第162話 春合宿はチョコの味
春休みに突入したが、研究室もサークルも通常運転だ。
そして恋愛イベントとして日程に乗るのがバレンタインデーだ。
戸田はウキウキ気分で、この話題が止まらない。
「秋葉さんは誰にあげるの? 芝田君と村上君はいいとして、手を広げ過ぎると男は調子に乗るわよ。経済学部の取り巻きにあげるのはいいけど、義理だって解るようにしなきゃ。中条さんは村上君と芝田君にあげるのはいいけど、桜木君にあげたいんなら、私に一言・・・って中条さん、どこに行ったのよ」
「佐藤と佐竹にチョコ渡しに行ってるよ」と芝田が言った。
「私もさっき経済学部の子たちに渡してきた。こんなにお返し貰ったわよ」と秋葉が言った。
「友チョコ? 経済学部ってそんなに女子居たっけ?」と戸田。
「周りに居る男子達よ。時島君とか寺田君とか栃尾君とか、みんな喜んでたわよ」と秋葉。
「それで逆チョコ?」と戸田。
中条が戻ってきて、言った。
「渡してきたよ。それでお返し貰った。これが佐藤君でこれが佐竹君、これが桜木君」
「何でそんなに逆チョコが盛んなのよ」と戸田が不審顔。
「上坂では男女双方向って事になってる・・・って、前もって佐藤と佐竹に教えておいたんだよ」と言って村上が笑う。
「元々バレンタインデーってそうだよ」と住田は紙袋一杯のチョコを持ってウキウキ気分で部室に入ってきた。
それを見て斎藤は「それ全部私に・・・って訳じゃないわよね?」
「義理チョコだから気にしないでいいよ」と楽しそうに言う住田。
「住田君が義理チョコだと言って本気にする女子は居ないと思うわよ」と斎藤は不審顔。
住田は「それだけ期待されてるんだよなぁ。俺って罪なオ・ト・コ」
斎藤が住田の後頭部をハリセンで思い切り叩くと、村上に聞いた。
「それで村上君は中条さんにどんなチョコをあげるの?」
「いろいろやり取りするのも面倒なんで、内輪でパーティって事にしようかと。高校の時もやってたんで」と村上。
そんな中を森沢が来て、言った。
「やってるな」
斎藤は「森沢先生、部活指導ですか? 講義はもう終わってるんで、あてにしてなかったんですが」
「春合宿の計画とか、立ててないよな?」と森沢。
「まあ、春休みは長いですからね。去年は先輩達の卒論騒ぎで有耶無耶になっちゃったし」と斎藤。
すると森沢は「都合が悪くなければ、明日にでもどうだ? 温泉旅館に泊まって」
この森沢のいきなりな合宿話に部員たちは戸惑った。
「明日はバレンタインデーですから、俺達内輪でパーティ企画してたんだけど」と村上が言う。
森沢も戸惑ったが、計画を押す事を止めない。
「明日ってそんな日だっけ? まあ、そんなのは合宿先でやれるだろ? それに、学生の本分は勉強だ。それと、俺の分のチョコはいらないから」と森沢。
「まあ、外せない用事は無いですけど、急ですね?」と住田も戸惑う。
「明日は八時半にここに集合な。住田は車持ってるだろ? 半分輸送してくれ。行き先は俺が先導する。じゃ、そういう事で・・・」
そう言って森沢は慌ただしく部室を後にする。
「あの、宿泊費とかは・・・」と斎藤が叫んで森沢の後を追った。
「何なんだろう?」と全員、頭を傾げる。
「前日に急に言い出して、しかもバレンタインデーにぶつけておいて、自分の分はいらないとか」と村上。
芝田が「言葉の裏を読めって事なんじゃね?」と勘繰りモード作動。
「森沢先生も所詮はオッサンって事かしらね?」と戸田が笑う。
「人間らしくていいじゃん。気合入れて用意してあげようよ」と秋葉が笑った。
「って事は、明日は俺達、学校に居ないって事だよな?」と彼らは気付く。
村上は「実験の当番どうなってたっけ?」
戸田は「桜木君にチョコ、渡してこなきゃ」
芝田は「泉野さんに期待しろって言われてたんだ。黙ってすっぽかすと、あの人、怒るぞ」
翌日の用事をその日のうちに処理しようと、各自が学校に散った。
2月14日朝、森沢と住田の車に分乗して大学を出発。
昼前に旅館に着いて荷物を置き、雪の温泉街を散策。
食堂に入って昼食を食べる。森沢は学生達に奢った。向こうにはスキー場が見える。
旅館に戻ると、評論会の前にパーティを・・・と、各自持参したチョコを出す。
そして三人の一年女子が「先生にはこれを」と、大きなハート形のチョコを差し出す。
だが、森沢は困惑した表情で「いや、いらないって言っただろ?」
そんな森沢を見て、斎藤は笑いながら一年生達に言った。
「みんなは知らないだろうけど、先生、チョコは苦手なのよ。胃にもたれるからって」
「いらないって、言葉の裏を読めって事じゃ無かったんですか?」と秋葉が困惑顔。
「急にこの時期目掛けて合宿とか」と戸田も困惑顔。
森沢は溜息をついて言った。
「お前等、俺をそんな目で見てたのかよ。俺は学生との恋愛なんぞに興味は無い。女の価値は熟女になって発揮されるものだ。二十歳そこそこのガキ臭い小娘なんぞ、誰が相手にするかよ。大体若い女ってすぐ調子に乗って、被害者意識が強いくせに困っている人には容赦が無い・・・」
それを聞くと中条はしゅんとして「ごめんなさい」
森沢は慌てて「あ、いや・・・、お前等を責めてる訳じゃなくてだな」とフォローを試みるが、村上は追及を始めた。
「いや、誤解とはいえ、気を遣ってくれた女子に、あんまりだと思います」
秋葉は「先生、そんなふうに私達を見てたんですか?」
桜木は「言葉は凶器って知ってます?」
森沢はしゅんとなって「いや、これは言葉のあやというか・・・、すまん、言い過ぎた」
その時、戸田がシュークリームを差し出して言った。
「チョコが苦手でも、これなら食べられますよね?」
「これは?」と森沢。
「桜木君から貰ったんです。私もチョコは苦手なので」と戸田。
「貰っていいのかい?」と森沢。
「だってパーティですから」と戸田。
村上が菓子箱を出して「これ、美味しいですよ」
「ショコラ大福じゃないか。よく買えたな?」と森沢。
「高校の友達が教えてくれまして」と村上。
秋葉も語り出す。
「高校の先輩が言ってたんです。何故チョコなのかって・・・」
「イギリスが植民地で見つけたカカオの需要を広めるためって言われてるが、そういう話じゃないんだよね?」と森沢。
「甘い物を食べると幸せを感じるから、それを分け合うんだそうです」と秋葉。
森沢も語り出した。
「なるほどね、実は私はバレンタインデーに良い印象は持っていなかったんだ。本来は男女が互いに告白し合うものなのに、何故か日本では女性が一方的に贈るものになってて、男性は期待して裏切られて泣くだけみたいな残念なイベントとして扱う作家が多い」
「だから先生の書く小説にバレンタインデーって出てこないんですね?」と桜木が言った。
「俺達、高校の時からチョコは双方向で、って事になってましてね」と村上が言った。
「だからパーティか」と森沢。
チョコを食べながら論評会を始める。
急に決まった合宿なので作品を用意している訳では無いので、各自がこれからの構想を発表し、意見を言い合う。
芝田がお気に入りのギャグアニメを褒めちぎって、村上が駄目出し。
中条が亜人探偵団の続編のあらすじを話す。
戸田は恋愛小説の短編について話す。
桜木が語ったマムルークの続きに登場する新ヒロインに、男子達が勝手な注文をつける。
秋葉はウーマニストの、男性の異性愛は女性に対する軽蔑・・・という主張を論破してみせた。
村上は外国どうしの歴史紛争について語った。
夕食が出る。
「やっぱり旅館の食事は豪華だよね」と学生たちは口々に言う。
森沢は料理を運んでいる旅館の人に、何気なく「この蟹は?」
「申し訳ありません。買いそびれてしまいまして、缶詰のものを」と旅館の人。
すると森沢は何故か「か・・・缶・詰・・・」と表情を曇らせた。
「お口に合いませんでしたでしょうか?」と旅館の人は心配顔で・・・。
森沢は「いや、十分に美味い。何でもないんだ」
そんな森沢を斎藤は不審な目で見る。
食事が終わって全員で浴室に向かう。その行きすがら、歩きながら斎藤は森沢に声をかけた。
「先生、もしかして・・・」
「言わないでくれ斎藤君」と森沢。
斎藤は「それ、単なる先送りですよ」
男湯で浴槽につかりながら「やっぱり温泉は最高だ」と気分を盛り上げる森沢。
「先生、何だか無理してません?」と住田は心配そうに言った。
仕切り隔てた女湯にもそうした会話が聞こえる。
「やっぱり先生、無理してるみたい」と心配そうに戸田が言う
「作家っていろいろあるのよ」と斎藤が笑う。
「そういう問題、桜木君にも出て来るんですよね?」と戸田。
「だから、ちゃんと支えてあげるんでしょ?」と斎藤。
戸田は「私に支えさせてくれるのかな?」
「大丈夫だよ。桜木君、優しいもん」と中条が笑顔で言った。
「いや、私が優しくしてあげたいって話なんだけどね」と戸田。
風呂から上がって一息つくと、論評会を再開。
「斎藤君は卒論のテーマをそろそろ考える時期だね。何か構想はあるかい?」と森沢。
「ウーマニストがアメリカのアクション系作品に対して女性嫌悪だと批判していますよね? あれに反論してみたいと思います」と斎藤。
「それはいい着想だね。何しろ我田引水を絵にかいたような奴等だから、突っ込み所は満載だ。楽な仕事になると思うよ」と森沢。
「それ、褒めてます?」と斎藤が笑った。
「まあ、それはそれとして、例えばどんな・・・」と森沢。
斎藤は語った。
「女性がトラブルを持ち込んで男性主人公がそれを解決しますよね? それを女性を厄介者扱いしているとか言ってる。けどそれは、男性は女性を守るべき・・・という価値観の問題で、だからヒーローな訳ですよね? 厄介者とかいう話ではない」
「なるほどね」と森沢。
「それと、問題を解決すると女性の元から去る。それを、男性社会に戻って女性は見捨てられるんだ、そういう存在として女性を扱っていると言う。けどそれは本当は、感謝されて愛される事をヒーローは遠慮すべきという、禁欲主義の問題でしょう。女性嫌悪とか言うけど、そもそも、その嫌悪とか言うものの中身を歪めて捉えている。男性に対して献身と禁欲を求めるのは元々女性側自身の都合ですよね?」と斎藤。
「確かに、そうだね。こういう創作物は娯楽作品として、作者がそう感じて読者に提供しようとする"面白さ"がそもそも何なのか、というのが本質だと思う。ウーマニズムから見てこう解釈する、と言われても、それは彼女達の勝手な思い込みなんだよね」と森沢は結論付ける。
「そもそもヒーローのかっこよさって価値観自体、そういう人達に助けを期待する女性の都合が基本ですからね。だから女性を助けるとか禁欲って話になる訳で、それを曲げて解釈されても、ただの臍曲がりでしか無いですよ」と村上も言った。
「それじゃ、住田君はどうだい? 三年になると、ゼミで研究して発表するって事が出て来るが」と森沢。
「ヘーゲル弁証法の批判を考えてみました」と住田。
「守破離って奴だね。対論する一方の主張が"守"で反対側の主張が"破"、そして討論の結果として明かされる真実が"離"だが、守も破も離とはならず、別の結論が真実となると」と森沢。
「例えば、国どうしの領土争いで、一方が明らかに相手の島を奪い、国際法でも認めて、正否が明白でも、その島を返せという"守"が結論にはならない・・・って、弁証法を理由に主張する人が居るんですよ。おかしいですよね?」と住田。
「ただ、立場の違う人が自分の論理を主張し会う中で、相手の論理を応用して自分の論理を補強する、という事はありますよね。それで新しい結論を発見する、という場合は多々あるとは思いますけどね」と村上が口を挟んだ。それに対して住田は言った。
「それはあると思う。けど、それには条件があるね。双方が真面目に真実を目指しているか・・・という事だよ。現実の世の中で、本当に双方が真実を求めて行う議論がどれだけあるか。最初から我儘を通すつもりの奴や、真実を求めてるんだと自分で言っても、実は偏見で論理を拒絶している奴。そういう奴等が幅を利かせてる場で、真実としての"離"なんて出ようが無い。問題はヘーゲルがそういうのを踏まえているか? って事だよ」
「それは、あの発想がそもそもどこから出てきたのかという問題だろうね」と森沢が指摘。
「説明では、ナポレオン戦争みたいな歴史を引用してるんですよね。それが左翼思想の階級闘争の必然性原理の元だとも言う。けど弁証法って本来、議論によって真実を明かす方法論ですよね? 誰が闘争に勝つかではなく、論理による正当性を追及すべきものが、互いの立場が利益を奪い合う話に化けてる。討論と暴力的奪い合いを同列に扱っているんですよ」と住田。
「俺も現代社会の授業を聞いてておかしいと思いました」と村上。
「それでこいつ、先生に質問したら、先生も自分にも解らんって」と芝田。
「そういう変な話になった原因は何だと思う?」と森沢。
「汎神論・・・ですよね? つまり神とは世界や宇宙の総体で、その意思により世界は動くんだと。けど実際には、世界には自らの理性で考えるような論理性は無い。けれどもヘーゲルは宗教的思い込みで、彼が神と呼ぶ世界が歴史を動かす理性・・・なんてのを想定している」と住田。
それを聞いて、中条が発言した。
「もしかして先生が以前、世界が神が書いた作品世界みたいだって言ったのって・・・」
「実は、いろんな人が言ってる事なんだよ。その源流の一つがヘーゲルじゃないかと、俺は思ってる」と森沢。
夜が更けて、評論会は解散となった。
森沢は顧問用の部屋に引き上げ、しばらく学生達は男子部屋に敷かれた布団の上でわいわいやったが、やがて男子部屋に二人の先輩と桜木・戸田が残り、村上達四人は女子部屋に移って床についた。
翌日、朝食を食べ終わると森沢が言った。
「実は、お前等さえ良ければ、まだ何日か泊まれる用意はしてある。宿泊費は俺が持つが、どうだ?」
「先生、太っ腹」と学生達は喜んだ。
その時。
「そんな太っ腹な先生なら、今月分の原稿もきっちり頂けるんですよね?」
そう言いながら、部屋の入口にスーツを着た若い女性が腕組みで仁王立ちしているのを見て、森沢は真っ青になった。
「め・・・目黒君、何でここが解った?」と森沢。
「蛇の道は蛇というやつですよ」と女性。
「誰ですか?」と戸田が怪訝な声で聞く。
斎藤が笑って「編集の人が原稿の催促に来たのよ」と答えた。
「それじゃ、先生が急に合宿とか言い出したのって」と村上。
「原稿の催促から逃亡する口実よ」と斎藤。
容赦の無い言葉で森沢を責める編集者は言った。
「先生が原稿を出してくれない事で、私達がどれだけ迷惑したと思ってるんですか? 仕事なんですから、書けないなんて通用しませんからね!」
「あの人って・・・」と中条が斎藤に・・・。
「先生、被害者意識が強くて困った人には容赦なくて・・・って言ってたわよね? それ、あの人の事よ」と斎藤が解説した。
編集者が「さっさと手続き済ませて、行きますよ。抑えてますから。ホテルアンアンメイデン56号室」と言い渡す。
森沢は、なお「私は教育者として学生の世話をするという神聖な使命が・・・君等も何とか言ってくれ」と抵抗を試みる。
「先生、頑張って下さい」と斎藤。
「来月号、楽しみにしてますから」と戸田。
調子に乗ってドナドナを歌う芝田と住田。
編集者は学生達を促してチェックアウトの手続きを済ませる。
そして玄関先に止めた出版社の車に押し込められる時、森沢は悲痛な声で叫んだ。
「缶詰はもう嫌だぁ!」




