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おどり場の中条さん  作者: 只野透四郎
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第298話 教授と学者と活動家

村上の卒論のプレゼンテーションの後、湯山教授が彼に言った。

「君と話がしたいという人が居るんだ。君は卒業直前だし、君の専門以外の話だし、ある意味あまり評判のいい人物ではない。私から断ってもいいが」

「もしかして経済学部の支倉名誉教授ですか?」と村上。

「知っていたのかね?」と湯山。

「ダイケー国の事で俺に物言いに来るんですよね?」と村上。

「で、どうする?」と湯山。

村上は「いいですよ。時間と場所を言って貰えれば・・・って言いたい所ですが、大勢で待ち構えて実質監禁とか、やりかねない人達ですから、向こうから一人で来てくれるんなら」



文芸部でその話をする。

「リベルタニストの大物だよな? エンクス経済学の化石で日本学問会議会員で、経済学部を裏で牛耳っているっていう」と桜木。

「すごい学者なの?」と中条。

「すごいとか以前に、あれは教授だけど学者じゃないから」と村上。

「同じじゃないんですか?」と金田。

「教授ってのは単なる肩書だから、大学から任命されれば馬鹿でも猿でもなれちゃう」と桜木。

「テレビに出る犬が一日警察署長になるみたいなもんか」と芝田。


村上は言った。

「けど学者ってのは学問をやる人だからね。学問ってのは論理があってナンボだよ。政治的利権運動で言い張るのは学問じゃないし、学問じゃない事をやって教授名乗っても学者じゃない。どんなに偉そうな肩書持ってても、学会で権力があったって、やってる事はただの利権活動家さ」

「私も同席したいです」とモニカが言った。

「モニカさんは止めておいた方がいい。感情を煽って揚げ足をとるような事を狙い兼ねない奴等だから。ま、任せておきなよ。俺はサムライなんでしょ?」と村上。



当日になり、支倉教授と面会。

理学部の一室で彼と向き合う村上。支倉は言った。

「君の書いた本を読ませて貰った。よく勉強していると思うよ。けど、知識はあっても現実を知らない人を、のりりんキッズって言ってね」

「のりりんというのは大林のりよし氏の事ですよね? 漫画家の」と村上。


村上は、その昔「よかですか宣言」という政治評論漫画を描いて世間を賑わせた、その漫画家の事を思い出した。

その漫画では様々な立場が批判されていた。その中にはリベルタン派を批判したものも、保守派を批判したものもあった。

だがリベルタン派はそれに激しく反発し、反リベルタンのシンボルのように扱う人達は多く居た。


村上は「つまり、ダイケーみたいな国を批判する反リベルタニストは、みんな彼のパクリという訳ですか?」

「違うのかね?」と支倉。

「リベルタニストを批判する人は彼しか居ないとでも? で、同じ結論に辿り着く人は全部受け売りですか? リベルタン主義の主張を批判する人達は、いろいろな人の意見を聞いて、整合性を自分の頭で考え、いろいろなデータを照らし合わせて論理で検証していますよ。それがその元になる情報を示した人の受け売りと言うつもりですか? あなたがやっている事はただのレッテル貼りですよ」と村上。

「いや、私たちは君たちやヒノデ人の敵ではない。よく誤解されているのだ」と支倉。

「和平学という偽学問の人が、よくそう言い逃れるんですよね?」と村上は言った。



支倉は激高して「偽学問とは何だ! 侮辱する気かね」

村上は冷徹に指摘して言った。

「だってあの人達。反対意見の人と正面から議論しないでしょ? 反論しないのが流儀だって自分で言ってますよ。"敵対しない"というのはそういう意味ですよね? 学問とは論理で真実を追及するものであり、"議論によって論理を問う"事から逃げるものは学問じゃない。だから偽学問だと言うのですよ。それで相手の居ない活字の場で、言い張りを繰り返すんです。以前、人権問題の名を題した講演会で、大学から呼んだ講師に批判的な質問をした人が居たそうです。そしたら講演組織は、その人の職場に圧力をかけたというんです。彼等は言ったそうです。この講演会は"激論の場"じゃないと。学問的問題での質問の時間が・・・ですよ。何故彼等は"議論"ではなく"激論"と言ったのか。それは学者を名乗る講師が議論をしないとは言えないからでしょう。だから"激しい"という形容詞をつけた言葉のイメージで、論理から遁走する反学問な姿勢を正当化したのです」

「私たちは議論するなら、何時間でも付き合う。そして人として解り合うんだ。私には立場は違っても、そういう友人は何人も居る」と支倉。


「解り合うべきなのは人ではなく論理でしょう。あなたの言う"解り合う"って、自分たちの反論理的な主張をナアナアで大目に見て貰うって事ですよね? 本当に互いの論理に向き合う議論は、何時間もかかったりしません。時間がかかるのは、相手の論理に向き合う事を拒んで、延々と言い張り続けるからです。そんなのは議論じゃない。そしてその似非議論の意図する所は懐柔です。騙し目的の、中味の無い"お友達関係"を演出して、理解とか信頼関係とか言って相手を騙す。イジメ生徒がパシリにされた被害者に"自分たちは友達だ"などと言うのとどこが違いますか? こういう問題で向き合うべきは、個人ではなく論理でしょう。それと無関係な対人関係の雰囲気など、何も解決しないどころか、家に押しかける詐欺セールスと同じです」と村上。

「そんな事は無い。ヒノデ人だって個々のダイケー人に会えば、反ヒノデな敵対者ではない真っ当な人達だと解るんだ。君も、先ずダイケーに行って、彼等に会うべきだ」と支倉。



「会えば"彼等が反ヒノデじゃない"と、どうして解るんですか? 仮に私がヒノデ人だとして、直接会った彼等がその場で"犯罪民族呼ばわりして石を投げる"事をせず、握手の手を差し出したから、実は友好的な人達と思い込めとでも? そんなので騙される奴は馬鹿ですよ。そりゃどんな文化でも礼儀ってものがあるから表面的には握手くらいはする。ヘイト標的の外国人が目の前に居れば、遠慮してヘイトは口にしない。それだけでしょう。しかもダイケーの政府もメディアも散々相手国に憎悪をぶつけているから、改めて直接言う必要も感じない。一方のヒノデではメディアが"ダイケーのヘイトに迎合する奴隷的友好発言"で彼等を甘やかすから、ダイケー人は目の前のヒノデ人もそちら側の人と期待すればいい。けれども目の前に"ヒノデ人の視線"が無い中では、ダイケー人の対ヒノデヘイトな本音が露呈する。互いに同調圧力をかけ合い順応し合って、ヘイトを批判する人は親ヒノデ派と呼ばれて排斥されて、国際法的にも歴史的にもヒノデ領であるバンブー島を自国領だと言う人が世論調査でほぼ100%。こんなのが真っ当だと言えますか?」と村上。

「ダイケーに住んで日常的に共存し、危害を加えられずに生活しているヒノデ人だって居るんだ」と支倉。


「ダイケーによるヘイトを容認してバンブー島とかで反論しない人なら・・・というだけです。そもそも命を取られないから害を受けず共存ですか? "ヒノデ人としての自分にとっての自国"に対する不当な中傷を社会的に受けて反論が許されない時点で、普通の人にとっては危害ですよ。"ヒノデ人の子供を殴って重症を負わせる"ような犯罪者がダイケー人の"ごく一部"だとしても、他の多くは単に過激な事をしないってだけで、あの犯罪者にそれをさせたヘイト自体は認めている。だからテレビのインタビューで"子供が怪我をしたんですか。けどヒノデ人ですよね?"などと発言するんです」と村上。

「そうじゃない。ダイケーに居るヒノデ人は彼等と解り合えたんだ。アメリカに居るヒノデ人だってダイケー移民と親しくなった人たちは多い」と支倉。


「"解り合えたヒノデ人"って、ホングダマ・イーケルというヒノデ叩き運動の先頭に立っている政治家みたいな奴でしょう。懐柔して自分たちのヒノデヘイト思想に取り込んで、"血統がそうだってだけのヒノデ人"を味方につければ重宝この上無いから、歓迎しているだけですよね? ダイケーでは外国の政治家が来ると、熱烈歓迎とか言ってハリウッドスター並みのパレードとかやったりする。それでファンになってダイケーの代理人みたいになる人も多いと聞きます。本人は"共感して民族を超えた友情"とか思っているけど、傍から見れば騙されて悪魔に魂を売ったのと同じ愚か者だ。家族のように優しくもてなされて本当は優しい人達なんだと知った・・・とか講演したダイケー人が言ってましたが、あんなの単なる懐柔術でしょう。もてなしたダイケー人が意図的に計算したとは言わずとも、敵の中に味方を求める心理と言えば簡単に説明はつきますよ。それは優しさなんかじゃない。敵視する相手に対する攻撃意欲の表れであり、戦争の原動力の一部だ。普通にヒノデ人としての権利を守ろうとする普通のヒノデ人に対して、彼等は極めて攻撃的です」と村上。

「・・・」



短い沈黙の後、支倉教授は言った。

「君の言う正義とは何かね?」

「論理によって証明された客観的正当性です」と村上。

「では正当とは?」と支倉。

「事実を事実と認め、全ての人が等しく持つ人権を守る」と村上。

「客観とは?」と支倉。

「個々人の主観に拘わらず存在する事実です」と村上。

「社会学的な意味で客観など存在しない。全ては個々が認識した主観なのだよ」と支倉は言った。


「では人権の存在も客観ではないと仰いますか?」と村上。

「それは何を人権と呼ぶかの問題だろう。不快と思ったらそれは人権侵害であり、人が自らの思いを遂げるのが人権だと我々は考えている」と支倉。

「では、試験が嫌な学生がそれを免除されるのが人権ですか? 殺人者が刑を逃れるのが人権ですか? 違うでしょう」と村上。

「君はそう主張するのだね? だが我々は、全ての人が対等な立場で同じ権利を持つのが人権だという君の考えを否定する」と支倉。

「侵略国の大使が虐殺の証拠を突き付けられて"お前は勝手に信じればいい。俺は信じない"と強弁するのと同じですね。事実はそんなあなたの主観とは無関係です、合理的な論理では、恣意的な願望を公によって実現させて貰うのが人権などという主張は否定されます。それは他人の願望と衝突しうる。それを公が介入して一方を保障する事は他方の権利を侵害する事だ。権利があるとすれば、他人の人権を侵さずそれに向けて努力する権利ではないのですか? 客観的事実の証明とは、そういうものです」と村上。



「だが弱者には、それを実現する力は無い。故に人権とは弱者を保護し、その想いを叶えるために存在するのだ。強者は自力でそれを叶える力を持っているではないか」と支倉。

「国家社会が特別扱いによって実現を代行するとすれば、本人の努力無しに大抵の願いは叶うでしょうね。ですが、あなたの言う強者とは何ですか? その国の国籍を持つ障害の無い男性ですよね? けれどもそうした人達だって、ささやかな願いだって叶えるのは困難な人も多いです。それでも努力して実現を目指す自由を否定されまいと、人類は政治的特権を廃止して万人対等の権利を実現してきた。それが人権ではないのですか?」と村上。

「では、そのささやかな願いすら不可能な弱者はどうするのかね」と支倉。


村上は「弱者と認定されない人の"ささやかな願いを叶えるための自由な努力"を奪わない・・・という場合、彼はそれが実現せずとも誰かを恨んだりしない。それは、弱者と認定された人の願いを公が他者を犠牲にしても叶えるか否かという問題と、どう違うのか。実現できるかというのは、何を実現そせたいか、そのためにどんな力がどれだけ足りないか・・・という点では同じであり、結局は程度の問題なのを"弱者・強者"という記号で真逆な扱いをする矛盾を、先ず指摘しておきます。そしてあなたが要求する願いの中身は単なる程度の問題では済まないから、偽物の人権だと言うのです。美味しいものを食べたい。暖かい衣服で守られたい。快適な住居に住みたい。それを誰もが叶う方向に向けて、文明は発展してきました。そしてその実現はみんなが努力して富の総量を増やす事で可能となるのです。弱者だ強者だという理由で誰かから奪う事は解決じゃない。そして何よりダイケーが満たしたい復讐心は他者を害する人権侵害を目標とするもので、ささやかな願いどころか犯罪だ。人が本来持っている"他者との立場的対等"はまさに万人が持つ自然権であり、ささやかな願いの実現以前の権利だ。それを助けるどころか、ささやかでも何でもない復讐心のために暴力的に害そうというのがあなたの主張だ」

「誰もが豊かに・・・なんて世界は実現しなかったではないか。国家間の対立や内戦、貧富の差。途上国の惨状をどう見るのかね」と支倉。

「つまり国家間・集団間の対立ですよね? そういう対立を煽っているのが、あなた達リベルタニストではないのですか? ダイケーとヒノデの対立はその典型だ」

「抑圧された弱者が悪いと言うのかね」と支倉。


村上は指摘した。

「あなた、過去の抑圧に対する処理の話と、抑圧そのものに対する話をすり替えようとしてますね。国際法を無視して恣に報復する事をさせないのは抑圧じゃないですよ。そもそも、日本やヒノデに居るリベルタンが本当に抑圧された弱者を守ってきたでしょうか? あの大陸国、特に中国の少数民族が弾圧されている事で声を上げているのは誰か。その批判の声に対して"その資格が無い"などと、居直る向こう側の主張に加担したのは誰か。つまりあなた方は、自分たちに都合のいい人たちを弱者と呼んで応援しているだけだ。移民は弱者だからと言いながら、ダイケー国内に居るヒノデ人は抑圧されている。進出したヒノデ系企業が資産を奪われ、現地を訪れた経営者が監禁され、司法からは真っ当な保護を受けなかった。ヒノデ人を害する犯罪を容認する声が大きい。それをダイケー人の主権の問題だと言うのですよね? そうやって、向こうでの少数派としてのヒノデ人の人権を平気で無視する。その一方で、国籍を持たない移民の参政権は本国での問題で移民先には無いのが普通という国際社会の常識を無視して、ダイケー移民に選挙権が無いのは差別で人権侵害などと言い張る。あなた方の言う"弱者だから"・・・などというのは、お里のばれた言い訳でしか無い。弱者への配慮はルールの中で彼等以外を害しない形で行うべきもので、それは対等を前提としなければならない。何故なら、かつて彼等は対等の地位を持っておらず、だから差別撤廃の声を上げた。対等はその運動の目標であり、だから支持されたんだ。それを今になって、人権は対等ではないと言い出す。これは人権の理念に対する裏切りですよ」



支倉は言った。

「かつて支配されていたダイケーが恨みを持つのは当然だ」

「その恨みを支えているのは洗脳教育や歴史捏造宣伝です。その内容はあの本に書かれていた筈ですよ」と村上。

「あれらが無くても彼らは同じ恨みを持った筈だ。その恨みをせめて忘れまいと、国内で語り継ぐのがああいった形になったのだ。恨むに足る理由など支配されたという事実だけで十分だ」と支倉。

「それで恨む根拠が十分だというなら、それだけを語るべきではないのですか? 捏造歴史が不要なら何故それを捨てない? それは恨みを維持するために必要だからではないのですか?」と村上。


「捏造と言うが、それを語る事自体が恨みを晴らす行為なのだよ。恨む相手を弾劾するというのは、そういう事だ。相手が悪である事を主張する。その行為自体に意味があるのであって、だからそれが事実かどうかなど問題ではないのだよ」と支倉。

「つまり子供が悪口を言う時の"お前の母ちゃん出べそ"というのと同じだと? 本当に相手の母親が出臍であるかどうかは問題ではない・・・というのと同じという訳ですよね?」と村上。

「そういう事だ」と支倉。

「だったら何故それを事実だと言い張るのですか? 子供の悪口は相手の母親の出臍など嘘だという前提で言うものですよ」と村上。

「何が事実かは解釈の問題だ」と支倉。

「バンブー島のあれを解釈だからで正当化するようでは歴史学は成り立たちませんよ」と村上。


「あの島がダイケーのものだと思える論理的根拠はある。例えば領有宣言が戦争の時期と重なる。そう思うのは当然だろう」と支倉。

「それはイメージの問題ですよね? 論理でも何でもない」と村上。

「ちがう。イメージとは事実を構成的に捉えたものであり、それが論理だ」と支倉。

村上は言った。

「それは論理じゃない。あなたの言う"事実の構成"とは、自分たちに都合よく選別し改変した情報の事ですよね? 構成とはそれを受け手の印象を操るべく並べてみせるという事だ。イメージとは心に描く感覚であり、目の前にある具体的な事実を理性で判断する論理とは次元の異なる感情の働きです。だから大衆を操る原理となる。マスコミや煽動政治家が行う"イメージ操作"がまさにそれです。それはつまり事実を見つけるのではなく事実を誤魔化し覆い隠す。ベーコンの言うモナドつまり偏見を作り出すものです。つまり、あなたの言うイメージとは偏見であり、論理とは、あなたが言ってる事とは真逆の、偏見の虚構を暴くものです」



「恨みがあるならせめて悪口によって晴らしたいというのは自然な成り行きではないのか。ならばそこに誇張が生じたとしても仕方ない」と支倉。

「それは憎い相手だから殺したい、欲しいから奪いたいというのと同じ理屈ですよ。それも仕方ないから容認ですか? それで自分は悪くないというのは犯罪者の理屈です」と村上。

「原因を作ったのはヒノデだ」と支倉。

「違います。近代というルールでしょう」と村上。

「その暴力性を受け入れて支配者になったのではないか。軍拡のためにダイケーを犠牲にし、利用して資源を奪って」と支倉。


「奪ったというが、ヒノデはダイケーに莫大な投資をしました。軍拡とは他国の脅威に備えるためですね? それが目的というなら、その中身は資源などより、ダイケーが敵対国に国を売って基地を提供するという、ダイケー側がもたらす不利益を解消する必要があったという事ではないのですか? 暴力性と言いますが、ヒノデが受け入れたのは近代的合理主義です。それはモンゴル帝国のような侵略の横行する剥き出しな前近代世界が、主権国家対等や領土不拡大原則の存在する今に至る過程ですよ」と村上。

「・・・」

「あの当時既に存在していた国際法は、小国を大国の暴力から守るというグロティウスの理念が発明したものだった。それに順応して理性的に行動するのが大人ではないのですか? その合理性を拒否して、剥き出しな前近代的価値観に噛り付いたのがダイケーではなかったのですか? ヒノデは開国の際に受けた不利を努力によって克服しました。法律の近代化も進めて国際社会から認められ、順応に成功しました。だがダイケーは近代外交を求めるヒノデを悪しざまに罵り、渡来したヒノデ人に暴行殺害まで行った」と村上は続ける。


「ヒノデ人は支配しておいて、近代化を助けたなどと恩着せがましい事を言う」と支倉。

「それは恩着せではなく、近代化の事業を加害などと言い張るダイケーに反論する所から始まった議論ですよ」と村上。

「鉄道や港湾を作ったと言うが、それは支配のためだろう」と支倉。

「ダイケー人はその鉄道を使って利便を得ましたよね。ああいあ経済インフラは、それに関わる全ての人に利便を与えるためのものです。確かに支配する側も利便を得たでしょう。けれどもそれは、日常的にそれを使って利便を得る現地ダイケー人の利益を前提としてのものです。それが近代化というものですよ。それを作った側が利便を得るから加害ですか? 本末転倒とはこの事です」と村上。

「・・・」



そして村上は言った。

「歴史学とは事象の真の理由を歴史の流れの中で、事実と論理によって明らかにする学問です。それに沿ってヒノデの歴史教科書が幅広い事実を語ると、それをダイケーは"自らの罪の隠蔽"などと歪んだ決め付けを叫ぶ。その合理的解明を覆い隠して、戦争や支配関係の原因は"歴史的な流れ"ではなく、"ヒノデの邪悪さ"だなどというヘイト的歴史認識を共有せよと要求する。そんなものを彼らは"正しい歴史認識"などと言うが、そんな非学問的認識を"正しい"とは片腹痛いだすよ。結局存在するのは、"事実と無関係に相手を糾弾する側に立ちたい"という願望に過ぎない。いくら"正しい"などと羊頭狗肉な枕詞を連呼しようが、間違いが正しい事にはならないのですよ」


「そうではない。ダイケー人は赦したいんだ。だからそれが可能なだけの"心からの謝罪"を求めているのだよ」と支倉。

「赦すって何ですか? 赦しを与える上位者の地位を主張しているだけでしょう。心からの謝罪って何ですか? 自分たちをその気にする"プライド快楽"のための奴隷的服従を差し出せという事ではないのですか? 何が"心からのもの"になるのかの基準はダイケー人の恣意ですよね? そしてそれは、彼らが歪曲した歴史の間違いを指摘すると、"それは心からのものではない"から帳消しという事になるのですよね?」と村上。


「当然だろう。被害者の痛みに共感して加害者の立場を自覚し、許しを請うならば、口答えなど出来ない筈だ」と支倉。

「つまり"被害者という肩書"による支配を受け入れて服従しろという事でしょう」と村上。

「そうすればこれまでの罪は問わないと言っているんだ。問わないのであれば事実かどうかは問題ではないだろうが」と支倉。

「歪曲した歴史で自ら煽った"自らの感情の高ぶり"によって相手を脅して全面降伏を迫ると。まるで張り子の虎を使った詐欺師ですね?」と村上。

「侮辱する気か!」と支倉は激高する。

「いや、詐欺師でしょう。詐欺師は言いますよ。相手が降参すれば戦いは回避されるんだから、虎が張り子か戦力かは関係無いと」と村上。


「謙虚になれと言っているんだ。謙虚に耳を傾け、反論を自制するのが誠意だ」と支倉。

「さっきと言ってる事が同じですよ。"謙虚"などという"見栄えの良い言葉のイメージ"を使って自分側の支配欲を美化しているだけだ。そもそも、何に対する誠意ですか?」と村上。

「被害者に対する・・・だよ」と支倉。

「ではなく、必要なのは、"事実"に対する誠意ではないのですか? "事実はどうでもいい"・・・などというのは"事実に対する誠意"を欠く態度ではないのですか?」



「相手が被害者である事を認めないのか。支配された歴史がある以上、彼らは被害者だ」と支倉。

「"事実に対する不誠実"という指摘には反論出来ない・・・という事でよろしいですね? で、その"認める"の具体的中身の問題ではないのですか? そのための戦後処理とそれに伴う多額な支払金でしょう。それによって被害者加害者の関係を処理して、対等に立ち返った。それが、その"被害とされるもの"の中身を清算する事を可能とするものである・・・と認めたのが、あの条約ですよ」と村上。

「あの条約は、ダイケーを併合した行為をを非合法と明記されていない。その問題が未解決である以上、あれで責任を果たしたなどと認められない」と支倉。


「非合法でないから非合法とされなかっただけです。当時の国際ルールや様々な実例と比較して、学問的にも合法だと指摘されている」と村上。

「威圧的状況の中で主権の譲渡を強制された。明らかに不当だ。それに対する心の傷にどう向き合うかの問題だ」と支倉。

「不当と不法は違います。国際法的論争でも、ダイケーに対する好意的な意見で、せいぜいが"不当だが合法"です。威圧的とか強制的とかでダイケーが感情的に拒否しているのは、不当か否かの問題だ。心の傷というのは、不当と感じているという感情の問題だ。だから支払金を伴った。だが不法か否かは、当時存在した国際ルールに沿うかどうかの問題であり、どう感じているかの問題ではない。あなたとダイケーの論は、こんなふうに至る所で問題をすり替えているんですよ」と村上。

「・・・・・ダイケーが被害者だという関係を認めたのがあの条約の筈だ」と支倉。


村上は言った。

「その"認めた被害者という関係性"の中身が、あの条約で清算されるべきもの・・・という事ですよ。あなたはさっき私から問われた"被害の中身"に向き合う事を拒否して、否定された"被害という記号"を振りかざし続けている。それを強弁と言います。あの条約では、"個人レベルも含めての全ての請求権"は消滅したと明記しています。全てとは当然、精神的にものも含めてですね? その証拠に、法においては慰謝料という"精神的被害に対する請求権"が存在します。そして、その明記された文言はけして変わらない。にも拘わらずダイケーはなお被害者を名乗り続けた結果、ついにその条約を破ったのです。確かに歴史的事象としての支配という点に関して、その"被害とされるもの"はあった。それを踏まえてそれを処理し解消したのがあの条約だ・・・という事実を踏まえて話を先に進めようとすると、あなたは被害という言葉に噛り付いて、その意味を問う事を拒み続けるのですね。それによって自分側が固執する"絶対支配者的立場としての被害者"という記号イメージの上に居座りを決め込む。つまりは単なる対話拒否ですよ」

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