第300話 頂点に立つ愚者
ダイケーの対ヒノデヘイトを擁護する支倉名誉教授と村上との対談。
感情論を押し通そうとする支倉を批判し、追い詰める村上の追及は続いた。
「そもそもヒノデ人は何故反発するのだ。ダイケーが憎悪するのは、今ではなく過去のヒノデだ。今のヒノデ人とは手を取り合って過去の軍国主義と対峙しようと言っているに過ぎない」と支倉。
「軍国主義は今のダイケーですよ。彼等のヒノデに対する憎悪こそ軍国主義だ。あなたが言う"手を取り合う"というのは、その憎悪への奴隷的服従でしょう。違うというなら、何故過去ではなく今のヒノデの代表に謝罪を要求するのですか? 彼等の憎悪は明かに今のヒノデに対するものだ」と村上。
「彼等は過去の軍国主義の復活を恐れているのだ。それが再びヒノデによる侵略を始める事をね。だから現在ではなく過去に対する、憎悪ではなく恐れだ」と支倉。
「憎悪や偏見は無知による恐れです。そしてその無知は殆ど確信犯的な歴史の捏造で促されたもの。その無知によって"軍国主義が復活した"・・・などという妄想を被せて今のヒノデを憎悪するダイケーを、あなたは代弁しているのです。民主化した今のヒノデに対して、そんな事を言っているのはダイケーくらいですよ。それを信じる偏見を植え付けたのが、あの偏執的な洗脳教育でしょう。それに"ヒノデ側の反発"は、過去の復活でも何でもない。彼等は今ダイケーがやっている捏造に基く謝罪要求のようなヘイトを止めろと言っているだけだ。戦争は人の心の中で起こるとユネスコ憲章前文は語った。その心の中の戦争が即ち憎悪だ。ダイケーのヒノデに対する差別的偏見はまさにそれで、ヒノデがそれに抗うのは人として当然であり、平和への意思だ」と村上。
「諸外国がヒノデを警戒しないのは非武装中立を建前とする憲法があるからだ。だがその憲法を今のヒノデの政権は変えようとしている。再武装し軍国主義が復活するのだ。ダイケーが警戒するのは当然だ」と支倉。
「あれは、自衛力を公認して憲法違反などと言われないようにするという話で、平和主義を放棄している訳ではないし、それが軍国主義と言うなら、そうでない国なんて存在しないです。ヒノデが信頼されているのは、武装がどうとかではなく、民主主義が定着しているからです」と村上。
「独裁化が進んでいるではないか。現ヒノデ首相は反対派のマスコミを弾圧している。何十年も政権交代の無い一党独裁国家だ」と支倉。
「あなたや彼等が言う"反対派の弾圧"って、マスコミの批判的記事に反論してるって事ですよね? それ弾圧じゃないですから。違うと思えば反論するのが民主主義でしょう。弾圧されてるどころか、多くのマスコミはあの政権に対してずっと攻撃的で、大臣の顔の絆創膏にまで説明責任をとか言ってましたね? 野党が政権を取れないのは、自国の立場を否定するようなダイケーへの迎合姿勢に国民が愛想を尽かしたからで、そんなのが政権を取れない事こそ民主主義でしょう。弾圧とは、正体不明のヘイトスピーチ認定による法的禁止とか、労務者問題でダイケーを論理的に批判したアメリカの学術論文に対する論理無き排斥のようなものを言うんです」と村上。
「公営放送の労務者問題関係の番組に口出しして内容を捻じ曲げたではないか」と支倉。
「ダイケー派のスタッフが感情を煽動するだけの構成で作った番組に、公平中立さが求められる公営放送の在り方を求めた・・・って話でする。捻じ曲げたというのは、反対側の意見を語る部分を挿入して公平を期したという事で、あそこに挿入された意見は極めて論理的でした。それを言論弾圧などという台詞で語るあなたの基準がおかしい」と村上。
「"国境無き報道団"という国際ジャーナリスト団体による報道自由度ランキングでは世界でも下位に位置付けられている」と支倉。
「そのランキング自体がリベルタン派の偏見の塊と指摘されています。ヒノデに対する差別を箔付けする道具でしか無い。これを引用した記事がありますが、それに対するネットにおける批判は極めて論理的です」と村上は言って、ネットでの発言データを示した。
発言データに曰く。「書かれているのは報道の自由度ではなくて取材の自由度・・・というより、単なる取材サービスの不足に過ぎない」
曰く「このランキングの算出基準は団体が任意で選んだ少数の記者のアンケートを機械的に集計した非常に乱暴な代物で、"自由の家"という別の民間団体では満点に近い自由度が認められている」
曰く「マスコミは報道しない自由を謳歌し国民の知る権利を侵害している。歴史を捏造した記者や煽動映画用の資料持ち去りで処罰もされない。低いのは報道の義務度だ」
支倉は「反対の意見だってあるだろう」
村上は「ありますよ。例えばこんなのとか」と言って、別の発言データを示した。
発言データに曰く。「世界の端のヒノデの民は自国を自由な国と愚かにも信じて外からの忠告に耳を貸さず、憐れな反論言い訳のコメントを並べている」
そして村上は言った。
「こういう非論理的で権威に噛り付いた差別感情的なアジテーションしかありませんけどね。あなたの言説と同様に」
支倉は「軍拡が進んでいる。平和主義に逆行している。"軍靴の足音が聞こえる"とダイケーが警戒するのは当然だ」
「北方の大陸国の脅威が迫っていますからね。それに対して世界中の国も警戒し、ヒノデにも対応を求めています。それに向き合うのが何に逆行すると?」
「あんなのはただの口実だ。大陸国は戦争などしない」
「北の大陸国のピータン大統領に関しても、リベルタンはそう言っていた。だが彼は侵略を実行した。南の大陸国に居る、同様に好戦的な独裁者が同じ事をしないと言うのは、ただの現実無視だ。一度騙された人たちはもう騙されませんよ。それに備えるのが何の口実ですか? そういうのを下衆の勘繰りと言います」
「だったらダイケーも同じだ。ヒノデの脅威を受けている。ヒノデは批判に耳を貸さず軍拡を続けてきた。彼等は軍拡したいだけだ」
「それは嘘です。あの両大陸国のような独裁的で好戦的な国と、そうでない国と対比すれば、明らかにヒノデは後者です。むしろ隣国に対する戦争宣伝的な憎悪教育を続けたダイケーこそ前者に近い。軍拡と言いますが、大陸国も軍拡を続け、それに対する備えを求める海外からの声もずっとありました。それが深刻化して今の状況に至り、対応せざるを得なくなった。そういうヒノデ自身の意思と無関係な環境への対応努力を"軍拡願望"などという、相手の内面に対するただの妄想にすり替える。あなたが味方と認識するダイケーがヘイト脳でそう言ったから。あなたのは、ただセクト意識だ。"軍靴の足音が聞こえる"などというのは、それこそダイケーの対ヒノデヘイト洗脳教育の産物です。"オンリーインダイケー"という欧米で生まれた言葉を御存じですか? 彼等ダイケーの言動が人としての常識に反すると世界中の人が感じているのは、今やヒノデに対してだけの問題じゃないです」と村上。
「違う。保守派による軍拡に反対しているのは平和主義者だ。日本のリベルタンも同じだ。戦争は悲惨であり、命を奪う。大陸国は日本やヒノデに攻め込んだりしないし、仮に攻め込まれても降伏すれば生き延びる事は出来る。過去の大戦の悲惨さを記憶する者はそう考えて当然だ。君達は戦争を知らない子供たちだ。命さえ守られればいいんだ。命が全てだ。戦争を知る大人たちの記憶と恐怖を学ぶべきだ」と支倉。
村上は言った。
「殺されさえしなければ、自由も権利も尊厳も要らないだろうという訳ですか? それで、攻め込まれて殺される恐怖を前に、屈服せよと? それは、"日本やヒノデに攻め込んで我々を脅す人達"の理屈ですよ。つまり脅迫だ。悲惨さに怯えて権利を放棄するのは当然ですか? あの大陸独裁国、例えば中国には、かつて"凌遅刑"という、極めて残酷な刑がありました。何故そんなものを作ったか。それは悲惨さをもって人を脅し、屈服させて奴隷にするためです。その意図が人間性を破壊する。そしてあなたが主張しているのが、まさにそれだ。つまりあなたは平和主義者ではなく、戦争の側に居るのですよ。悲惨だから回避し屈服せよ・・・というより、屈服させるために悲惨を作り宣伝するんです。戦争とは暴力で他者を害し、脅して"対等自由"の権利を奪い支配して外交目的を達成する事だ。だから戦争には経済戦争や宣伝戦争といった多様な形態がある。その対極にある平和とは、暴力や強制ではなく論理に基づく正当性によって問題を解決する状態なんです。だから暴力への屈服と支配関係を容認するあなたと、あなたが支持する人達は、断じて平和主義者ではない。そして、戦争において武器で殺すのは脅迫や支配の手段の一つに過ぎない。命が・・・などという耳触りのいいスローガンは、つまりはそうした本質を見失わせる、ただのまやかしです。そうした暴力に対して物理的に抗うのは、奪う事の出来ない基本的人権です」
「ヒノデは前科者国家だ。それが"自分たちも侵略される可能性がある"など被害者ヅラしていい訳が無い。自らの分を弁えるべきだ」と支倉。
「前科者というのは差別用語です。人権教育で優先すべき十三項目の中にも"前科者差別"というのが明記されています。あなたはたった今、差別者として糾弾されるべき立場に身を置いた事を自覚していますか? ヒノデは過去の問題に向き合い、それを清算しました。それに被害者加害者というのは人を分ける身分制度ではない。個別の問題ごとに被害加害はあるんです。何よりあなたはさっき、憎悪の対象は今ではなく過去のヒノデだと言いました。それに矛盾していますよね? "ああ言えば上祐"という言葉を御存じですか?」と村上。
「過去の世代に対する批判が今の世代に及ぶのは当然ではないのか。過去があるから現在がある。彼等がその穢れた血を引いているのは紛れも無い事実だ」と村上。
「それこそ悪しき特権的身分差別主義者の論理ですよ。身分制度の廃止という歴史の進歩に抵抗する貴族たちが何と言ったかご存じでしょう。"自分たちの祖先はこの国を建てた功績者であり、自分たちがその高貴な血を引いているのは紛れも無い事実だからおとなしく支配されろ"とね。それを否定する事で人類は進歩しました。それが、あなたとダイケーの論もまた否定する。これこそが客観的正義です。そして、ヒノデの祖先を穢れた血などと侮辱するために、ダイケーが卑劣に歴史を捏造したのも事実。これに彼等は反論できない。そしてあなたの言う"穢れた過去のヒノデ人が行った罪"とやらの具体的中身の多くが捏造だ」と村上。
「ダイケー国は小国であり国際社会では弱者だ。彼らの想いは国際社会の中で保護されるべきだ」と支倉。
「事実を指摘するヒノデの権利を奪って・・・ですか? そうやってヒノデを下に組み敷きたいという、ヒノデに対する加害を目的としたダイケーの願望に対して、公の立場でその実現を保障せよというのが、あなた方の人権観なのですよね。だから間違っていると言っているのですよ。願望にはいろいろある。"自分が豊かになりたい"という願望は最終的に万人に実現する事は目指すべきでしょう。何故ならこれはプラスサムで、本物のウィンウィンが本質的には成り立つものだからです。だからこそ文明の発展によって可能だと。"他者を支配し下に置きたい"というダイケーのゼロサムな願望はそうではない」と村上。
「その"万人が豊かになれる社会"は実現できなかった」と支倉。
「まだ実現していない・・・ですよね? それを邪魔していたのは対等を拒否して誰かを誰かの下に組み敷こうという、あなた達が支持するような人達の願望があるから。そう言いましたよね? 現実に、アジアではいくつもの国が、先進国からの生産拠点の移転を受けて豊かになった。ヒノデに脅威を与えている大陸国もそうでした。それでつけた経済力が今、周囲に脅威を与えている。アフリカだって発展を妨げているのは部族対立による内紛です。結局は、みんなが豊かになるのではなく、他人を下に置いて自分がその上に立ちたいという、誰かを害し犠牲にする事を是としたゼロサムな願望が問題なのは明らかでしょう。そういう中でも最も邪悪なダイケーの対ヒノデヘイト願望を、弱者だから保証しろ、というのがあなた達の人権観ですよ。万人が幸せになれる世界の実現は、あなたの立場が妨げているんです」と村上。
「・・・」
「誰かの上に立とうと努力をする自由は確かにあります。スポーツとか出世欲とかね。けれどもそれは人権としての対等性を否定しないものでなくてはならない。会社の上司と部下は人間として対等です。仕事で部下に命令するのは、それが上司の役割だからに過ぎない。日本とアメリカとヒノデとダイケーは独立国として対等である・・・というのは国際法の大前提です。金持ちに対して経済的に平等でなくとも、"だから何だ"と胸を張って矜持を示して肩を並べる権利こそが人権であり、それを弁えたのが大人だ。対等とはそういう事です。大国と小国の違いはあっても外交権を含む主権は等しくその行使を国際法によって保証されるのが近代的普遍的価値観だ。それを弁えないあなたが、名誉教授などという肩書で威張っている。恥ずかしくないのですか?!」と村上。
「物資が豊かになっても金が無ければ買えない。福祉的なものや賃金の上昇があって、貧しい者が生活に困らなくなったとしても、豊かな者はさらに豊かになる。不公平は無くならない」と支倉。
「自分が困らなくても他人がもっと豊かになる事を不公平に感じて苦痛だ・・・というのは、それこそゼロサムなマウント思考ですよ。確かに貧しくてお金が無くて欲しいものが買えないという人は居る。だから所得の平準化というのは必要です。それはみんなが欲しいものを買える事で社会全体の満足度を向上させ、売れるべきものがちゃんと売れて経済が活性化するためです。それでみんながより豊かになるというプラスのスパイラルを促す。ところがあなたみたいな人にとっての平準化とは、豊かな人を引きずり下ろす事で嫉妬を満足させようとするものだ。あなた、こうして議論をしているフリをしても、社会を良くする方法論を見つけるつもり、ありませんよね? だって左翼エンクス主義って、方法論が階級闘争ですから。暴力革命を捨てて国会や広報で平和的に・・・とか言ってるけど、闘争手段を鉄砲から弁論に変えただけだ。だから彼等は相手の論に向き合わない。議論とは全員が協力して利益を向上させるための方法論を論理によって探るものです。闘争を目的とするあなたがやってるのは議論じゃない!」と村上。
「政治的な立場が同じで経済的に自分たちが上というのは不公平ではないのか。強者が弱者と同じように願いを叶えたいなら、強い分ハンディをつけて願いに向かうべきだ」と支倉。
「対等を否定してダイケーがヒノデに主張しているのは、自己主張する権利そのものの否定です。人は願いに向かって努力する権利がある。その努力が自由によって保証されていると主張して、自らの行動の正当性を認識する事で、人は初めて努力できるんです。その主張権を強者だからと否定するのは、努力自体をするなという事ですよ。自らの行動を自らのためではなく、被害者を称する者の恣意的な満足の道具としろと。これは奴隷になれという事です。だから政治的主張権を全ての立場の人に等しく保証する対等権は人権の根幹なんです。客観的正当性を判断するという事はこういう事ですよ。あなたはこれに反論できますか?」と村上。
「過剰な自己主張はエゴイストのやる事だ」と支倉。
「これが過剰だという根拠は何ですか? "願望を達する行動"の根源たる"自らのための意思"を持つ自由は人として当たり前であり、過剰ではありません。対等とは他者の権利を踏まえるのが前提です。ハンディが必要なら合理的な範囲でルールを規定すればいいだけだ。スポーツにだってそのためにウェイト制がある。福祉だって裁判だって弱者を保護するためのルールです。だからって"弱者の願望"が裁判の判決にはならない。それは強者にとっても同じだ。それが公正なのは、誰でも等しく自己主張の権利があるから。たとえ刑事裁判の被告でもね。それにより成立する議論が、結論の正しさを導き、正しさを実現するのです。たとえ原告が不服で、満たされる事無く終わったとしても、それが人権を守るという事です」と村上。
「人権の問題と法律の問題は別問題だ」と支倉。
「法律は人権を守るものであって、法律が人権と別という理屈は有り得ない」と村上。
「けれども、法的責任と道義的責任は別の言葉として存在する」と支倉。
「道義だって特定の誰かの恣意のためにある訳じゃない。社会的な基準というものがあるという事でしょう。それは、それが行われた時代の基準でなければならない・・・というのは不可塑及の原則と同じです。かつてダイケーがヒノデの支配下に入った時、当時の国際社会はこれを歓迎しました。ダイケーが当時の国際法に反する行動を取り、無能な国王と王妃によって財政が破綻。各国に脅威を与える大国にすり寄って基地を提供して周辺諸国を危険に晒した。そうした愚行の結果として他国の支配下に入る事が順当と判断されたという事でしょう。それが当時の国際社会的基準・・・というのはつまり、あなたが言う道義と同じ事です。それに従ったという事でしょう」と村上。
「時代のルールなど関係無い。他国に乗り込んで支配するのは絶対悪だ。先ほどピータン大統領の話が出たが、世界は彼を許さないではないか。ヒノデがダイケーに対してやった事はそれと同じだ。ヒノデはピータンなのだ」と支倉。
「違いますね。彼の暴挙に対して、多くの良識ある人が何と言ったか。"そういう事をやりたければタイムマシンで100年前に戻ってやれ"と。あなたが彼と同じだと言ったヒノデの例は、その100年前です。つまり、ピータンが許されないのは、そういう時代になったからです。帝国主義が当たり前だった時代の論理と平和な現在を混同する。あなたこそピータンと同じだ。そして彼の暴挙の根源は、前大戦における戦勝国の立場で国民に植え付けた強弁的な絶対善主張と被害者意識を今日まで肥大化させた自賛認識のモンスターです。それは勝手に前大戦の戦勝国を騙ってヒノデに対して嵩に着るダイケーと同じ。あなたとダイケーがピータンなのですよ」と村上。
「だがダイケーはその後、極めて残酷な支配を受けた」と支倉。
「その"残酷な支配"とやらの中身が歪曲捏造だと指摘されましたよね? さっき、支配された事だけが問題だとあなたは言った。全く逆の事を言ったのです。こういう矛盾を指摘される事を"論破された"と言うのですよ」と村上。
「それでもダイケーは弱者として戦後処理の交渉に、保護される事無く投げ込まれたんだ。ヒノデの支配が原因の内乱で疲弊したダイケーは援助を必要としていた。屈服するしか無かった」と支倉。
「内乱の原因は戦勝国による占領下で支配地域を得た共産党で、ヒノデは無関係だ。援助なら他の国から受ければいいだけだ。保護って何ですか? 暴力による強制がまだ必要だと? 話し合いが合理的に行われなかったというなら、その話し合いの具体的な内容がどう合理的でないのか論理で示すべきでしょう。国際法に反して全てのヒノデ人は財産を奪われて追放され、甚大な暴力を受け、逃げ延びる中で多くのヒノデ人女性がレイプされた。これを指摘されたダイケーは傲然と居直った。その暴力について書かれた書物を暴力的に弾圧したダイケー人は"過去現在未来に対し盲目"な本性を世界に晒しました。ダイケーはヒノデが占領下にある隙に不法にバンブー島を強奪し、公海上に勝手に不法な境界線を引いて、四千人もの漁民を拿捕によって拉致し、人質外交という卑劣な手段で暴力的な交渉に出ました。とても弱者として同情できる行動とは思えません」と村上。
「・・・」
支倉は短い沈黙の後「君の専攻は何かね?」と村上に問うた。
「化学ですよ。俺、理系ですから」と村上。
「そこまで言うなら、君は哲学か論理学を専攻するべきだったのではないのか? 昨今、ネットで好き勝手な事を言う素人がジャーナリズムとアカデミズムを軽視し罵声を上げている。実に多いのは嘆かわしい事だ」と支倉。
「その素人の書き込みにあなたは反論できるのですか?」と村上。
「あんなもの、読む価値も無い」と支倉。
「あなた、彼らをのりりんキッズと呼んで、よく勉強していると言いましたよね? ネットの書き込みは玉石混交です。そりゃ、おまえ等なんか嫌いの一行で終わるのも多いですよ。今まで散々言われてた売り言葉への買い言葉ってのもあるし、マスコミがちゃんと言ってくれない事への苛立ちから過激な事を言う奴も居る。誰でも発言できる場ですから。"そういうのは華麗にスルー"は合言葉みたいなものだ。けどその一方で、きちんと根拠を上げて新聞の社説を批判している書き込みも多いです。書きっぱなしでスカスカな社説より遥かに説得力がありますよ。勝海舟のこういう言葉は御存じですか? "アメリカに行って驚いたのは、上に行くほど賢くなる。日本とは逆だ"と」と村上。
「つまり日本の頂点に立つ政府与党は最も愚かだと言う事だね」と支倉。
「違いますね。上に立つ権威はそれぞれの分野があります。学問の分野で頂点に立つ最も愚かな者とは、つまりあなたの事ですよ。ネットに書き込むのは確かに素人です。けれども、ちゃんと自分の頭で考えている人も多い。何より誰でも自由に発言し、反論を受ける場です。言いっぱなしでその場での反論を受け付けない新聞社説とは大違いですよ。あなただって彼らにいつでも反論できる筈です。どうせ論破されるでしょうけど」と村上。
「大学教授が頂点だと言うなら、君の恩師も頂点だから愚かだという事になるが?」と支倉。
「俺の先輩の指導教授がいつも言ってる言葉があります。"自分の信者にだけはなるなよ"だそうです。あなたは自分の学生に対して、信者になる事を要求していますよね? 違いますか?」と村上。
支倉は「もういい。君の言いたい事は解った。だが私はあくまで弱者の味方だ」
「その弱者って団体作って政治的に保護されてる特定弱者ですよね? それで、彼らが日本国籍を持った男性というだけで強者認定した個人を抑圧すると、その抑圧者の味方という訳だ。正当性とは誰かにあるものではなく、行動の中身にあるのですよ。誰の味方・・・などと言ってる時点で、あなたは終わってますよ」と村上。
「ああした運動は正当な権利を回復するための闘争だ」と支倉。
「闘争とは利益を求めて他者を抑圧し打倒するものです。そんなもので正当性は語れません。正当性とは、双方に通用すべきものであり、議論における論理の中からしか生まれないのですよ」と村上。
「強者が弱者を抑圧するから、彼らを打倒して我々が社会を握り、正当性ある社会を作るのだ」と支倉。
「そのあなたが恣意的に考えた正当性が本当の正当性であると、論理を顧みないあなたがどう証明しますか? もしかしたらあなた自身はそのつもりかも知れない。けど、不可能ですね。何故ならこうした闘争で先頭に立つのは常に最強硬派であり、彼らは復讐心をもって相手の権利を徹底的に奪う加害者たろうとするからです。仮にそこまで至らずとも、奪う事を正当とする偏見認識は残る。そんな存在から奪われないよう抵抗する事は既に自己防衛として人権の根源の一つですよ」と村上。
「これは差別との闘いだ。弱者は差別される存在であり、そんな差別から彼らを守るために闘うんだよ。正当性がどうだとか、そんな事は関係無い」と支倉。
「あなたの言う差別とは何ですか? 差別がどこから来るのか、と問われた時、必ず出る答えがありますね。それは、差別は無知から来る。無知とは事実を知らない。嘘を信じている。その嘘で他者を否定する。つまり偏見です。だから正当性が無い。それが差別ですよ。その嘘をダイケーは国家が意図的に広め、それでヒノデを攻撃する。差別しているのはダイケーじゃないですか。そして事実とか正当性とか関係無いという、あなた自身が差別者だ。そういう嘘を言い張るのは、自分たちのダイケー叩きの不当性を、あたかも正当であるかのように偽装するためでしょう。正当性は関係無いとか、どの口が言うか!」と村上。
「それでも彼らには報復の権利があるんだ。報復的正義というものがね」と支倉。
「そんな正義は無い! かつての社会ではトラブルは闘争による報復で処理した。それが人権思想の定着とともに社会が発展し、司法による処理に代わったのですよ。自力救済から公的救済の社会にね。そして司法のよる公的救済が回復するのが正当性・・・つまり正義です。では前近代における報復は何を回復するのか、と言えば、当事者としてのプライドです。そしてプライドは常に肥大化する。互いに自らを相手の上に置こうとするからです。だから復讐の連鎖が起こる。けれども近代的人権の対等原則はそもそも、自らを相手の上に置こうとする欲望を権利としては認めない。被害者の満足とやらが実現しないのは当たり前です。それと同じ事が理性をもって成されたのが、ヒノデ国とダイケー国の戦後処理でしょう。それをあなた方は否定する。報復的正義などという有り得ない概念を捏造して。報復は断じて正義ではない!」と村上。
支倉は「それでも・・・」
それに対して村上は「その、"それでも"という言葉を、あなたは何度口にしましたか? それは相手の論理に反論できないままで自分の主張を押し通そうとする言葉だ。それに対して俺はその都度反論した。あなたはその論理に向き合う事無く、ずっと同じ主張を繰り返す。ただ一方の感情を主張するだけ。それが正当性を持たない事を論理によって指摘され、それに向き合う自分の論理を示せないという事は、あなたの感情論が客観的事実によって否定されたと、つまりあなたが語る正義が、人権が、偽物だと証明されたという事だ。正義とは人権を守るためにある。その偽物をふりかざすあなたは、ただの人権侵害者だ!」
支倉は顔を真っ赤にして「私は論破などされていない。その都度反論したではないか」と叫んだ。
「その反論と称するものが相手の論理に向き合ってないと指摘しましたよね。それに向き合わないあなたの発言が、既に論破された者の居直りですよ」と村上は指摘する。
「そうではない。私には私の論理があるんだ」と支倉。
「その、あなたが論理と称するものに私は向き合い、論理によって否定しました」と村上。
「違う。例えば君は、他者の権利を奪う正義は無いと言った。それに対して私は、弱者を守る必要性を説いた。それを君が認めないだけだ。例えば船が沈没したとする。救命ボートに全員は乗れない。そういう時にか弱い子供を優先して大人は飛び降りろというのは正義ではないのかね」と支倉。
「それは子供への好意と愛の問題であって、正義の問題ではありませんね」と村上。
「だが、そうするのが道徳的だというのは常識だ」と支倉。
村上は言った。
「では、"酒浸りで体を壊した乱暴者が病人だから弱者で、だからその感情を優先すべきだ"は道徳的ですか? あるウーマニストは、"戦争地域の難民は弱者たる女性だけ受け入れて、男性は害悪だから見殺しにしろ"と言った。この考え方は道徳的ですか? あなたが"反論した"と称する先ほどの議論では、"ささやかな願いだから"というあなたの論に対して、"復讐心を満たすのはささやかではない"と指摘しましたね? あなたはそれに答えなかった。"経済的に万人が満たされる世界"という未来への目標を示した時も、あなたは"過去においては実現しなかった"という話に逃げただけです。そもそもあなた方の主張は何でしたか? "主観で不快と思ったらそれは人権侵害"でしたよね? つまり、その不快の中味が何かを問わない。"ささやか"だろうが"過大"だろうが関係無いという事ですよね? だから、"憎悪教育で肥大化した復讐心を満たす事を保障せよ"などというエゴイストの過剰な自己主張を"人権"などと詐称しているのでしょう。"要求の中味を問うべからず"と言いながら、それを正当化するために、"沈没船から子供の命を救う"という、同情を引くための話を例えとして持ち出しても、"要求の過大な中身を問うべからず"という主張の正当化にはなりません。あなたの弁はただの詐欺であり、それをあなたは既に認めている。"過剰な自己主張はエゴイストのやる事だ"と。これ、あなたの言葉ですよね?」
その後しばらく討論は続いた後、支倉は自分の研究室に戻った。
助手が言った。
「どうでしたか?」
「私も老いたと実感させられたよ」と支倉名誉教授。
教授は助手に言った。
「なぁ、もし君が誰かに、お前は支倉信者だろ?・・・と言われたら、どうする?」
「私はずっと教授について行きますよ」と助手は言った。
村上が住田に電話をかけた。
「支倉名誉教授、さっき帰りましたよ」と村上。
「どうだった?」と住田。
「言いたい事はあらかた言ったつもりです。そっちはどうですか?」と村上。
「うちの会社が大陸国での事業を縮小してヒノデ国に重点を移すようにって進言した件で、抵抗していた幹部はかなり孤立したよ。その幹部があの教授の弟子で、ヒノデ学生の運動を色物扱いしようとあちこち働きかけてたんだがな。あの教授は無能だけど、いろんな方面に顔の効く人だから、彼がおとなしくなってくれたらすごく助かる」と住田。
村上は「録音データは後で送ります」と言った。




