第177話 真鍋君の貞操
村上の影響で生化学研究室に出入りするようになった真鍋が芦沼の誘いを断った件で、周囲の学生が噂する。
「芦沼さんの誘いを断る童貞がいるなんて」と・・・。
そんな話が渋谷の耳に入る。
生化学研究室に来た渋谷に、一人の学生がそっと訊ねた。
「渋谷さんって、真鍋の彼女?」
「友達です。私、他に彼氏いますから。ところで、芦沼さんってどんな人なんですか?」と渋谷。
「すごく研究熱心で、自分の子供は人工子宮で作るんだ、って言って不妊手術受けたんだよ。それで妊娠の心配が無いって事になったら、開放的になっちゃって、周囲の男性を片っ端から誘ってるんだが、あの人の誘いを断る童貞なんて初めて見たよ」と学生は言った。
渋谷は思った。
(真鍋君って、ただやりたいだけの人じゃなかったんだ)
この一件で、渋谷の真鍋を見る目がかなり変わった。
渋谷と真鍋が農学部で一緒に行動する時間が増え、畜産部門で一緒に動物の世話をする事も多くなった。
山羊の世話をする真鍋を眺めながら渋谷は言った。
「真鍋君の実家にも山羊って居るの?」
「居るよ」と真鍋が応える。
「たくさん動物が居るんだよね?」と渋谷。
「見に来る?」と真鍋。
渋谷は興味津々な顔で「行きたい」と・・・。
真鍋は思った。
(俺の家に女子が来るなんて初めてだな)
だが、同時に彼は佐竹の実家の話を思い出した。
(うちの親も渋谷さん見たら勘違いしそうだな。そうならないために、どうしたら・・・)
そして真鍋は「中川も一緒に呼んだらどうかな?」と提案した。
週末、渋谷と中川が真鍋の実家を訪れた。二人を両親に紹介する。
飼育場に居る多くの乳牛、豚、鶏。
堆肥を発酵させる施設。牧草の貯蔵設備。そして肉や乳製品の加工設備。
そうした家畜の中に数匹の山羊が居る。
真鍋は「試験的に飼ってるんだよ。山中を放し飼いにすると、斜面を自由に登り降りして下草を食べるのさ」と説明する。
中川が「山の多い日本に向いてる家畜ですね?」
「ただ、下手をすると木の皮まで食べて、山全体を枯らせちゃうんだよね」と真鍋は頭を掻いた。
渋谷は「畜産製品は何になるの?」
「乳は美味しいよ。けど変質しやすいんで、絞ったらすぐ加工に回すんだよ。ヤギの乳製品は評判いいよ」と真鍋。
真鍋は話題を変える。
「ところで中川も入試は一般推薦で?」
「そうですね。クラスの奴らは指定校推薦が多いから、みんな気楽で、その分、焦るんですよね」と中川。
真鍋が「確か、俺が試験に使った問題集とか、まだあったと思うが」
「私たちは理系でしょ? 経済学部は文系よ」と渋谷が言った。
真鍋が「そうだったね。鈴木は経済学部だから、あいつに相談したらどうかな。それと、根を詰め過ぎるのも良くないと思うぞ、息抜き、出来てる?」
渋谷が「今度、三人で遊びに行こうよ」
そんな息子と友達のやり取りを見る真鍋の両親。二人が帰った後の夕食で、父親は息子に訊ねた。
「渋谷さんって孝則の彼女か?」
「違うよ。渋谷さんの彼氏は中川だから」と、やっぱり来たか・・・という表情で答える真鍋。
「ライバルなのか?」と真鍋母。
「だから違うってば」と真鍋。
「なあ孝則、自動車欲しいか? 通学も便利になるし、渋谷さんを誘って遊びにも行けるぞ」と父親が言った。
真鍋は「自動車かぁ」と呟く。
真鍋は四人で遊ぶ村上達の事を思い出した。
(そういえば先輩達、秋葉さんの車で通学してるんだよな)と彼は心の中で呟く。
その後、渋谷と真鍋は二人で中川の受験の相談に乗り、中川はデートで渋谷の機嫌を損ねたと感じると、真鍋に相談した。
三人は真鍋の新車で遊びに行き、宝野温泉に行って三人で水着を着て温泉に浸かった。
そして文芸部で真鍋は村上から芦沼の事を聞いた。
「理学部の芦沼さんって、秋葉さんに匹敵するキャラですよね?」と真鍋。
「確かにあの人も強烈だな」と村上は笑う。
「俺、この間、凄い冗談言われました。エッチしない? とか」と真鍋。
真鍋のこの話を聞いて、村上、唖然。
村上は真剣な表情で「それ、冗談じゃないと思うぞ」
村上が芦沼について語る。不妊手術の事、そして周囲の男子を気軽に誘う事。
「もしかして村上さんも?」と真鍋。
「まあな」と頭を掻いて答える。
「つまり芦沼さんって、ヤリマ・・・」
真鍋が言いかけたその言葉に対して、村上の怒号が飛んだ。
「おい真鍋!」
「はい」と、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔の真鍋。
村上は言った。
「その言葉、理学部で口にすると、ぶっ飛ばされるぞ。確かに芦沼さんは簡単に男を誘うけど、研究熱心でみんなから敬意を持たれてるんだからな」
真鍋は焦り顔で「気を付けます」と言った。
真鍋は芦沼が自分を誘った時の事を思い出す。そして思った。
(あれは冗談じゃなかったのか。童貞卒業するチャンスだったんじゃないか。俺のばかぁ!)
真鍋の後悔は日毎に募った。
(やっぱり童貞を卒業したい。けど、一度断った手前、格好がつかないよな)と真鍋は自問自答。
生化学研究室で数人の男子学生と一緒に楽しそうに会話する芦沼を見る真鍋。
(改めて見ると、可愛い人だなぁ。一時の恥が何だ! みんな、こうやって大人になるんじゃないか)
真鍋は覚悟を決めた。研究室を出ようとする芦沼に声をかける。
「あの、芦沼先輩」
「あら、真鍋君」と芦沼。
「ちょっとお願いが・・・」と真鍋。
芦沼は「何かしら?」
真鍋は「ここじゃ、ちょっと」
人気の無い廊下で話を切り出す真鍋。
「この前、誘って頂いた件なんですが」
「あれね? 気にしないでいいのよ」と芦沼は笑顔で言った。
「あの・・・」
芦沼は目をうるうるさせて「渋谷さんと、うまく行ってる?」
「へ?」と真鍋唖然。
「あの子の事、好きなのよね? だから操を立てたのよね?」と芦沼。
真鍋は慌てて否定しようと「けど、渋谷さんには彼氏が」
「そんなの気にしちゃ駄目よ」と芦沼は笑顔できっぱり・・・。
「・・・」
芦沼は、更に目をうるうるさせて「真鍋君みたいなタイプ、居なかったのよね。好きな子に童貞捧げるんだ・・・って。だから私、ちょっと感動しちゃった」
真鍋はそんな芦沼の言葉に応え、精一杯の見栄を張って、言った。
「ありがとうございます。やっぱりこういうのって、愛があってこそですよね」
「頑張ってね、応援してるから」と芦沼。
「頑張ります」と真鍋。
芦沼の笑顔と励ましの言葉に涙を滲ませ、真鍋は心の中で呟いた。
(俺のばかぁ!)




