第291話 彷徨える「自分」
「救われた体験」が、その人の心の有り方を形成するきっかけなのでは・・・という仮説を卒論テーマとして論考を進める中条。
村上たち三人の保護者から、彼らの生い立ちについて聞いた中条は考えた。
(救われるって何だろう。救われたと感じる事なんだろうか。どうすればそう感じるのだろう。そもそもそう感じる事は、本当に救われる事ななんだろうか)
中条は、正月にモニカが話を聞いたという岸本母のことを思い出した。
中条は岸本家を訪れ、岸本母と話す。
そして、救いとは・・・という問いに対して、岸本母は答えて言った。
「自分を駄目だと感じていた人が、それでいいんだと知る事・・・じゃないかしら」
「自分を許す・・・という事ですか?」と中条。
「自分を駄目だと思って引き籠る人の集まりがあるの。そこで会員は、"自分はこんなに駄目なんだ"って笑い話みたいに告白し合う事で、駄目でもいいんだって思える事で楽になるの。中条さん、自分を許すって言葉をどう思う?」と岸本母。
「許すって、上の人が下の人を・・・とか、被害者が加害者を・・・とかってイメージがありますよね? 自分が自分を、って言うと、その自分ってどっちなんだろうって」と中条。
「近代的自我って言葉があるわよね?」と岸本母。
「自分を客観視するって事ですよね? なりたい理想の自分を思い描いて、それに向かって努力するって」と中条。
岸本母は語った。
「それを達成するのは救いなんでしょうね。自己実現というのが、それね。けど、そういうのも含めて、責任って感覚が大きいんじゃないかしら。人は責任を果たすために努力するのよね? それが誰に対する責任かと言うと、お客さんとか会社とか家族とか同じ国の仲間とか。武力で隣国の島を奪ったダイケーの人達って、自分たちが悪いと解ってても、自分だけのものなら譲歩できるのかも知れない。けど、同じ国の仲間のものだから責任を感じて譲歩できない。だから戦争になる。近代的自我で理想の自分を目指すのは、自分自身に対する責任なのよね。責任って、誰かのために頑張りたい、頑張らなきゃいけないって事よね? それが美しくて利己主義は醜いと、みんな思ってる。けど利己主義って単に、その誰かが自分自身だってだけなんじゃないのかな? それを道徳で否定するのは必ずしも正しくないと、私は思うわ」
「けど、利己主義は不幸を招きますよね?」と中条。
「それは自分のために他人を犠牲にするからじゃないかしら。逆に他人のための自己犠牲ってみんなが褒めてくれる。けどそれが何かに強いられたものだったら・・・。誰かのために誰かを犠牲にするって、その誰かが誰であろうと同じだと思うの。けれどもそれが必要な時だってある。自分も含めたみんなのためにね。そういうのをちゃんと考える事が大事なんじゃないかしら」と岸本。
「そうですね。誰のためにじゃなくて、みんなが良くなる場所を作るんだって、真言君が言ってました。それで頑張って、自分や誰かを幸せに出来た、それに成功したと実感した、それで嬉しい、それが救いなんですよね? それを得るために生きているのかな?」と中条。
「それで自分を褒める事が出来る。誰かが褒めてくれる。けど、そういう活躍の場って常にある訳じゃない。むしろ誰かを助けないと・・・って状況の無い事って、平和で幸せな筈なのよね。そういう時、それでいいんだって、今の自分を肯定する事も大事だと思うの。逆に、何かに成功して褒められると、もっと大きな成功を求めてどんどん自分に過大な要求を突き付けちゃう」と岸本母。
「誰かを支配したいという想いが増長しちゃうみたいな?」と中条。
「成功の基準がどんどん高くなって、いずれ限界が来て失敗する。それで自分は駄目だ・・・って」と岸本母。
「失敗体験は自分を変えるきっかけとして意味があるんだって言いますよね?」と中条。
「けど、人はすぐには変われないわよね? だから今の自分を否定すると、怖くなって足が竦んで動けなくなる事もあるの。自分で自分を罰するのね」と岸本母。
「誰かに依存しちゃう人って居ますよね?」と中条。
「それって、自分に対する責任を誰かに預けて支配を受け入れて、その人の道具になるって事ね? 奴隷って実はとても楽な生き方なのよ」と岸本母。
中条は「そんなの嫌です」
「だから、とにかく自分を許すの」と岸本母。
「それで納得できるんでしょうか」と中条。
「だから全てを許す。その中の一つとして自分を許すの。よく、閻魔様の裁きで地獄に行くって言うわよね? けど、裁いているのは本当は自分自身なの。自分で自分を裁いて自分を苦しめるって馬鹿げていると思わない?」と岸本母。
「けど、危害を加えている人を許して、その危害を受け入れるって事になったら怖いです。それに、自分を許して楽になって、引き籠っていた人がまた外に出れるのならいいけど、逆に、許されるんだって事で楽な方向に流れてニートに・・・って事もありますよね?」と中条。
「そうね。ただ楽に流されるだけじゃ、意味は無いわよね? 出家って、世捨て人になる事なのよ。つまりお坊さんって、ある意味ニートみたいな存在とも言えるわね。で、信者のお布施で食べさせてもらって、それで腰を据えて、人が苦しむってどういう事なのかを考えて、信者の相談に乗ってあげるの」と岸本母。
「そういうお坊さんだけならいいんですけどね」と中条は笑った。
その後しばらく話して、中条は岸本母の基を辞した。
村上のアパートに行き、岸本母から聞いた事を話す。
話を聞いて、村上は言った。
「結局バランスなんじゃないかな? もっと大きな成功を求めてどんどん努力するって、辛いかもしれないけど、それで障害を突破して、人は凄い事が出来る。それで更に・・・で限界にぶち当たって失敗しても、それでそれまで成し遂げた事が消える訳じゃない」
「けど、気持ち的にはどうなんだろう」と中条。
「だから理性で自覚するのさ。そして、そういう不幸になるサイクルを理解して、常にそうならないよう心掛ける。目標を無理の無い所に設定するとか、評価は先ず自分自身の納得と心得て、他人に振り回されないってのもね」と村上。
「私にそれが出来るのかな?」と中条。
「里子ちゃんは人が不幸になる原因を知ってるじゃないか。人が躓くのは知らないから。知ってるなら回避できる筈だよ」と村上。
「それって、中道って事かな?」と中条。
「仏教も儒教もアリストテレスも、みんな言ってるよね? 極端に走ると弊害ってのはどこにでも出て来る」と村上。
「それが真実って事かな?」と中条。
「真実とは違うと思う。中道が真実だと言った瞬間、裏をかく奴が出て来るからね。1から10までのどこを取るかって話の時、10の人が20を要求して中道を称して10に・・・とか」と村上。
「足して二で割るって、駄目な理屈の見本みたいになったりしてるよね」と中条。
「それにね、間を取るとなると、4か5か6かで意見対立したりする。そういう時って、実は三人ともたまたま適当に選んだだけだとしても、意見の通った人が正解者として威張る立場に立てるから、自分の意見に固執する。だったら正解は5よりも4か6に・・・じゃなくて"お前は偉くない"と窘める事でしょ?」と村上。
「何が真実かというより、状況を見て判断しろって事なんだね?」と中条。
「けど、そうすると恣意的判断者の資格を欲しがるのさ」と村上。
「難しいね」と中条。
「そりゃ難しいさ。けど、こういう事を言った人が居る。迷う時ってのは実は、どっちを行っても大差ないんだと。右に行くか左に行くかで一方が崖だったとしたら、そっちを選んだら崖に出る。けどそれは仕方ないのさ。本当に駄目なのは、迷ってどっちにも行けないって事だよ」と村上。
何かに辿り着いたような気がして中条の顔に笑顔が戻った。
そして中条は「そうだね。ありがとう真言君」
「役に立つ事を言った気がしないんだが」と村上。
中条は「いいの。ねぇ、真言君」
「何?」と村上。
「エッチしようよ」と中条。
「まあ、いいけど」と村上。
その時玄関が開いて、芝田と秋葉が・・・。
「村上、来たぞ」と芝田。
「里子ちゃん来てる?」と秋葉。
中条は玄関に駈けて行き、二人に抱き付いて言った。
「拓真君、睦月さん、大好き」
「どうしたんだよ」と芝田が訝しむ。
そんな芝田にも中条は「ねぇ、エッチしようよ」
「何だよ、いきなり」と芝田。
「その前に夕食にしようよ。お腹空いちゃった」と秋葉。
芝田は村上に言った。
「ってか村上、里子に変な動画でも見せてたのかよ」
村上は慌てて「違うから」




