第219話 女弁護士片桐智子
五月半ばの司法試験本番の直前。
大学を出たら自分の会社を起こす渡辺を法律面で助けるため弁護士を目指す、片桐の勝負の時だ。
そのプレッシャーに圧し潰されそうになっていた片桐の様子を心配する、高校のクラスメートからの電話は、まだ時々かかって来る。
ただし渡辺の携帯に。
「本人、落ち着いてる?」と柿崎が電話で話す。
「もう大丈夫みたいだ。なんせ二年も続いたから、いい加減慣れて貰わないと困る」と渡辺。
「クリスマスの時もそれ、聞いたぞ」と柿崎。
「皿とか飛んでこなくなった」と渡辺。
「片桐さんよりお前の方が心配だぞ」と柿崎。
片桐の部屋の机の前の椅子に座る渡辺。
彼の膝の上で片桐が、資格受験の追い込み中だ。
「誰から?」と片桐。
「柿崎だよ。みんな心配してる」と渡辺。
「感謝してる。けどこれ、気持ちいいね」と片桐。
「オキシトシンって脳内ホルモンが出るって言うんだろ?」と渡辺。
「渡辺君にも出てる?」と片桐。
渡辺は「出てると思う」
片桐は甘え事で「私の事、大好きになった?」
「そうだね?」と渡辺。
「じゃ、結婚してくれる?」と片桐。
渡辺は「そういう事を聞く時は、ポケットのボイスレコーダー止めてからにしてくれる?」
片桐はそう言われると、悪戯っぽく笑って舌を出し、ポケットの中のボイスレコーダーのスイッチを切った。
話は遡る。
年明け頃には、心配した仲間たちから電話がかかるようになった。
「去年はかなり鬼気迫ってたからなぁ」と電話で芝田が話す。
「以前よりは落ち着いたと思うが」と渡辺。
「以前よりは・・・って」と芝田。
「皿とか飛んでこなくなった」と渡辺。
「片桐さんよりお前の方が心配だぞ」と芝田は溜息をついた。
片桐を個人的に指導してきた渡辺家の顧問弁護士が言うには、かなりいい線行ってるとの事。
だが、問題は精神的な不安感で実力が発揮できない可能性だとも指摘したという。
四月に入ると片桐に不眠の傾向が出る。
話は元クラスメート達に広まり、村上たち、数名の仲間が様子を見に行く。
彼らを招き入れた渡辺を囲んで、あれこれ言う仲間たち。
「受験に効くという神社のお守り買って来たぞ」と芝田。
「お祖父ちゃんが教えてくれたお呪いなんだけど」と中条。
「気晴らしでどこかに出かけたらどうよ」と津川。
杉原が、公務員採用の試験勉強で煮詰まった時、無理やり気分転換に連れ出された経験を話す。
渡辺のマンションでわいわいやりながら作戦会議。
「本人に秘密で計画を立てて連れ出したらどうかな?」と杉原。
「サプライズだね?」と坂井。
米沢が「高級リゾートを貸し切りで用意するわよ」
「高そうな所は貧乏性の片桐さんにはきついんじゃ」と矢吹。
「精神安定剤があるでしょ?」と米沢。
「それ、本末転倒だろ」と山本があきれ顔で言う。
杉原が「もっと落ち着いた所で本人が喜びそうな所をチョイスしようよ」
「やっぱり温泉でおもてなしでしょ」と秋葉
「詫び錆とか?」と芝田。
「貧乏性はどうなる?」と山本。
「詫びというものは一見地味な雰囲気の中に心を込めるんだよ」と村上が解説。
いきなり片桐の部屋のドアが開いて、本人が出て来る。
「か・・・片桐さん、どうしたの?」と慌て顔の杉原。
「トイレだけど」
そう言ってトイレに入る片桐。
「本人に秘密の作戦会議の場所に何でその本人が居るんだよ」と芝田がひそひそと焦り顔で言う。
「だってここ、渡辺君のマンションだよ」と中条。
「聞かれたかな?」と津川
渡辺は「大丈夫、完全防音だ」
「それで、何だっけ?」と津川。
「だから、詫び錆のおもてなしだろ?」と芝田。
「具体的にたとえば?」と山本。
「詫び錆と言えば、お茶だよね?」と八木。
「飲み物はもっぱらお茶? 甘いココアの方が元気出ると思うけど」と秋葉。
「それ本人の好みの問題じゃね?」と小島。
片桐がトイレから出て来る。
そして水沢が能天気な笑顔で片桐に聞いた。
「片桐ちゃん。みんながサプライズで強制気分転換旅行に連れて行ってくれるって言うんだけど、飲み物はお茶とココアとどっちがいい?」
全員、前のめりにコケる。
「水沢さんってば!」と渡辺が困り顔。
そして片桐は苛立たしげに言った。
「勉強の時間が惜しいから勝手な事しないで下さい!」
片桐は自室に戻り、ドアを閉める音がマンションに響いた。
杉原が溜息をついて言った。
「あのね、水沢さん、サプライズって本人に内緒で計画する事なの」
状況はさらに悪化した。
村上たち四人が再び渡辺のマンションに様子を見に来る。
五人で作戦会議。
「何とか気晴らしさせてあげられないかな?」と渡辺が切り出す。
秋葉が「うちの母がよくお宮参りのハシゴ、やってるの。それで受験に効く神社を、ってどうかな?」
「どんな所?」と渡辺。
「リストを作ってもらったんだけど」と秋葉が言って、コースの書かれた紙を出した。
「誰が運転するんだ?」と芝田。
村上が「渡辺に決まってるだろ。これは一種のデートなんだから」
「俺、車持って無いが」と渡辺。
秋葉が「私のを貸してあげる。免許は持ってるのよね?」
「渡辺、道に迷ったりしないのか?」と芝田。
「カーナビがあるだろ」と渡辺。
村上が「睦月さんの車にそんなものは無い」
渡辺は片桐の部屋に行き、週末の合格祈願お参りデートに誘った。だが・・・。
渡辺はリビングに戻ると「神頼みとか信じてないから・・・だとさ」と言って溜息をついた。
「取り付くしまも無いな」と芝田も溜息。
その時、中条はデートコースのリストを見て、「このリストの神社って、全部縁結びで有名な所だよ」
「秋葉ママが結婚脳で行ってる所で、再婚相手として狙ってる村上パパを初詣に連れ回してるお参りデートコースそのまんまだな」と芝田。
「合格祈願の神社じゃないじゃん」と村上。
その夜、食事を運んできた渡辺に、片桐は言った。
「渡辺君、私って嫌な女よね。みんなが私のために考えてくれるってのは解ってるの。けど苦しいの。答えなきゃって思って、どんどん辛くなるの」
そう言って泣く片桐を、辛そうな表情で抱きしめる渡辺。
次に村上たちが杉原・津川と一緒に様子を見に来た時、渡辺は言った。
「片桐さんの事はそっとしておいてくれないかな」
杉原は溜息をついて「結局、使命感が強すぎなんだよね」
その時、村上は言った。
「解ったよ。けど、最後に少しだけ話させてくれないかな」
村上は片桐の部屋に入る。
ベットにうつ伏して泣く片桐に肩に、村上はそっと手を置いて、言った。
「片桐さん、辛い?」
「辛いよ。どうすればいいのかな」と涙声の片桐。
「弁護士の先生は大丈夫だって言ってるんでしょ?」と村上。
「そんなの解らないじゃない?」と片桐。
「当日の体調とか?」と村上。
片桐は「それもあるし、運が悪くて駄目になる事なんて、いくらでもあるよ」
「だったら、合格しなくてもいいんじゃないかな?」
その村上の言葉に、片桐唖然。
そして立ち上がり、声を荒立てて言った。
「合格しなけりゃ弁護士になって渡辺君助ける事も出来なくなるの」
そんな片桐に、村上は質した。
「渡辺を助けるのは弁護士の資格か? けど資格って、証明書として印刷した紙きれだよね? 渡辺を助けるのは紙きれか? 違うだろ? その紙切れを貰った片桐さんの法律知識じゃないの? 資格なんて持ってても、駄目な弁護士なんていくらでも居るよ。けど片桐さんは、弁護士の先生が大丈夫だって保証するだけの法律知識を持って、試験に臨んでるんじゃないの? その知識は、試験に落ちたら蒸発して無くなるとでも? 無くならないだろ?」
「けど、資格が無ければ弁護士としての活動が」と片桐。
「そんなもんは顧問弁護士の先生が持ってるだろ。その助手として片桐さんが持ってる知識で渡辺を助ければいいってだけの話じゃないの?」
片桐は全身から力が抜けていくのを感じ、その場に座り込む。
そして片桐は「村上君・・・」と言って彼を見上げた。
村上は彼女の前にしゃがんで、その頭を撫で、言った。
「大丈夫、何があろうと片桐さんは片桐さんだよ」
「うん」
ドアが開き、片桐は渡辺に駆け寄って抱き付き、泣いた。
「渡辺君、心配かけてごめんね」と片桐。
渡辺は唖然としつつ、片桐を抱きしめる。
そして村上に言った。
「おい村上、お前、どんな魔法を使ったんだよ」
「逆だよ。魔法の種明かしをしたのさ」と村上は意味ありげに笑ってみせた。
「勿体ぶるなよ」と渡辺は口を尖らせる。
村上は言った。
「例えば、俺たちが必死で働いて稼いでるお金って、実はただの紙切れだって知ってるよね? つまり、そういう事さ」
渡辺は溜息をつくと「さっばり解らん。まあいいや。それより片桐さん。何かして欲しい事はある?」
「何でもいい?」と片桐。
「いいよ」
片桐は甘え声で言った。
「だったらエッチして」
その場に居る全員、唖然。
渡辺は赤くなって彼らを見回して、片桐に言う。
「あの・・・片桐さん。こんな、みんなが見てる前で」
村上が追及の口火を切る。
「ってか渡辺、まさかとは思うが、この期に及んで、まだ手を出して無かった・・・なーんて事は無いよね?」
「いや、俺、恋愛とかか・・・」
そう言おうとした渡辺の言葉を津川が遮って「金のかかる事には手を出さない主義・・・とか今更言わないよな?」
渡辺は「いや、その・・・」
「渡辺君そこに座りなさい!」と秋葉が一喝。
「はい」と言って、渡辺、その場に正座。
秋葉は続けて「・・・って岸本さんに言われて小一時間説教されたよね?」
渡辺は「はい」
「まー童貞じゃないって余裕あるからね。米沢さんに散々して貰って、それで満たされてた訳だ」と芝田はあきれ声。
渡辺は「面目ない」
「で、そっち方面では片桐さん、放ったらかしだった訳だ。そりゃ不安にもなるわな」と村上。
渡辺は「ごめんなさい」
そんな渡辺を見て、片桐はおろおろしながら「あの、その辺にしといて欲しいんだけど」
「これ以上責めて勃たなくなったら元も子もないからね。俺たち、帰るわ」
仲間たちはそう言うと、次々に手荷物を持って帰路についた。
そんな仲間たちを見送りながら、渡辺は村上に言った。
「あのさ、村上。・・・・・・・・・・・・・・ありがとうな」
「どういたしまして・・・ってか、お節介ついでに差し入れだ」
そう言って村上は避妊具の小箱を渡辺に投げ渡した。
渡辺のマンションを出た四人。
村上のアパートで祝杯を上げる。
缶ビールを半分ほど飲んだ所で、秋葉は笑って言った。
「ねえ、真言君が片桐さんに言ったのって、合格しなくてもいいんじゃないのか?・・・って事なんじゃないかしら? 渡辺君を助けるために必要なのは紙切れの証明書に書かれた資格じゃなくて、そのための勉強で得た知識だろ?・・・って」
「何で解ったの?」
そう村上が笑いながら問うと、秋葉は言った。
「栃尾君の所で、彼のお母さんの調理師免許の話が出たでしょ? あれと同じ事よね?」
試験本番、片桐は万全の体制で試験に臨み、六月に入ると成績が発表された。
その結果に顧問弁護士は太鼓判を押した。
そして九月の合格発表で、彼女は弁護士への切符を手にする事になる。




