第130話 おどり場の戸田さん
その日、桜木が一時間目の講義室に入り、先に来ていた中条の隣の席に座って、その隣に居る佐藤達と雑談していると、戸田と早渡が講義室に入ってきた。
だが、何やら険悪な雰囲気。講義室の空気が緊張する。
「もういい。ついて来ないでよ」と戸田の苛立った声。
「ちょっと待てよ」と早渡が声を荒立てる。
「もう別れたんだから」と戸田。
「俺はそうは思ってない」
そう言って、戸田の手首を乱暴に掴む早渡。
戸田は「離してよ」
「お前が俺の話聞かないからだろ」と早渡。
「人を散々玩具にして、あんた、他に女いるじゃん」と戸田。
「それがどうしたよ」と早渡は怒鳴る
言い争いながら桜木の近くの席の所まで来た戸田は、桜木を縋るような目で見る
「何か文句、あるのかよ」と挑発的に桜木を睨む早渡
桜木は溜息をつくと、早渡に言った
「なあ早渡、お前等、戸田さんとやる事やってるんだよな?」
「だったら何だよ」と早渡。
「お前、こういうの知ってるか? やる事やると、男女の関係の主導権は女から男に移るんだそうだ。そして主導権が移るって事は、二人の関係性に対する責任も男に移る。つまり今、関係が悪くなったのはお前の責任って事になるが?」
「お前、関係無いだろ」と早渡。
「戸田さんは俺の友達だ」と桜木。
「だったら勝手にしろ」
早渡はそう言うと、足音を荒立てて去り、遠くの席に座った
「ごめんね、桜木君」と言って桜木の隣の席に座る戸田。
「いいさ」と笑う桜木の上着の裾を戸田が掴む。
戸田は「一緒に居てくれないかな? 何だか怖くて」
「早渡が?」と桜木。
「駄目かな?」と戸田は、縋るような目で桜木を見た。
その日、戸田は桜木の傍を離れなかった。
そして戸田は「今日、桜木君の所に行って、いい?」
「まさか早渡だって戸田さんの家まで来ないだろ?」と桜木。
「心細いの。男の人にあんなふうに怒鳴られたの、初めてだから」と戸田。
「とりあえず今日は帰れよ」
そう言って桜木は背を向けて歩いたが、戸田はついて来る。
(しょうがないな・・・)と桜木は思い、頭を掻くと「泊めるだけだぞ」
「うん。ありがとう、桜木君」と戸田。
その夜、布団の中の桜木の腕の中に全裸の戸田が居た。
幸せそうに寝息をたてる戸田の頭を撫でながら、桜木は困り顔で呟いた。
「何でこうなった?」
次の日、戸田は桜木と一緒に大学に行った。歩きながら戸田は言った。
「私達、恋人よね?」
「そうだな」と、桜木は釈然としない顔で答える。
桜木の隣で嬉しそうに寄り添って授業を受ける戸田。
中条は笑顔で戸田にささやいた。
「良かったね、戸田さん」
昼休み、戸田と桜木は佐藤たちと一緒に村上達と合流し、学食で昼食。離れた所に早渡も居る。
雑談中、佐藤がトイレに立つ。
「俺もトイレ」と桜木も席を立つ。
先にトイレから出た桜木は男子トイレの前で佐藤を待っていると、隣の女子トイレから聞き覚えのある話し声が聞こえた。
梅田と竹下の噂話だ。
「桜木君と戸田さんが付き合い始めたんだってね。あの桜木君が早渡君から彼女取っちゃうなんて、人は見かけによらないわね」と竹下の声。
「あんたまだ知らないの? 早渡君と戸田さんが喧嘩別れしたっていう、あれ、早渡君が戸田さんのために一芝居打ったのよ」
「桜木君とくっつけるために?」
「そうよ。知らないのは桜木君本人だけかと思ってたわよ」
桜木はしばし唖然とすると、荒々しくドアを開けて「その話、詳しく聞かせろ」と叫んだ。
女子トイレに悲鳴が響く。
足音を荒立てて学食に向かい、早渡の前に立って叫ぶ桜木。
「おいこら早渡、ちょっと来い」
学食の入口外で対峙する桜木と早渡。
「昨日のあれ、芝居だったのかよ?」と桜木。
「名演技だったろ?」と早渡は笑った。
桜木は「ああいう悪役はお前のキャラそのまんまだもんな」
「言ってろ」と早渡。
「で、どういうつもりだよ?」と、詰め寄る桜木に、早渡は溜息をつくと、苛立ちを吐き出すかのように、まくし立てた。
「それはこっちの台詞だ。作家のブランドが目当て? だから何だってんだ。アクセサリー彼氏は嫌だ? お前は贅沢過ぎなんだよ。恋愛ってのはなぁ、そういう女が欲しがるブランドになるために、男は頑張るんだよ」
「そんなのお前だけだ。男が頑張るのは自分自身のためだろうがよ」と桜木は声を荒立てる。
「それで女が惚れてくれた訳だよな? そしたらそれを投げ捨てる訳だ。俺らが頑張っても手に入らないものを持ってる奴が、それを粗末に扱うとか、そういうのが一番むかつくんだよ」と早渡も声を荒立てる。
「そんなのが恋愛とか、悲しくならないのかよ」と桜木。
早渡は「だって俺ら、そういう恋愛しか知らないだろ? そうじゃない恋愛って何だよ!」
その時二人は、学食の入口で涙目で立ち尽くす戸田に気付いた。その背後に心配そうに立つ中条と村上。
「ごめんなさい、桜木君」と戸田は涙声で言う。
「戸田さんは悪くないよ。好きな男が居る女を強引に口説いた。振られた弱みに付け込んで。悪いのは俺だ」
そう言って早渡は自分の席に戻ると、残ったライスを急いでかき込み、学食を去った。
桜木は村上に「俺も行くわ」と言って学食を出た。
ついて行こうとする戸田。桜木は振り向くと「ついて来るな!」と怒鳴った。
中条は、泣きだす戸田の肩に手を置くと、村上の上着の裾を引いて言った。
「真言君、どうしたらいいかな?」
「とりあえず、経緯を聞かせてよ」と村上。
戸田は芝田達の待つ席に戻って、早渡と仕組んだ芝居の顛末を話した。
村上は言った。
「とにかく二人で話す事だ」
中条は図書館で桜木を見つけた。考え事をする時、彼は大抵そこに居る。
「桜木君」
自分にそう呼び掛ける中条を見て、桜木は溜息をついて言った。
「中条さんって、いい人だね。戸田さんの件で説得しに来たんでしょ?」
「桜木君って、もしかして、私の事、好きなの?」と中条。
「迷惑だよね? 村上が居るんだものね」と桜木。
中条は「私も桜木君の事、好きだよ。それでね、前に真言君が言ったの。恋愛は理解と甘えだって。だから私の事、知って欲しいの。こっちに来て」
中条が桜木の手を引いて向かったのは、階段の最上階のおどり場の、屋上に出る扉の前だった。
曇りガラスの陽射しの中、中条は桜木に寄り添いながら話す。
「こういう所、どこの学校にもあるよね? 人が来ないから、私、高校の時、こんな場所で一人でお弁当食べてて、真言君たちと出会ったの。私、人と話せなかった。悪く解釈されて怒らせたり笑われたりするのが怖かったの。だけど真言君が、善意で解釈してくれる人も居るし、自分が他人の言葉を善意で解釈することも出来るって教えてくれて、それで話せるようになったの」
必死で想いを伝えようとする中条を、桜木は胸の痛みを押えながら見つめた。
そんな桜木の辛そうな表情を見ながら、中条も胸の痛みを押えつつ、言った。
「桜木君は戸田さんを善意で解釈は出来ない?」
「どう解釈すればいいのか、解らないよ」と桜木は呟く。
「それは本人が知ってると思う」
そう言って、中条は階段の下に声をかけた。戸田が階段を上がって来る。
「あの・・・桜木君」と戸田。
何を言っていいのか解らない・・・という表情で俯く戸田に、桜木は言った。
「戸田さんにとって、ポトマックじゃない俺って、冴えないモブなんだよね? 戸田さんが俺を、中条さんとお似合いだって言った、あの時は中条さんに失礼だって思った。俺はそんなふうに言われて仕方ない奴だって自覚してたから」
「私は桜木君の事、知らなかったの」と戸田が訴えるように言う。
「知らなかったって、つまり俺がポトマックだって知らなかったって事だよね?」
「そうじゃないの」と戸田は大きな声を上げ、その自分の声にビクリと反応する。
戸田は言った。
「そうじゃなくて、中条さんと仲良くなって、まるで小さい子供を可愛がるみたいにしてた桜木君、彼氏が居て自分のものにならないって解ってるのに。自分もあんなふうにされたいって、私、思ったの。自分がそんな事を望むなんて知らなかった。桜木君の事だけじゃなくて自分自身の事も知らなかったの」
「戸田さんにとってポトマックって何?」と桜木は問う。
「高校の頃、仲のいい男子が二人居たの。桜木君の小説も彼等が教えてくれて、更新がすごく楽しみだった。新しい話が出ると、その話ですごく盛り上がったよ。きっと私、主人公含めた四人の男性に守られるヒロインを自分と重ねていたんだと思う。けど、そのうち二人が私を取り合うようになって、私達、バラバラになっちゃったの」と戸田。
その時、中条が口を挟んで言った。
「有名作家の彼女になりたかった訳じゃなかったんだよね?」
戸田はそれを受けて、さらに話した。
「あれを書いた本人が目の前に居るって知った時、あの楽しかった時が戻って来たように感じたの。もちろん桜木君がメジャーになったら、それは嬉しいと思う。けどそれが嫌なら、デビューなんてしなくていいよ。桜木君が嫌な事は私も嫌だから」
次の講義が終わると、桜木は早渡の所に来て、言った。
「早渡、聞きたい事がある」
「何だよ」と早渡。
「お前が戸田さんと付き合ったのって、最初から、俺を戸田さんとくっつけるつもりだったか?」と桜木。
早渡は笑って言った。
「俺はボランティアで恋愛する趣味は無いぞ。当然、自分のものにするつもりだったさ。けど、彼女として抱いても、お前を想って気持ちよくなれない戸田さんじゃ、結局俺も気持ちよくないんだよな」
「なるほどな」と桜木。
そして早渡は言った。
「だからさ、お前とくっついて喜んでる戸田さん見て、すごく気持ちよかったぞ」
「それはボランティアじゃないのか?」と桜木。
早渡は「自分が気持ちよくなるためにやる事を、ボランティアとは言わないさ。それに次の彼女にする女の目星もついてるしな。で、聞きたいのはそれだけか?」
「戸田さんの好みを教えろ」と桜木。
「いいぞ。戸田さんの事は何でも知ってるぞ。アソコのホクロの位置までな」と早渡。
桜木は「そういうのは要らないから」
早渡は言う。
「飲み物はコーヒーより紅茶、砂糖はダイエットしてるから二個まで、お菓子はチョコ系は胃にもたれるらしいからフルーツ系がお勧め、アクセサリーの色は水色が好み・・・」
その他あれこれ延々と講釈を垂れる早渡。桜木は次第にうんざりし始める。
「あーもういい。よくまあそれだけ憶えていられるな」と桜木。
「恋愛ってのはどれだけ相手を理解するかだぞ。それとな、何より戸田さんが好きなものが一つある」と早渡。
桜木は「何だよ」
早渡は言った。
「それはな、お前自身だ」
桜木は爆笑して言った。
「いや、お前が恋愛経験豊富だってのはよーっく解った。けどそれ、男に言う事じゃないぞ。あー気持ち悪りぃ」
早渡は顔を赤くし、ムキになって反論する。
「いいだろ、別にお前を口説いてる訳じゃないんだから。ってかそもそも、お前がそうやってぐちぐち言ってるから、俺がこうやって世話焼く破目になってるんだろーが。大体お前はなぁ・・・」
高校時代で恋愛願望の空回りが続いた早渡だった。
それだけに大学生活への期待が大きかった中、桜木に振られて落ち込む気持ちに付け込む形で、早渡は戸田を恋人にした。
性欲さえ満たせればいいと思っていた。
だが、好きな男を想いつつ自分を受け入れる戸田を抱く中で、自分が得体の知れない痛みを感じている事に気付いた。
そして彼女の本当の笑顔が見たくなった。こいつならそれが簡単に出来るのに・・・という桜木への苛立ち。
その貯め込んだ苛立ちを一気に吐き出すように、桜木に説教めいた事を言うのが、早渡は妙に気持ちよかった。




