第210話 斎藤さん綱渡りの卒論
四年生が過ごす一年間の多くは、卒論に向けての時間となる。
ゼミでは定期的に進捗状況を報告し、主任教授の指導を受ける。
斎藤は「アメリカ大衆文学に関するジェンダー論の再考」と題して"ウーマニズムによるアメリカの小説への批判"に対する反論を、現代文学研究室の上山教授の指導の元で書き進めた。
12月には執筆を終え余裕で提出かと思われた時、アクシデントが発生した。
教授会で物言いがついたのだ。
前年に雇用停止となった兼任講師に代わって新たに赴任したジェンダー論の講師が、彼女の研究課題について小耳に挟んだとして問題化し、これを卒論として認めるべきではないと強硬に主張した。
上山教授はやむなくこれを斎藤に伝え、文学部でも大騒ぎとなった。
話を聞いた文芸部員たちは激怒した。
「学術論文ではなく政治宣伝文書だ・・・とか言い張ってるそうだ」と住田。
「これが政治宣伝文書だから論文じゃないってんなら、自分が研究成果として提出したのも全部そうだって事になるが」と村上。
「具体的にどこが論理的じゃないってんならともかく」と戸田。
「ってかアクション小説は文学なんだから、これは文学論文だろ。中身はちゃんと論理してるし」と桜木。
「上山教授は何と?」と渋谷。
斎藤は「政治的正当性の問題だからって。教授も随分抵抗したんだけど、バックに国会の畑島春子議員が居るのよ」
「あの暴言オバサンかよ」と芝田。
「大体、あの講師雇ってるのは経済学部でしょ。文学部に口出しとか変よ」と根本。
「経済学部としてはどうなんですか?」と真鍋。
秋葉は「学部を裏で牛耳ってるのはエンクス経済学の名誉教授だからなぁ。日本学問会議の会員として学会全般に顔が利く人でね」
「それで、別の課題を出してこれと取り換えるしか無いって言うの。緊急避難だから、出してさえくれれば通すって」と斎藤。
「今から新しいのを書けと言っても」と後輩たち。
すると村上は「最後の奥の手がありますよ」
だが斎藤は「ただしネットのコピペは止めろ・・・だって」
「やっぱりそうだよな」と村上。
「色々と詰んでますよね」と桜木。
「ところで真言君が言った最後の奥の手って、ネットのコピペ?」と秋葉が突っ込む。
村上は焦り顔で「締め切りを伸ばしてもらうとか」
「それも止めてくれ、だって。とにかく、新しいネタを探して何とかするわ」と斎藤。
村上と秋葉は、佐川に連絡して対策を相談した。
「学問の自由に明白に反する案件だな」と佐川は断言した。
「学問の自由の侵害って、政治権力が大学に手を出すのを言うってイメージがあるが?」と村上。
「じゃなくて、学部の自治を保障するものだよ。違う学部で文学の部外者が圧力をかけるのは明らかにアウトだな」と佐川。
「それに、政治的正当性は学問とは無関係だ。学問を否定するのは学問しか無い。つまり学説としての反論だが、講師がやってるのはそうじゃない。ただの圧力だ」と村上。
「反動派とか言って人格攻撃して論文の撤回とか署名集めて要求するって、よくあるんだよ。どこそこの教授が賛同してますとか言ってるけど、学者を名乗る資格ありません宣言したようなものさ」と佐川
「アメリカのラムザ教授って人の歴史学の論文に対して、自分達の政治活動の、しかもその活動って特定の国の、紛争処理も終わってる問題に関するバッシングなんだが、そんなのに不都合だって理由で排斥運動やらかした人達が居たよね。それで文句があるなら反論の論文書けよって言われて逆ギレたけど、奴等の無理な反論モドキは結局、殆ど歴史事実と無関係だから、全部論破されて、排斥署名に名前を乗せた奴等のブラックリストがネットで出回ってる」と村上。
「それで、斎藤先輩の件はどうにかなるの?」と秋葉。
佐川は難しい顔で「その圧力を伝える正式文書とかは、ある?」
「そういうのは無いと思うよ」と村上。
「だろうね、証拠を残さないのが奴等の手口だからな。うちの講師の弁護士とも相談してみるよ。その上山教授ともね。ただ、うまくいく保証は無いから、代わりの卒論は進めておいた方がいいと思うよ」と佐川。
「本人はそのつもりだけどね」と村上。
そして佐川は二人に小声で確認。
「あと、この件、ネットで流していいか?」
「斎藤さんの名前は出さないよな?」と村上。
佐川は「個人情報を出さないのはもちろんだ。だけど、そのジェンダー講師は社会的地位で、この暴挙をやらかした訳だからね。実名で批判しないと話にならない」
「あの人、複数の大学で講師をやってるから」と秋葉が言った。
「なら、お前の先輩の名前が出る恐れは無いと思う」と佐川。
佐川は仲間に呼びかけて、ネットで複数のサイトに投稿した。
そして、ウーマニズムに批判的な人達が書き込んで盛大に炎上した。
だが、マスコミ筋はこれをフェイクニュースと認定し、卒論を潰された学生を罵倒する多くの書き込みがネットに投稿された。
学生叩きの投稿には、全く同じ文章があちことに見られ、組織的な書き込みであるのは明らかだった。
そんな中。経済学部の廊下棟で、上山教授が問題のジェンダー学下野講師に話しかける。
「下野さん。話があります」
「何ですか?」と下野講師。
「例の卒論の件。認めてもらう訳にはいきませんか?」と上山教授。
「教授会で決まった事です」と下野講師。
「あの論文に学問的な齟齬があるようには思えないのですが。これでは学問に対する冒涜です」と上山教授。
「政治的正当性に異議を唱えると仰るのですか?」と下野講師。
「これは学問の自由の問題です」と上山教授。
「違います。これは人権の問題です」と下野講師。
「あなたの言う人権とは何ですか?」と上山教授。
「人権とは即ち女性の人権です」と下野講師。
「男性の人権は人権ではないと?」と上山教授。
「これ以上文句を言うなら、私達の組織が相手になりますよ」と下野講師。
斎藤は三年の時にゼミで発表した中から選び出し、懸命に論文として文章化した。
だが、引用論文のリストを書こうとすると、出展の記憶がおぼろげで、図書館で探すしか無かった。
文芸部の仲間たちが手分けして調べ、ようやくリストを仕上げた。
文章は一応仕上がったが、卒論として出すには規定の文字数に足りない。
必死に水増しして、ようやく仕上がったものを部員達がチェックを始めた時、締め切りまで一週間を切っていた。
「これ、誤字じゃないですか?」と戸田が指摘。
「ここも」と桜木も指摘。
斎藤は指摘された所を直しつつ「急いで書いたからなぁ?」
部員達が手分けして誤字や語彙の間違いを探す。
「ここらへん矛盾してない?」と住田が指摘。
「これも何か変」と村上。
斎藤は指摘された所を直しつつ「もう、妥協して出すしか無いかなぁ?」
その時、上山教授から電話が来た。
「斎藤君、下野講師が折れたぞ。もう大丈夫だ」
佐川を指導している国立大講師の沼田弁護士が、県立大学長の基に質問状を出したのだ。
質問状に曰く。
「文学部学生の卒論に対して、ウーマニズム活動家が、経済学部講師の地位を利用して教授会で圧力をかけた行為は、文学に対する学問自由の侵害ではないのでしょうか?」
証拠として上山教授と下野講師の会話を文章化したものが添付されていた。
そして質問状は続く。
「この件について是正を求めます。受け入れられないならば、公的な場に訴えるとともに、証拠の録音データを公表します」
学長は受け入れざるを得なかった。この件は教授会で報告され、斎藤に対する攻撃は撤回された。
斎藤のアパートで部員たちの歓声が響く。
「良かったですね、先輩」と渋谷。
「後は完成していた卒論を提出するだけですね?」と戸田。
斎藤は困り顔で「・・・」
場に、妙な雰囲気が漂う。
村上が不審顔で「製本、出来てるんですよね?」
斎藤は困り顔で「それが・・・」
「まだなんですか?」と桜木。
斎藤は冷や汗を流しつつ「これからプリントアウトして製本すれば大丈夫よ」とドヤ顔を見せた。
斎藤は論文を急いでプリントアウトするが、読んでみるとあちこちに誤字がある。
部員達が手分けしてチェックする。
部員たちから次々に指摘が出る。
「ここらへん矛盾してません?」
「これも何か変」
必死に書き直す斎藤。不眠不休で論文を仕上げ、締め切り当日に製本。
それを持って大学に駆け込み、提出窓口に着いたのが締め切り三分前。
駆けこんだ所で、表裏の表紙と中身を綴った紐がほどけ、ばらけた数十ページを盛大に床にぶちまけた。
仲間たちが必死に拾い集めて床に座って製本し直す。
そして締め切り三秒前に提出。
その後、斎藤は主査・副査の前でプレゼンテーションを終えて、卒論は審査をパスした。
その後、あの圧力の証拠として録音された音声データがネットに流れた。
フェイクとして扱われた案件の動かぬ証拠が出た事で、ネットは盛大に炎上した。
下野講師と畑島春子議員は盛大に叩かれ、フェイクと断じたメディア各社には抗議電話が殺到した。
下野をジェンダー論講師として雇用していた各大学にも抗議が及び、県立大では彼女の雇用を停止するとともに、ジェンダー論の講義自体を廃止した。
春月県立大学生自治会の自治会新聞では、卒業特集が組まれた。
卒論に関する様々な話題が記事となる。
そして、斎藤の卒論を製本し直す仲間たちの写真が大きく載っていた。
曰く「掟破りの床製本」




