第103話 求職者の熱い夏
七月、求人票が公開され、具体的な応募先を選んで夏休み中までに履歴書を提出する。
上坂高校は進学が多いが、何人かは就職者も居る。
もちろん成績が悪い生徒が・・・とは限らない。家庭の経済的事情もあるし、就職先でも狭き門・・・というのはある。
逆に進学でも専門学校は、あまり学力を要求しない所も多い。
夏休みに突入する中で、求職者たちは送られて来る求人票から就職先の候補を選び、企業見学に行く。決まると担任の指導で履歴書を作成する。
これに添付する内申書に書く人物欄をどう書くかも、担任には悩みの種だ。
何しろ企業に採用したいと思わせるよう書かなくてはいけない。しかし嘘は書けない。
就職組は杉原の公務員を除けば内海・坂井・山本・大野の四名だ。
このうち内海と坂井は既に志望先が決まっている。
山本も深く考えず電気工事の会社を志望した。
高い所に身軽に登れるから・・・という事で、決まったはいいが、それで安心して履歴書書きの指導を受けに来ない。
担任は矢のように催促し、水沢にも働きかけてようやく履歴書を仕上げた。
更に難物なのが大野で、担任がせっついても、あれがどーだこれがどーだと言うだけで、決まらないまま日数が経つ。
散々急かして、ようやく飲食店チェーンに応募を決めたが、履歴書の志望動機が書けない。
あれこれ問答して、それを担任が文章にして「これでいいか?」と確認して清書させる。
期限ギリギリにようやく完成して発送した。
もちろん、それで終わりという訳ではない。志望先が決まると面接練習だ。
予想される質問にどう答えるか、受け答えの態度・姿勢・声の大きさ。
特に、礼儀のれの字も無い大野の面接態度が、なかなか改まらない事に、担任も相馬も閉口した。
また、坂井が応募する会社は学科として一般常識の試験もある。
九月半ばには一斉に就職試験がある。その数日後には結果が送られて来る。
合格すればその手続き。不合格なら次を探す。
杉原は公務員試験に向けて受験勉強の日々が続く。
一次試験は九月後半。その後、二次試験の面接があるが、競争は厳しい。
進路指導室から問題集を山ほど借りて、黙々とこなす。津川が頻繁に陣中見舞いに来る。
杉原の部屋。
机に向って問題集に取り組む杉原にお茶を入れてあげる津川。
「津川君も11月には県立大の推薦入試でしょ? そっちに集中した方がいいと思うよ」と杉原。
「俺はそれなりに準備は進んでるから。それに公務員試験は倍率高いからね。様子を見ないと心配でこっちの勉強が進まないんだよ」と津川。
「そっか・・・じゃ、甘えていい?」と杉原。
「何?」
杉原は「津川君成分、補給してよ」
津川は無言で杉原を抱きしめた
専門学校志望者の多くは指定校推薦を受ける。
県内にある美術系大学や短大・私立大学も枠を貰っている。
上坂高校の名前で設定された枠なので、入りやすい。
だが、篠田と薙沢が受ける準看護学校は、人の命を扱う仕事だけに、学力を必要とし学科試験もあって、それなりに厳しい。
その日、薙沢は鹿島と打ち合わせて、街に出た。
待ち合わせた喫茶店に入る。奥の席に居た鹿島が薙沢を見て、手を上げて合図した。
薙沢が準看護学校の入試対策に悩んでいると聞いた鹿島が、経験者を紹介してやると言ったのだ。
鹿島の隣に居たその経験者は、赤松だった。
「赤松さん、看護士だったんですか?」と薙沢。
「最初はね。警察病院に入って司法解剖に関わった時、鹿島君のお父さんに出会って、助手になったの」と赤松。
「やっぱり準看護学校からですか?」と薙沢。
「そうよ。元々勉強は好きじゃなかったから、色々苦労したけどね」と赤松。
受験で苦労した事、どんな勉強をしたか、面接の様子など、冗談を交えた赤松の話を、薙沢は笑いながら聞いた。
ひとしきり話すと、赤松は言った。
「これから私の部屋に来ない? 当時使った受験関係の参考書とか対策資料とか、色々残ってるの」と赤松。
「いいんですか?」と笑顔で頷く薙沢。
「じゃ、俺はこれで」と鹿島は席を立とうとするが・・・。
「あら、英治君も一緒に来なさい」と赤松。
「俺が居て、何の意味があるんですか?」と鹿島。
赤松はそっと鹿島に耳打ちした。
「もしかしたら私、両刀使いで、薙沢さん襲っちゃうかもだよ(笑)」
「また、そういう冗談を・・・」と鹿島。
何か企んでいる様子丸出しの赤松に、鹿島は(乗せられるしか無いな)と観念した。
二人は赤松のマンションに入る。若い女性の部屋の割には雑然としている。
キッチンの奥にダイニングルーム。渡辺のマンションより小さい。
(ここで鹿島君は赤松さんに抱かれたんだ)と薙沢はふと思い、胸が少しもやもやする。
「鹿島君、今も赤松さんと?」と薙沢は鹿島の耳元で小さな声で呟いた。
「今は赤松さん、彼氏が居るから」と鹿島は頭を掻いた。
(今は・・・って事は、彼氏が居ない時には、そういう事もあるのかな?)
ダイニングにテーブルと椅子。赤松は二人をここに座らせ、コーヒーを出して一息つかせる。
参考書や問題集、古い受験要綱や案内文書、合格後の手続き資料。それらを薙沢に見せて、あれこれ話す。
問題集を開いて、薙沢に何問か解かせる中で時間が過ぎる。
やがて赤松は言った。
「英治君、ちょっとお使いに行ってきてくれないかな」
「今度は何を企んでいるんですか?」と鹿島。
「内緒」と赤松は悪戯っぽく笑った。
鹿島は溜息をつくと、千円札とメモの入った紙袋を受け取って部屋を出た
鹿島が部屋を出ると、赤松は薙沢に言った。
「ねぇ、薙沢さん、鹿島君のことが好きなの?」
俯いたまま頷く薙沢。そして「でも鹿島君、私のこと、好きになってくれませんよね?」
「ハードボイルドのヒーローだから? けど、好きになると男性恐怖症の発作が出るのよね?」と赤松。
「はい」
「看護士になるのって、鹿島君が怪我とかした時、助けてあげたい・・・とか思った?」と赤松。
薙沢は黙って頷くと「やっぱり男性恐怖症だと、看護士って難しいでしようか?」
「そうでもないと思うわよ。医者とか看護士って、弱ってる男性とかをある意味支配する立場だものね」と赤松。
「支配・・・ですか?」
「薙沢さんが鹿島君が傷ついた時助けたいと思うのって、もしかして彼を支配したいって事なんじゃないかしら」と赤松。
「そうかもしれない。男女の関係を、支配する者とされる者・・・って思っちゃう人って、いますよね?」と薙沢。
「だから漫画とかで出て来る女性指揮官って、サディスト女王様として部下の男性を痛めつけてブヒブヒ言わせたりするのよね」と赤松。
「そういうのって引いちゃうけど、私の中にも、それに通じるものって、あるのかも」と薙沢。
「それとね、何に恐怖するのか・・・って、男性の性欲というより、それで表面化してしまう自分自身の性欲が怖い・・・って心理もあるのよ」と赤松。
「解る気がします。赤松さんも、鹿島君や自分の彼氏を支配したいですか?」と薙沢。
赤松は言った。
「どうかしら。鹿島君は年下で、私を支配したいなんて思ってないし、私は彼を可愛いと思うわよ。可愛いって支配できる相手だと感じる・・・って事なのかもね。だけど彼はどんどん、支配できない相手になっていく。いい男になるってある意味、そういう事よね。恋愛の形っていろいろあって、やっているうちに形も変わっていく。そして支配じゃない恋愛の形もちゃんとあって、それが見えた時、それは恋愛の成熟って言えるのかもね」
「それが見えたら、私の男性恐怖症も治るんでしょうか?」と薙沢。
「そうかもしれないわね」
その時、玄関のドアが開いて、鹿島の声が聞こえた。
「鹿島君、帰ってきたみたい。夕食、作るわね。食べていくでしょ?」と赤松。
「手伝います」と薙沢。
「あなたは参考書をやっていなさい」と赤松。
「いえ、料理って好きなんです。家庭科部ですし」と薙沢。
「じゃ、お願いしようかしら」
キッチンで鹿島が買ってきた食材を受け取り、夕食を作る赤松。薙沢と鹿島が手伝う。
そして夕食を食べ終わると、また薙沢に問題集を解かせた。
日が暮れ、そろそろ帰ろうか・・・と薙沢が思った時、赤松は「ちょっと出かけて来るわね、すぐ戻るから」と言って、二人を残して部屋を出た。
だが、赤松はなかなか戻らない。
どこまで行ったのだろうかと、鹿島が様子を見に外に出ようとすると、ドアは外から鍵がかかっていた。
そしてドアに貼ったメモ書きに気付く。
「これから彼氏の所に行って朝帰りします。二人とも、泊まって行くわよね? ちゃんと家に電話するように。このドアは内側からは開かないので、留守番お願いね。シャワーとか寝室のベッドとか使っていいから」
唖然とする鹿島と薙沢。
悪戯っぽく笑う赤松の顔を思い出して、鹿島は言った。
「赤松さん、悪ふざけが過ぎるな。男性恐怖症の人に何て事を・・・」
「ごめんね、鹿島君。変な事に巻き込んじゃって」と薙沢。
「いや、あの人は俺をからかいたかったんだと思う。いつもの事だけど、それにしても・・・」
そう言ってテーブルの上の参考書を見る鹿島は、その出版年月日に気付く。
「これ、最近の出版だよ。自分が受験した時のものだなんて嘘ついて、何手の込んだ事やってるんだか」と鹿島。
それを見て薙沢は笑った。
そしてさっき赤松と交わした会話を思い出す。
「私、ここで鹿島君と泊まるの、嫌じゃないよ」と薙沢。
「まあ、仕方ないか。薙沢さんは寝室のベッドを使いなよ。俺はリビングのソファーで寝るから」と鹿島。
その後、薙沢はまた問題集と向かい合い、夜が更けると赤松の寝室に入り、ベッドに横たわった。
だが、このベットで赤松と鹿島が・・・と思うと、なかなか眠れない。
リビングに居る鹿島が気になり、そっと寝室を出る。
ソファーの上に横たわる鹿島。その寝顔を見ながら、そっと鹿島を呼ぶ。
(熟睡している)と感じた薙沢は、彼の寝顔に話しかけた。
「私、鹿島君のことが好き。けど、鹿島君がそれに答えてくれると、きっとまた病気が出てしまう。だから今は伝える事ができないの。いつか病気を克服して、鹿島君に愛して欲しいけど、私にはそれまで鹿島君を待たせる権利も資格も無いの。だから鹿島君は他の人を愛していいのよ。それで私がこの気持ちに向き合えるようになったら、出来る範囲でいいから私を愛して欲しいの。それまで鹿島君の、なるべく近くに居ていいよね?」
そう言って薙沢は、眠っている鹿島と唇を合わせた。
薙沢が寝室に戻ってドアを閉めると、鹿島はそっと目を開けて半身を起こした。
そして薙沢と触れ合った唇の感触を思い出す。
熱くなる胸を抑え込み、今はまだ反応してはいけない・・・と自分に言い聞かせた。




