になった。
しばらくうとうとしていると、玄関のチャイムが鳴る。ドアを開けると、そこには荷物を抱えた芝田が、バツが悪そうに立っていた。
「しばらく泊めてくんないかな?」と芝田。
「どうした? 兄貴と喧嘩でもしたか?」と村上。
「いや、喧嘩じゃないんだが・・・」と芝田。
「まあ、上がれよ」と村上。
翌日から芝田は学校を休んだ。一日村上のアパートで引きこもり状態で、中条も心配して、様子を見に来たりもした。
村上も中条も、何があったのかを何度も聞いたが、芝田は答えをはぐらかし続けた。
三日ほど経った日、中条は午前で学校を早退し、芝田の様子を見に、村上のアパートに行った。
布団に寝転んで携帯ゲームをいじりながら「授業はどうしたよ」と聞く芝田に、中条は「芝田君が心配だから」とだけ答え、家出をした訳を聞くでもなく、昼食にオムライスを作って二人で食べると、「明日、またこの時間に来るね」と中条は言って、帰り支度を始めた。
「また早退かよ」と芝田。
「うん。明日もあさっても」と中条。
「お前まで授業を休む事無いだろ」と芝田。
「だって芝田君が心配だから」と中条。
「そんな大層な話じゃないんだけどな」と言ったが、中条は「でも知りたい」と言って、芝田の前に詰め寄った。
「ほんと、くだらない話だぞ」と芝田。
「胸がもやもやするのって、人が聞けばくだらなく思う事って多いよね。でも芝田君がそんなふうになるなら、私、聞きたい」と中条。
「解ったよ」と諦め顔で芝田は話し始めた。
その日、芝田が帰宅すると、奥の兄哲真の部屋から女性の怒鳴り声が聞こえた。出てきたのは兄の恋人の市川だ。
「おい、待てよ」と追いかける哲真の手をふりほどくと、市川は芝田に向かって「拓真君は女を押し倒すような男になっちゃ駄目だよ」と言って、玄関を出て行った。
哲真は繕い笑いしながら、芝田に「かっこ悪い所見せちまったな。女ってのは時々ああなるものさ」と言った。
芝田は「知ってる。兄貴は悪くないよ」と言って部屋に入り、脱力感を感じてベットに転がり込んだ。急速に膨らむ胸のもやもやに耐えきれなくなると、芝田は荷物をまとめて家を出た。
居間の前を通る時、哲真は「村上君の所に行くのか?」と聞き、さらに「俺に幻滅したか?」と言うと、芝田は「そういう訳じゃないんだけどさ、しばらく帰らないと思う」
芝田が語り終わると中条は言った。
「お兄さんのこと嫌いになった?」
「そうじゃないけどさ。何か顔合わせ辛いっていうか。それと早苗さん、俺、ちょっとだけ憧れていたんだよね。ほら、年上の女の人って、包容力っていうかオープンっていうかさ」と芝田。
中条はそれを聞きながら、芝田の言っている事を察したような気分になり、それが彼女の心の隅にある期待と結び付いたような感覚が、中条の決意を促した。
「エッチができる人って事?」
その中条の言葉を聞いて芝田は声を荒げた。
「そういう話じゃない!」
中条の体がピクリと震えて表情が曇るのを見て、芝田は慌てて言った。
「いや、ごめん。まあそういう事になるのかも知れないけど、やりたいとかじゃなくて、つまり性嫌悪みたいなのを卒業して男とちゃんと向き合えるって事。大人の女にそういうイメージがあってさ。そんなの童貞の勝手な妄想だってのは解ってる。けどさ、やっばり現実見せつけられるとね、結局大人になってもああじゃん・・・なんて思っちゃってさ」
そう言いながら中条の頭を撫でる芝田に、中条は「私、芝田君に性嫌悪なんて無いよ」と言って、芝田の胸に手を当てた。
芝田は「里子のそういう所ってすごく可愛いけどさ、里子は妹なんだし、そんな頑張り方しなくていい」と言って中条の手をどけて起き上がった。
だが中条は「お兄さんの事、解りたいよね?」と言って、芝田の背中に、そっと寄り添った。
そして「芝田君も・・・同じ事・・・してみれば・・・お兄さん達のことも・・・きっと解るよ」と・・・。
「同じ事って?」・・・と芝田が言って振り向くと、そこには柔らかな頬の感触があった。
はにかんだように俯く中条の笑顔を見て、思わず芝田はキスし、そのまま布団に倒れ込んだ。
「して・・・」と言いながら中条は自分でブラウスのボタンを外し始めた。
(俺は何をやってるんだ。こいつは俺の妹と同じじゃないか。守ってやってる女の子に、ここまでさせてる俺って何だ)・・・。
そう自分に問い質して、芝田は中条の手を止めた。
「ありがとうな。でも止めとく。避妊具とか持ってないしさ」
その芝田の言葉に中条は頷くと、起き上がって服装を直し、部屋を出て行った。
(里子にこんな心配させちゃ駄目だ。帰って俺の兄貴とちゃんと向き合うんだ・・・)と、芝田は自分の頭を小突いて活を入れると、「家に戻ろう」と呟いて立ち上がり、荷物をまとめ、メッセージを残して部屋を出ようとドアを開けた。
そこには中条が立っていた。
中条はバツが悪そうな笑顔を見せながら、薬屋の小さな袋から避妊具の小箱を出して見せた。そして小さな声で「買って・・・きちゃった」
芝田は胸の中で何かがはじけるのを感じると、中条を抱きしめてドアを閉めた。
芝田が布団の中で冷静さを取り戻した時、全裸の中条は彼の腕の中で幸せそうな寝息をたてていた。
今に至る経過を思い返す。妹として扱っていた女の子に手を出した・・・という罪悪感が胸に疼いた。くだらない事で親友の部屋に逃げ込み、心配をかけた挙句にこんな事までさせた。
そんな後悔とともに、そんな自分を求めてくれた女の子を愛しいと思った。
布団から起き上がり、中条に布団をかけると、服を着て芝田は部屋を出た。
村上はアパートに帰るとすぐ、芝田の気配が消えている事に気付いた。
だが居間に入り、布団で寝ている全裸らしき中条と、雑に畳まれた彼女の衣服を見て、村上は唖然とし、手に持っていた鞄を落したが、すぐに事情を察した。
テーブルの上には芝田の書置き。「心配かけてごめんな」
(誰に言ってんだよ)と村上は苦笑したが、さて、この状況をどうするか・・・。
このまま中条を起こせば、こんな姿を見られた彼女のショックは大きいだろう。
出来れば自分は、彼女が目覚めて何食わぬ顔で帰ったのを見計らってここに戻り、何事も無かったかのように有耶無耶にして日常に戻る・・・というのが理想だ。だが中条はいつ目を覚ますのか。
村上は、枕元の目覚まし時計を15分後にセットして外に出た。目を覚まして20分もあれば十分だろう。それまでどこかで時間を潰して・・・。
だが45分後に村上が部屋に戻ると、布団の上で正座した中条が待っていた。
恥ずかしそうな顔で俯いて「ごめんなさい」と言う中条に、村上は(帰らなかったのかよ)と思ったが、そんな村上の困った様子を見て中条は、部屋の入口に村上が置き忘れた鞄を指さした。
(あ・・・)。
自分に見られた事を悟って覚悟を決めたのだろう。村上も腹を括って口を開いた。
「芝田と?」と村上。
「うん」と中条。
「もしかして・・・」と村上が言いかけた途端に中条は「芝田君は悪くないの。私が誘ったの。だから・・・」と必死に声を上げた。
そう訴える中条を見て村上は、心から可愛いと思い、思わず手を伸ばして頭を撫でた。
そんな村上を見て(許された)と感じた中条は、張り詰めた気持ちが緩み、涙ぐむ目で村上の胸に顔を埋めて言った。
「同情とか、元気づけるとかじゃなくて、芝田君が欲しかったの。弱ってる芝田君見て、落せるって思ったの。私・・・」と中条。
「中条さんは芝田のことが大好きなんだね?」と村上。
「うん」と中条は頷く。
「じゃ、芝田と付き合う?」と村上。
「それって・・・」と中条。
村上は「つまり一対一で」
中条は「村上君抜きで?」
「そういう事になるかな」そう答えつつ村上は、そうなったら寂しいな、と思ったが、中条は「私、三人がいい。芝田君がいて、村上君がいて・・・」
「そうか。でも時々はまた、芝田と、こういう事、したい?」と村上。
「うん」
そう恥ずかしそうに答えると、中条は潤んだ目で村上を見て「でも私、村上君も大好き。だから村上君とも・・・」
そう言いかけた中条に、村上は「中条さんは頑張り過ぎだよ。今日はもう十分頑張ったでしょ?」
その後中条は、その日の経過や、芝田の家出の原因について話した。そして一緒に夕食を食べて、中条を家まで送った。
別れ際に村上は、一対一で付き合うかどうかは芝田の気持ちの事もあるから・・・と中条に念を押した。
そして芝田の携帯に電話をかける。
芝田が電話に出ると、村上は「お兄さんと話は出来たか?」
「大丈夫。心配かけたな」と芝田は答え、家出の経緯を説明しようとしたが、村上は「その話は中条さんから聞いたよ」と遮った。
自分と中条のことが知られた事を察知した芝田は「すまん村上、里子に手を出した」と言った。
「それは悪い事か?」と村上。
「悪い事・・・なのかな」と言葉を濁す芝田に、村上は「悪い事であってたまるか!」と感情を込めた声で力強く断言した。
「中条さんは自分で誘ったんだって言ってた。お前の事は大好きだって。それがお前を庇うつもりで言ってるのかどうかは知らんが、そうだとしても、その気持ちは大事にしたいと思う。お前はどうよ」と村上は続けた。
「それは・・・そうだな」と芝田。
「それでお前は、中条さんと一対一で付き合いたいか?」と村上。
「里子はどう言ってる?」と芝田。
「それより先ず、お前自身はどうなんだ?」と村上。
芝田は少し考えて、言った。
「正直、今日は後先考えずやっちまったが、まだ里子は妹って気持ちがある。一対一ってのはちょっとな・・・」
「そうか。中条さんも、そっちを望んでたよ。けどお前、無かった事にしたいとか思ってないよな?」と村上。
「間違いだなんて言わないさ。断じて・・・けど、さ」と芝田。
「けど、何だよ」と村上。
芝田は「いや、何でもない」
翌朝、いつもどうりに村上はアパートを出た。
通りを歩いていると、いつもどうりに後ろから自転車に乗った芝田が声をかけた。
芝田が自転車を降りて村上の横を歩き、何かを言いかけると、村上はそれを制するように「謝るとか無しだぞ」と言った。
芝田は不服そうに「解ってるよ。けど里子と、どんな顔で会えばいいのやら・・・」
「中条さんもそう思ってるかもね」と村上。
「だから猶更・・・」と芝田。
「だから猶更、芝田がいつも通りの顔を見せればいいのさ。それで中条さんも安心して、いつも通りになれる・・・」と村上。
「ったく、他人事だと思って・・・」と芝田。
「他人事ですから」と言って村上は笑って見せた。
芝田は苦笑いしながら心の中で呟く。(他人事じゃないだろーが!)。
やがて中条の家に近付き、家の前で二人を待っている中条の姿が見えた。
手を上げるぎこちない仕草。表情に少し怯えが見える。村上はそうした彼女の不安を吹き飛ばそうと、意識して笑顔を作り、手を振って「おはよう中条さん」と呼びかけた。芝田が照れ臭そうに頭をかく。
その様子を見た中条の表情はぱっと明るくなり、嬉しそうに駆け寄って両手で二人の袖を掴んだ。
「心配かけたな」と言って中条の頭をなでる芝田。笑顔で彼女の肩に手を置く村上。そしていつも通りの学校での風景。
そこでは昨日の事に触れる事は無かった。
そして放課後。いつも通りに三人で下校しようとする村上と中条に、芝田は言った。
「今日は用事があるから、二人で先に帰っててくれよ」
「先にって事は、秘密基地には来るのか?」と村上。
「時間があったらな」と芝田。
村上と中条は、二人で村上のアパートに行き、ゲームやアニメで時間を潰したが、芝田は来なかった。そして次の日も、そのまた次の日も。
このまま芝田は離れていくのではないか。自分が芝田を求めて強引に関係を持ったせいで・・・。村上のアパートで一緒にアニメを見ながらも、そんな不安が中条の心に募った。
それを振り払うように、彼女は隣に座っている村上の上着を両手で握り、すり寄って頭を押し付ける。村上は彼女の頭を撫でると、自分の膝に乗せて後ろから抱きしめた。
(村上君、このまま私を求めてくれないかな)と中条は思ったが、村上のそれは自分を不安から庇ってくれているだけなのだ、期待してはいけないと、諫める自分自身の心の声が中条には痛かった。