第193話 ミクロの宮殿
生化学研究室では、農学部増殖技術研究室との共同研究が始まっていた。
兎を使った人工子宮の研究。
兎の生体子宮の機能を探り、受精卵の着床から胎盤形成までの経過を解明する。
そのために、受精卵が着床した兎の生体子宮内膜組織を観察し、組織内の生体物質を検出する。
その日、村上と芦沼は農学部の千葉と、兎の生体子宮の実験の最中にあった。
「これが着床した受精卵なんだが、子宮の内側に付着して着床が始まる段階だな」と千葉が顕微鏡カメラを操作しながら説明。
「着床を促す物質があるんですよね?」と村上。
「子宮の内側の粘膜層の基本は子宮内膜間質だが、その上にあって子宮の内面を覆う細胞層が子宮内膜管腔上皮。その表面に口を開けているのが子宮内膜腺。これが着床に必要な物質を分泌する。ただ、具体的にどんな物質がどう作用して着床に至るかがよく解ってないんだが、最近解ってきたものもある」と千葉。
「子宮内膜腺から出るものですか?」と芦沼。
「というより、本来細胞が自分で出す筈のものなんだが、子宮内膜側で低酸素誘導因子が働く事で、子宮内膜管腔上皮の受精卵が付着した部分が剥がれて受精卵が着床可能になるんだよ」と千葉。
「低酸素ですか?」と村上。
「本来は酸素が不足した時に出る因子で、その状態に対応しようとして体に働きかけるものさ」と千葉。
「運動でかかった負荷に対応して筋細胞が増殖するみたいな」と村上。
「そう。受精卵が付着した時、これが出ないと管腔上皮が剥がれず受精卵が着床できないで、不妊症の原因になるらしい」と千葉。
「って事は、受精卵の増殖も、そういうストレスに対応して体を作り変えるみたいな生体機能で動いている部分って、あるんでしょうかね?」と村上は言った。。
生体子宮で着床して成長を続ける受精卵の観察が続く。
受精卵が子宮内膜間層の中で胎盤の形成を始める。
顕微鏡カメラのモニターを見ながら村上が「受精卵から突起が延びてますね?」
芦沼が「その中で、母胎から栄養と酸素を取り込む血管が形成される訳ですよね」
「正確に言うと、胎児の血管が収まる絨毛だね。栄養膜細胞の絨毛は臍の緒周辺を残して退化して、栄養膜細胞は胎児を包む羊膜になる。残って栄養吸収機能を形成する部分が胎盤で、母胎の血管は繊毛内部に繋がって、その内側の絨毛間隙に酸素と養分を送る。これを受精卵から延びる血管が受け取る。問題は、どの段階で胎児の血管が機能を持つようになるか、だね」と千葉。
「まだ心臓とか循環系が出来てませんからね」と芦沼。
「人だと授精卵が成長した胚盤胞になって着床するまで1週間。その後1~2週間で腹部と背中が決まり、そして神経系の元になる神経管が作られるのと並行して、心臓と血管が形成され、赤血球が作られて循環系として機能するんだ」と千葉。
「それまで、胎児の細胞にどう酸素と栄養を供給するかが問題なんですよね?」と芦沼。
「外国の研究だと、胎児を浸した溶液を加圧して強制的に酸素を送って生存を伸ばした、ってのもあるね」と千葉。
「受精卵側の血管が出来ると、子宮と酸素や栄養をやり取りする訳ですよね?」と村上。
「そうなるまでをどうやって生かすかが、最大の難関だろうと思うよ」と千葉。
「それで、受精卵が成長する中で、その外の子宮内膜間質を形成して毛細血管の間を埋めているのが間質細胞がですね?」と村上。
「子宮内膜間質は緩い間質細胞の集まりで、子宮内膜内の毛細血管のクッションみたいなものだからね」と千葉。
「いろんな栄養や生理物質の供給源でもあるのかな?」と村上。
「そういう機能の解明は必要だと思う」と千葉。
「着床用の人工子宮って事は、この細胞の代わりをどうやって作るかって事になりますよね。単純にゲル物質の塊という訳にはいかないのかな?」と村上。
「どうだろうね。着床だけなら。初期胎盤の基盤になるバイオチップ型人口子宮なら、生体子宮の間質細胞を移植するというのも、とりあえずの手としては、ありだろうね」と千葉。
理学部の生化学実験室での実験観察に加わる千葉。
人工子宮内の兎の胎児を観察しながら、千葉は言った。
「ホルモンバランスの改善は、随分胎児の生存を伸ばしたと思うよ」と千葉。
「他にも胎児の成長に必要な生理物質ってあるでしょうか」と村上。
千葉は「あるだろうね」と一言。
「それが子宮や胎盤から供給されているという事も?」と村上。
「あると思う。人工子宮では生体子宮から供給される生理物質が欠けるし、人工胎盤を使えば胎盤自体から供給される生理物質が欠ける。その物質を解明して人工的に補給する事が出来れば、先が見えてくるんじゃないかな」と千葉。
そんな会話を聞いていた芦沼は、隙を見て、そっと千葉に耳打ち。
「千葉さん、後でエッチしません?」
だが千葉は「芦沼さんの噂は聞いてるよ。魅力的な話だが、俺には恋人が居るからね」
「恋人って人間ですよね?」と芦沼。
千葉は「そ・・・そりゃそうだよ。恋人が兎とか普通じゃないよね。あは、あははははは」
村上には、千葉が何やら焦っているように見えた。
千葉は話の矛先を転じようと試みて、言った。
「芦沼さんのそういうのって、村上君とは・・・」
すると芦沼が「いっぱいしてるわよ。村上君の事も大好きだから。私の夢を本気で叶えようとしてくれている人だもの」
「芦沼さん、それは違うよ。人工子宮は"私達"の夢だ。母胎の負担抜きで子を作るのは、人類みんなの夢さ」と村上。
「どこかで聞いたような台詞だね」と千葉は言って、笑った。
実験を終え、機器制御を自動監視モードに切り替える。中条が廊下の窓の向こうで手を振っている。
実験室を出て、しばらく廊下で立ち話。千葉は農学部に戻る。
中条が芦沼に「何を話してたの?」
「人工子宮は人類みんなの夢なんだってさ。けど本当は、中条さんが村上君との子供を楽に作れるように、じゃないのかな?」と芦沼。
中条は「私、自分のお腹で赤ちゃん、産むよ。完成まで待っていられないから」
芦沼は言った。
「そうよね。中条さん、知ってる? 女性の体でオキシトシンが一番多く出るのは出産の時なの。だから痛みに耐えられるし、その子を愛しいと思えるの。私自身はもう味わえない幸せなのよね」
「芦沼さんは不妊手術を受ける時、その事を・・・」と中条。
「知っていたわよ。けど、もっと大事な事があったから。それに、自分のお腹からじゃなくても十分に子供を愛しいと思える事は知っているから、小学生の時、弟でね」と芦沼。
そんな話を聞いて中条は眼を丸くした。そして言った。
「そうだったの。その子は今・・・」
「中学生になってるわよ」と芦沼。
「大変じゃなかったですか?」と中条。
「大変だったわよ。痛がってるのを父も私も見てる事しか・・・」と芦沼。
「やっぱり痛いですよね? 芦沼さん、その頃から早熟だったんだ。だからこんなに大人なのよね」と中条。
「尊敬した?」と芦沼。
中条は「尊敬しました」
「これから三人でエッチしない?」と唐突に芦沼が言った。
「いいよ」と中条。
「村上君もいいよね?」と芦沼。
「里子ちゃんがいいなら」と村上。
「さっきすごく尊敬できる人を誘ったけど、振られちゃった」と芦沼は笑って言う。
「それ、千葉さんの事?」と村上。
芦沼は「そうよ」と一言。
階段の最上階の踊り場で、三人で交わる。
行為が終わると、中条は芦沼を見て、言った。
「芦沼さんの体、こんなに綺麗なのに、子供を一人産んでるんだよね?」
「へ?・・・」と芦沼唖然。
「小学生って初潮が来たばかりでまだ未熟なのに」と中条。
「へ?・・・」と芦沼。
そんな中条を見て、村上が言った。
「里子ちゃん、もしかして、さっきの話、芦沼さんが弟の子供を孕んだって思ってる?」
「違うの?」と中条。
芦沼は慌てて「違うから。母が弟を産むのに立ち会ったって話よ」
中条は「そうなの?」
「その時、母が産んだ赤ん坊が弟で、それを愛しく感じたの」と芦沼。
「自分のお腹からじゃなくても・・・って言ってたでしょ?」と、村上は言って、笑った。
中条は焦り顔で「ごめんなさい」と言った。
文芸部で千葉の話題が出た。
「畜産部門の院生の千葉さんですか?」と渋谷が確認する。
「そうだけど、どんな人か知ってる?」と中条。
「有名ですよ。将来は久米教授の後継じゃないかって」と真鍋。
「あの人の彼女って知ってる?」と村上。
真鍋が言った。
「千葉さんはМTKの元部長だそうです。嫁は羊のエリザベスとか」




