第176話 どうぶつの森の真鍋君
農学部では二年生になって選択するコースの他、様々な実習授業のための設備や実習スケジュールを管理する組織として「部門」が儲けられている。畜産・稲作・果樹園芸・野菜園芸・花木園芸といった各部門には、それぞれ担当する技術員が居て、学生の実習を指導する。
それとともに、彼らもいずれかのコースに属する研究室を持って、その分野の技術の開発に取り組んでいた。
学生たちはそれぞれが学びたい分野の部門に出入りする。
こうした体制になったのは、遺伝子工学や土壌学など、各農業分野を横断する研究が重要と見なされたためだ。
真鍋は畜産部門に出入りして酪農を学んだ。
ここでは実習用・試験用の様々な家畜が飼育され、また実験動物の飼育繁殖も請け負っている。
生化学研から実験動物を調達に来た村上や、行動実験用のマウスを貰いに来た中条とも、よく鉢合わせする。
その日、渋谷が野菜園芸部門で使う堆肥を貰いに来ていた。
「あの、野菜園芸部門ですが、堆肥を貰いに来ました」と渋谷。
「お疲れさん。持って行くのは四号牛舎ので、よろしくね」と畜産部門の技術員。
運搬車で牛舎に向かう渋谷。途中にある繁殖棟で、真鍋と一緒に居る村上と中条を見かけた。
(子牛を見に来たのかな?)と呟く渋谷。
気になった渋谷は運搬車を置いて、繁殖棟に入る。中条が子牛を撫でているのが見えた。
「先輩たちも子牛を見に来たんですか?」と渋谷が声をかけた。
「子牛、可愛いよね」と中条。
「動物実験のマウスを貰いに来たついでにね、話を聞きに来たんだ」と村上。
畜産技術員が渋谷を見て言った。
「園芸部門の渋谷さんのサークルの先輩だったね? それで村上君、種付けの話だったね?」
技術員は牛の種付けの生々しい話を続ける。
それを聞きながら、渋谷は笑いながら言った。
「村上先輩も下ネタを仕入れに来たんですか?」
村上も笑いながら答える。
「そう見えちゃう? 実は生化学研で人工子宮の研究をやっていてね、受精卵を子宮に着床させる手掛かりは無いかと思ったんだが」
自分の残念な勘違いに、渋谷はバツの悪い顔で言った。
「そうだったんですか。私、すごく不謹慎な事言っちゃったかな?」
「そう思わせたのは、下ネタばっかり言ってる俺が悪いと思うよ」と真鍋がフォローする。
「それで渋谷さんが染まっちゃった訳だね?」と村上が笑う。
「それ、フォローになってないと思う」と中条も笑う。
村上は技術員に訊ねた。
「家畜の受精卵って生きてる子宮だとスムーズに着床するんですか?」
「不妊症って事もあるからね」と技術員。
「ところで着床って何ですか?」と渋谷は専門用語について訊ねる。
村上がそれに答えて「授精した卵子が成長を続けるために、子宮内部にある粘膜層、つまり子宮内膜の表面に取り付いて胎盤を形成するのさ。人工子宮で母胎を使わず子供を作るとなると、欠かせない通過点の一つの筈なんだが、研究例が少ないんだよね」
「今までの技術って、最初から授精卵を人工子宮に着床させる訳じゃないからね。途中の胎児を人工子宮に移す形でやるのが殆どだから。人工子宮で家畜を産めたら、家畜の増殖が画期的に効率化するんだけどね。以前、生化学研究室と人工子宮の共同研究をやった事もあるよ」と技術員が説明。
そんな話をしながら、何やら表が騒がしい事に彼らは気付いた。
技術員が「穀物部門の運搬車が渋滞してるみたいだな」
「いけない。運搬車、置きっぱなしだった」と渋谷は慌てて繁殖棟を出た。
その後、村上は生化学研究室で湯山教授に質問した。
湯山は頭を掻きながら「着床かぁ。人工子宮であれをやるのはいろいろハードルが高いんだよなぁ」
「これまでは成長途中の胎児を人工子宮に移す実験が主流だったんですよね?」と村上。
「妊娠中の母胎の障害で育てられなくなった胎児を移植する受け入れ先を作るのが目的だったからね。胎児の体から延びているへその緒に繋がる血管に酸素と栄養素を供給すれは良かった。最初から育てる本物の人工子宮となると、着床後の受精卵から子宮内膜の層の中に突起が延びていき、その突起の中に血管が形成される、その土台となる子宮内膜の機能を再現する必要がある」と湯山教授。
「生体が人工物と絡み合う訳ですね?」と村上。
難しそうな顔で湯山は「子宮内膜は間質細胞という緩い細胞の集合に子宮の母胎側から延びた血管が栄養を供給する。その中で受精卵は胎児と胎盤、そして胎児を包む羊膜に分かれて成長し、大きくなって子宮全体に広がり、子宮とともに大きくなる。それは子宮内膜の間質細胞と子宮本体の細胞の増殖によるんだ」と説明を続ける。
「受精すると、そのまま着床する訳じゃないんですよね?」と村上。
「着床は受精卵が分裂して細胞の集合体となった桑実胚から、さらに胚盤胞に成長してからだから。細胞が機能分化して、胎盤の元になる外側の栄養膜細胞と内側の内部細胞塊に分れた後だね。この内部細胞塊が成長して胎児になるんだが、栄養膜細胞は体液を抱えたボールみたいになって、その中にある内部細胞塊が成長する栄養を供給するための保育器として成長すめため、子宮内膜間質に潜り込むのが着床だ。その後、外側の栄養膜細胞から延びた突起が子宮内膜間質と絡み合って形成されるのが胎盤だな」と湯山。
「その段階で内部細胞塊だけ切り取って、他のやり方で栄養素を・・・って訳にはいかないんですよね?」と村上。
湯山は「難しいだろうね。それだと多機能細胞って事になるからね。いわゆるES細胞ってやつで、その段階だといろんな臓器になれるけど、人間はなれない。人間に成長できるのは、そうなる前の全能細胞、つまり受精卵だけだからな」
「胎児としてある程度成長した段階なら、胎児の部分を他に移植してへその緒から栄養素を送って誕生まで、って出来るんですよね?」と村上。
「そう。だから、移植前の着床から胎盤形成段階までの人工子宮と、移植後の人工子宮の二種類があれば、って事になるかな? 着床用は子宮の細胞レベルでの構造と機能を把握して再現する事が必要だ」と湯山は説明を続けた。
村上は「そういう実験って出来るんですか?」
「今の、うちの設備では無理。観察でも作成でも操作でも、それに必要な生理物質の検出にも、無茶苦茶精密な機器が必要だろうね。ただ、着床なら子宮内膜の構造を小さなチップ上に実現すればいい。そういうチップ型人口子宮の実験は他では始まっているよ。超精密な三次元プリンターで子宮や胎盤の構造体を作る実験もある。どんなものが必要かを調べてみるのもいいかもね。それと、ここは生物学部じゃないじゃないから色々と制約はあるが、動物の子宮なら農学部の増殖技術研究室が詳しい。話を通してあげるから、行って相談してみるといいよ」と湯山。
村上と中条が農学部棟に行き、増殖技術研究室に入ると、真鍋と渋谷が居た。
「お前ら、ここに出入りしてるのか?」と村上が聞く。
真鍋が「先輩から人工子宮の話を聞いて興味を持ちまして、農学部で共同研究するならここかな? って思ったんです」と答えた。
久米教授が村上を見て、笑って声をかけた。
「君が村上君だね? 湯山教授から話は聞いているよ」
「家畜繁殖用の人工子宮の共同研究もやったんですよね?」と村上が訊ねる。
「あれは大変だったなぁ。うちは人工授精をやるから、家畜の子宮は大きな研究対象なんだが、人工子宮となると、それを一から作ろうって話だからね。子宮ってのはある意味ブラックボックスでね」
そう言って久米教授は奥の書架に居た大学院生の千葉を呼んだ。
「生化学研が人工子宮の研究材料として新たに兎を使いたいそうなんだが」と久米が千葉に言った。
「それは興味深いですね」と千葉が興味津々な表情を見せた。
そして村上に千葉を紹介する。
「彼は兎の胎児の成長を研究課題にしているんだよ。色々と相談に乗って貰うといい」
「千葉先輩、よろしくお願いします」と村上。
「兎の飼育施設、見るかい?」と千葉。
大き目のアクリルケースの中に数匹の兎が餌を食べている。
それを見て、目を輝かせる渋谷と中条。
「可愛い」と二人の女子。
「兎の実験はいつ始めるんだい?」と千葉が訊ねる。
「早ければ今月中には・・・って言ってました」と村上。
「それじゃ、これから挨拶に行こうか」と千葉。
千葉を連れて理学部棟に行き、生化学研究室へ。千葉が湯山教授に挨拶。
湯山は上機嫌で言った。
「マウスは子宮のサイズが小さくて限界に来ていたんだ。兎を使ってその欠点をカバーしたい。協力してくれるかね?」
「よろしくお願いします」と千葉。
村上と千葉は、それぞれの研究室を行き来して必要な情報を仕入れた。
また、双方の実験に参加した。
増殖技術研に出入りするようになった真鍋と、そして渋谷も生化学研究室にしばしば出入りした。
そんな真鍋に芦沼が声をかけた。
「真鍋君って童貞?」
「そうですけど」と怪訝な表情の真鍋。
芦沼は「エッチしない?」と真鍋を誘う。
「遠慮します」と真鍋は答えた。
あっけらかんと自分を誘う芦沼を見て、真鍋は思った。
(秋葉さん以上に強烈な冗談を言う人だな)
人工子宮の可能性って事で、ネットで色々調べて「こういう事なんだろうな」って事で書きました。やはり門外漢には敷居が高いです。実際の医学とは違う部分もあるでしょうが、そこらへんはフィクションって事で・・・。




