第288話 中条さんの小さな試練
春から保育士採用試験の準備をしてきた中条。
七月の一次試験で筆記。九月の二次で実技と面接。
村上のアパートに問題集を持ち込んで勉強するが、次第に不安が膨らむ。
勉強しながら「筆記試験ってどうなのかな?」とぽつり。
「水沢さんが受けてるんだよね?」と村上。
小島・山本・水沢が村上のアパートに遊びに来た時、話を聞く。
水沢は「大変だったのは一般教養かなぁ。数学とか社会とか国語とか」
「要するに何でもありと?」と秋葉。
「どうしよう」と中条が表情を曇らせる。
だが水沢は「誰でも知ってる常識だって言ってた」
「歴史とか地理とかも?」と村上。
「そんな問題も出てたよ」と水沢。
「じゃ、水沢さん。江戸幕府が始まったのは何時?」と村上。
「昔」と水沢。
「大阪はどこにある?」と村上。
「遠く」と水沢。
「徳川家康はどんな人?」と村上。
「偉い人」と水沢。
「法隆寺を建てたのは?」と村上。
「大工さん」と水沢。
「誰でも知ってる事・・・ねぇ」と秋葉は溜息。
山本は水沢に「お前、本当にその試験、通ったのかよ」
「そういえば沢口さんが専門学校を卒業して、上坂保育園に赴任してきたよ」と水沢は言った。
喫茶店で沢口に話を聞く。
「一般教養の試験って大丈夫だったの?」と村上。
「専門学校は資格試験の対策とか、しっかりやってましたから」と沢口。
「にしては水沢さん・・・」と秋葉が言うと・・・。
沢口は「あの人は試験が終わると忘れちゃうんです。問題集があるから、使いますか?」
「他の試験はどうなのかな。実技と面接があるんだよね?」と村上。
すると中条は「面接は大丈夫だと思う。入試の時は自分が何なのかも解らなかったけど、今は保育をやりたい理由もあるし」
秋葉が「じゃ、試してみようか。あなたが保育を希望する理由を言って下さい」
中条は「あの、文学部を出た後の進路で事務は無理みたいだし、教職でも小中高は生徒に振り回されそうで、保育なら子供が小さいから何とかなるかな・・・と」
全員、溜息をつく。
「もう少し、それらしい理由を考えたほうがいいと思うよ」と村上。
「そうだよね」と中条。
「沢口さんはどうだったの?」と芝田が沢口に振る。
沢口は「言う事なんて決まってるじゃないですか。子供が好きだからです。可愛いは正義!」
村上、唖然として「本気でそれ言っちゃったの?」
「言いたかったんですけど、専門学校の面接練習で言ったら止められました」と沢口。
「あと、実技試験って?」と秋葉。
「ピアノと工作ですよ」と沢口。
「里子ちゃんがピアノ?」と芝田・村上。
中条は恥ずかしそうに「保育の資格実習でやらされて、憶えたの」
「聞きたい」と芝田・村上。
中条家の一室に古い小さなピアノがある。
初めて見た・・・と、感慨深げに村上は言った。
「こんなものがあったんだ・・・」
「お祖母ちゃんが若いころ使ってたんだって」と中条。
「弾いてみてよ」と秋葉。
猫踏んじゃったを弾く中条。
「おーーーー」と全員拍手。
「ミリアネスの主題歌、弾ける?」と芝田がリクエスト。
中条がピアノをひく。
「ミリアネスの主題歌だ」と村上が目を丸くする。
「すげーーー」と芝田。
調子に乗ってリクエストを連発する仲間たち。
「アンネローザのエンディング」と村上。
「メグミンの挿入歌」と芝田。
秋葉が「里子ちゃん、困ってるじゃない」
七月の一次試験に向けて筆記試験の勉強を続ける中条。
中条家に様子を見に来る仲間たち。
「調子はどう?」と秋葉。
「卒論も進めなきゃだから」と中条。
「そっちは試験が終わってからでも」と芝田。
「ゼミで進捗状況発表しなきゃだから」と中条。
「そうだったね」と芝田。
「一般常識は?」と村上。
「何とかなりそう」と中条。
「教育論とか教育心理もあったよね?」と村上。
「専門分野だから」と中条。
「あと、社会福祉論とかあったよね?」と村上。
中条は少しだけ表情を曇らせて「それがちょっと」
「政治経済方面だからな」と芝田。
「真言君の得意分野じゃない」と秋葉。
村上は「高校の授業ではそうだけどさ。ってか経済とか社会とかは経済学部の守備範囲じゃないの?」
「睦月の縄張りじゃん」と芝田も言った。
秋葉はその気になり、中条に言った。
「そうよね。私が教えてあげる。里子ちゃん。よく聞きなさい。社会福祉とは」
「社会福祉とは?」と中条。
「お金よ」と秋葉。
「へ?・・・・」と全員唖然。
そして秋葉は語った。
「例えば老人養護。あの整備が急務なのは高齢化に対応するためよね? 高齢化は経済の成熟と経済成長停滞とともに訪れる。そういう時にお金がどこにあるか。老人たちの蓄えになっているのよ。何しろ彼らは経済成長が停滞する前に活躍して、その果実をがっぽり手にした人達なのだから。けれども、多くの老人が福祉にぶら下がれば、福祉財政破綻のリスクが高くなる。少子化で子供にも頼れない。だから彼らは自らの資産を厚くしてそれに備えるの。そしてそのお金を遺産として受け継ぐ子供が居ない人も多いのよね? そんな彼らの蓄えを、養護施設は骨の髄まで搾り取るの。どれだけ残さず搾り取るか・・・」
そんな語りを遮って村上が「あーもういい。睦月さんに期待したのが間違いだった」
「睦月って、そういう人だったよね」と芝田。
秋葉は「もしかして、みんな引いちゃった?」
「普通引くと思うよ」と村上。
「全部冗談なんだけど」と秋葉。
村上は「この御時世じゃ、シャレにならないよ。特に、睦月さんが言うとね」
受験勉強は中条にとって、それなりにプレッシャーだった。
だが大学入試で多少慣れていたのと、あちこちの自治体で増設したため、競争がさほど厳しく無かった事もあって、それほどの苦にはならなかった。
自宅で籠っての受験勉強となり、村上が中条家に通う。芝田も秋葉も。賑やかになったと喜ぶ中条祖父。
七月の受験日を控えて七夕をやった。中条家の居間に笹の葉を飾る。
文芸部室でも七夕をやろうという事になる。
「一昨年、やったよね? 斎藤さんの合格を祈って」と戸田。
「高校採用は競争率が厳しいからなぁ」と鈴木。
「イベントの口実なんだから無駄にするのは勿体ないよ」と根本。
「森沢先生は?」と真鍋。
「また缶詰だってさ」と戸田。
「懲りないなぁ」と全員あきれ声。
佐藤・佐竹・芦沼も参加して、全員で中条の合格を祈る短冊を書く。
短冊をつけた笹を飾り、部室にお菓子と飲み物を持ち込んで、わいわいやる。
「中条さん、頑張ってね」と戸田。
「先輩、ファイト」と真鍋。
「中条さん、合格祈願のお守り、買って来たんだ」と佐藤と佐竹。
「ありがとう、佐藤君、佐竹君」と中条。
すると村上が「ところでお前等も採用試験なんじゃね?」
「俺たちは、なるようになるさ」と、佐藤と佐竹。
だが、中条は「駄目だよ。みんなでお願いしなきゃ」
全員で短冊を書く。
「佐藤と佐竹が高校採用試験に合格しますように」
短冊を笹につける。
つけながら、渋谷が言った。
「これって二人セットで扱ってるって事だよね?」
「手抜き感がハンパ無いな」と芝田。
「いや、俺たちここの部員じゃないし」と、佐藤と佐竹。
すると中条が「駄目だよ。ちゃんとお願いしなきゃ」
改めて全員で別々に短冊を書く。そして、お菓子と飲み物を並べてわいわいやる。
「織姫と彦星に届くといいね」と根本。
「雨だけどね」と真鍋。
「いいんだよ。星々が浮かぶ大宇宙に雨雲なんて無いんだから・・・って、一昨年の七夕で森沢先生が言ってた」と鈴木。
「一昨年の七夕ってどんなだったんですか?」と新田。
「斎藤さんという先輩の高校教員採用試験の合格を祈ったんだよ。みんなそのために短冊書いてね。けど、そのうちみんな自分のお願い書いて」と村上。
「真鍋が童貞卒業祈願とか」と芝田。
「勘弁してくださいよ」と真鍋。
「森沢先生も何か書いたんですか?」と金田。
「編集退散って」と桜木。
後輩たちが笑う。
「それ、誰が始めたんだっけ?」と渋谷。
「いいじゃない。誰だって」と根本が慌てる。
「これでしょ?」と、真鍋が笹に結ばれた短冊の中からそれを見つける。
曰く「桜木先輩と結ばれますように」
「根本さん、またやってるの?」と戸田があきれ声で言う。
「いいじゃないですか。減るもんじゃなし」と根本。
「桜木君は一人しか居ないんですからね」と戸田。
「まあまあ、好きになるのは自由だし」と芦沼。
「全部同じ願いだと、織姫も彦星も読んでくれないかも・・・でしょ?」と鈴木。
「じゃ、俺も」
「私も」
そんな事を言って、めいめい勝手に短冊に願いを書く
村上は「卒論完成と着床実験成功と人口子宮完成」と短冊に書く。
それを見て芦沼は「一枚でまとめるとか、そんな手抜じゃ、お願い聞いて貰えないわよ」
「芦沼さんだって」と村上。
芦沼の短冊には「人口子宮完成と卒論完成と大学院入試合格(笹尾君も)」
「手間を省くのは合理主義の基本よ」と芦沼。
「さっきと言ってる事、違うじゃん」と村上。
芦沼は笑って、自分の短冊を笹につける。
村上も自分の短冊を笹につけながら「そーいえば大学院の試験も、もうすぐだね。それで笹尾の分も?」
「友達だものね」と芦沼。
「あいつは大学院で、窒素固定菌を使った蛋白飼料の研究をするとか言ってたな」と村上が思い出したように、言った。
そして、採用試験の当日となり、中条は一次試験を受けた。
佐藤も佐竹も高校採用試験をこなし、やがて三人の元に合格通知が届いた。
九月の二次試験でも三人とも合格した。
同じ頃、芦沼と笹尾も大学院の試験を受け、合格した。




