第1話 三人デート
中条里子が県立上坂高校に入学してから2週間ほど経った。
クラスは1年2組。その中での、およその人間関係が固まりつつある様子は、クラスの人達が楽しげに会話している教室内の様子を見れば解る。
隣にいる男子は後ろにいる友達とアニメの話をしている。
隣にいるのが村上真言、その後ろにいるのが芝田拓真だ。芝田がふざけて村上の頭を軽く撫でる仕草をする。村上は迷惑そうにしているが、中条はそれを見かける度に(いいなぁ・・・)と思った。
その向こうにいるのは、クラスで一番目立つ人達。美人で性格のきつそうなのが水上千夏。隣のチャラそうな男子の直江悠也に、何やら小言を言っているらしい。それを宥めている牧村健太は、クラスでも抜きん出たイケメンで、女子の間で人気が高い。
前の席では二人の女子、杉原和恵と秋葉睦月が食べ物の話をしていた。
「駅前の郵便局の向かいのケーキ屋って、美味しいらしいよ」と楽しそうな秋葉。
そんな周囲を見ていると、中条は少し、いたたまれない気分になる。
小中と、中条にはこれまで友人らしい友人は1人もいなかった。入学式の日に話しかけてくれる人がいなかった訳ではないが、中条は会話を返すことができない。
家で家族といる時はそれなりに話せるが、家を一歩出て他人と向き合うと、必要な時でも言葉が出ない。そんな体質を中条は抱えていた。
同級生達が騒いでいるのを横目に見ながら、中条は鞄から小説を出してページを開く。特に本が好きという訳でもなかったが、他にやる事が無かった。それで時間を潰し、放課後になると家路につく。
その日、杉原達が言っていたケーキ屋の事を思い出して、駅前に足を向けた。だが店の前に立つと、中にいる客はカップルばかりで、自分が入っても場違いな気がして入店を諦めた。
帰宅して、祖父に「ただいま」と言う。祖父は「お帰り」と声をかける。家族は祖父一人だ。食事も弁当も祖父が作ってくれる。
中条はそのまま二階の自室に向かった。上着を脱いでベットで横になる。
一人が好きな訳ではない。クラスの中に一人でいる時の胸にわだかまる空虚な感覚と、どうしようもない寂しさに、時々彼女は押し潰されそうになる。
部屋には手鏡くらいはある。それで自分の顔を見つめる。
目は大きめだが瞳は小さめで、睫毛は無いに等しい。垂れた眉に大きめの口。ブスではないと思うが・・・(誰も可愛いとか思ってくれないよね)・・・と、心の中で呟く自分がいた。
そんなある日の昼休み、教室に居づらさを感じた中条は、弁当を持って教室を出て「1人になれる場所」を探して校内を歩いた。
そして特別棟の階段の屋上に上がる最上階への入り口の、立ち入り禁止になっている所を超えて上に上がった。
踊り場から上の階段は、廊下からはコンクリート製の手すりの陰で死角になっており、その上の屋上出口の踊り場の奥が、さらに死角になっている。
屋上のドアには鍵がかかっているが、曇りガラスの窓から入る光が暖かい。
中条はそこに座って弁当を食べた。食べ終わると、壁にもたれかかり、少し眠った。
ふと目を覚ますと。コンクリートの手すりの向こうで話し声が聞こえた。そっと覗いて見ると、村上と芝田が階段の途中に座って、薄い写真集のようなものを見ていた。
いつもよりテンションの高い芝田と、冷静な口調できわどい突っ込みを入れる村上。どうやら女性の水着写真らしい。
(エッチな本を見てるんだ)と状況を理解した中条は、聞いてはいけないものを聞いているような気がしてドキマギしながら、手すりの陰に隠れて様子を伺った。
そのうち、ふと芝田の「この人って何だか水上さんに似てないか?」と、クラスの女子に話題が向いた発言に、中条はハッとして耳を澄ました。
「確かに似てない事も無いが、ああいうのってタイプか?」と村上。
「まあ、黙ってれば美人なんだけど、ああいうきついのはちょっとね」と芝田。
「じゃ、岸本さんは?」と村上。
「悪くないけど、黙ってればね」と芝田。
「黙ってるのが好みなのか?」と村上。
「そういう訳じゃないんだが・・・」
「そーいや黙ってると言えば、中条さんは?」と、村上の口から自分の名前が挙がったのを聞いてドキッとしながら、中条は会話の続きに聞き入った。
芝田は少し考えると「悪くない・・・いや、可愛いと思うよ」
「・・・だよな。何か守ってあげたいタイプ・・・みたいな」
それを聞いて中条は、気持ちが暖かくなるのを感じた。
(私のことを可愛いって・・・、守ってあげたいって・・・)。
その日から、中条は毎日、この場所に来て昼食を食べながら、芝田達が来るのを待った。
芝田と村上は1日おき程度にはそこに来て、日によってはプラモやゲームや交換用のアニメデータを持ち寄って、この場所で昼休みを過ごした。
中条は、もう1度「あの言葉」を聞けることを期待しながら、彼等の会話に耳を傾けて、その時間を過ごした。
そんな事が何回か続いたある日、昼休みにいつものように中条が階段の最上階の奥で弁当を食べていると、芝田と村上がいつものように階段を上がってきて、いつもの場所に座る。
芝田は紙袋を出して、自慢気に言う。
「兄貴の海外出張みやげだ。無修正だぞ」
「それって、やばい代物なんだろ?」と村上。
「そりゃそうだ。だからお宝として価値がある訳だからな」と芝田。
中条は、今度こそ聞いてはいけないものを聞いている気分で耳を澄ますうち、彼等の会話がどんどん際どさを増す。
「この男優のって皮はどうなってんだ?」
「ここに入るんだろ?」
そんな会話が耳に入るうちに、それが表現している写真の内容が気になり出した。
動悸を抑えながら物陰からそっと覗くと、二人の背中と、彼等が見ている薄い写真誌がちらちら見える。
(よく見えない・・・)
二人がそれに熱中しているのをいいことに、中条はそっと物陰から這い出て、彼等の背後に近付いた。
見つかるかもというスリルと、初めて見る男女の交わりの姿、そして・・・。
心臓が高鳴り、頬が熱くなる。
得体の知れない高揚感が彼女の注意力を損なったのか、ふとつま先が弁当箱を引っかけて、小さな音を立てた。
それに気付いた村上と芝田が振り向き、中条と視線が合った瞬間、彼女の脳内を、それまで好奇心に押さえ込まれていた羞恥が一気に駆け巡った。
数秒全身が硬直する間、どんどん顔が赤くなっていくのを感じた。
言葉が出ない・・・というより、自分がそもそも会話できない体質だという事すら忘れていた。
この取り返しのつかない失態をどう取り繕う・・・。
たちまち思考がパンクし、立ち上がりざまにペコリと頭を下げると、全力で逃げ出そうとした、その時、芝田が中条の右の手首を掴んで言った。
「今日帰りに何か奢るから・・・何も見なかった事にしてくれない・・・かな?」
中条が呆気にとられていると、芝田はぎこちない作り笑顔で「駄目かな?」
中条は状況を呑み込めないまま、無言で頷いた。
教室に戻り、授業を聞きながら中条は思考を巡らす。
(口止め料・・・って事だよね?)
男子の見ているエロ本に興味を示し、それを覗いてしまう。
そんな失態が、まるで一方的に弱みを握った事になったような、失点を帳消しにしてもらった罪悪感にも似た、妙な感覚が気持ちをくすぐった。
そしてこの後、男子と町を歩いてお店に入って・・・。そっと右手首を触って、芝田が掴んだ手の感触を思い出す。
(これってデート・・・なのかな。けどそんな都合のいい話とか・・・。放課後になって忘れられていたらどうしよう。そもそも単なる冗談ってことも・・・)。
そんな事を考えながら、ちらちらと村上のほうを見る。自分を気にしている様子が見えない事が、彼女の不安を募らせた。
そして放課後、芝田と村上は同時に鞄を持って立ち上がると、芝田は中条に声をかけた。
「さっきの約束果たしたいんだが、行く?」
(忘れてなかった)・・・。
ほっとすると共に気分が高揚し、無言で頷いた。
二人の後をついて教室を出た。
二人の弾む会話を主導するのは芝田だ。それに村上が突っ込みを入れる。
中条は会話に加わりたい、と思うが、声が出ない。何を言えばいいのかも解らない。そんな自分が歯痒かった。
ふいに村上が振り返って、言った。
「成り行きで強引に連れてきちゃったけど、中条さん、迷惑じゃなかった?」。
中条は首を横に振った。
村上は「中条さんって、何か、一人が好きみたいなイメージがあるんだけど、そうなの?」と言う。
そうじゃない・・・と中条は心の中で叫んで、首を横に振った。
「人見知りとか、人と話すのが苦手というか、そんな感じかな?」と言う村上の言葉に、首を縦に振る中条。
「口下手なのは恥ずかしい事じゃないよ。俺だってあまり喋るのは得意な方じゃないし」と村上。
「こいつは俺がいないと駄目だからな」と芝田。
「すぐそうやって調子に乗るし・・・」と村上。
「何話したらいいか解らない・・・なんて思ってるから、会話が続かないのさ。お喋りなんてのは思いついた事言ってりゃいいだけなのにさ」と芝田。
「だから芝田が振る話題は脈絡が無いのな」と村上。
「うるせーよ」と芝田は口を尖らす。
中条は聞いていて少し笑った。
それを見た村上はふいに「中条さん、もしかして喋るのが怖い?」と言った。
核心を突かれたような気がして、中条は立ち止まった。
(そうかも知れない)・・・、そう思って俯く。
村上は「人前で喋れない人っているらしいね。結局それって、こんな事言って笑われたらどうしようとか、変なふうに解釈されて怒らせたら、とか、そういうのが先に立っちゃって、怖くて声が出なくなる・・・とか。もしかして中条さんも、そんな意識あるのかな?」と続ける。
少し考えて、中条は頷いた。
それを聞いて芝田は「そういう奴って居るよな・・・って中条さんみたいな人ってんじゃなくてさ、いちいち人の言う事を悪意で解釈する奴。あれって楽しいのかねぇ」と言って笑う。
村上も「言われた事を悪く受け取る奴なんて、何言われたって悪く取るんだよ。黙っていれば尚更さ。いちいち言葉選んで悩むだけ無駄」
そんなふうに開き直れる彼等を中条は、少し眩しく感じた。
村上は続けて言った。
「けど逆にさ、善意で受け取る人だって居るし、そう心がける事だって出来る。俺達は何だかんだ言いつつ相手が悪意で受け取らないって知ってるから、何でも言える。仲間ってそういうもんだと思うよ」
それに対して芝田は「そうなのか? 俺は初耳だが・・」とわざとおどけて言うと村上は「せっかく人がいい事言ってるのに、何で台無しにするような事言うかなぁ、この人は」
そう言ってじゃれ合う二人を見て、中条は笑った。
ひとしきりふざけると、芝田の頭をヘッドロックしている体勢で村上は、中条のほうを向いて話を続けた。
「相手が自分の言ってる事を本当に善意で受け取ってくれるかなんて、相手次第だから確実じゃないかも知れない。けど、実際にそうしてもらえるか以前に、それを期待する資格を持つ事は出来ると思うよ。つまり、自分も相手の言う事を善意で受け取るって事さ。人に優しくない奴が優しくされないのは自業自得だけど、優しくする人が優しくされなくても、彼は悪くないんだから胸を張れってね」
中条は聞いていて難しそうな事を言ってるな・・・と思ったが、村上が言いたい事は何となく理解できた。
何より、自分がちゃんと喋れる人になる事を願う・・・という想いを感じ、少し胸が熱くなった。
その間芝田はヘッドロックから抜け出すと「資格とか面倒な事は解らんけど、俺達は俺達、そいつ等はそいつ等、中条さんは中条さんだろ? そんな奴等がどう思おうが、それで俺達の何が決まるんだ? って俺は思うよ。まあ細かい事は気にするなって事さ。・・・で、中条さん、どこか行きたい店ってある?」
中条は、先日店先に行ったが入れなかったケーキ店を思い出して、その方向を指さした。
「じゃ、行こうか」と芝田が気勢を上げた。
店に入ってショートケーキを注文する。村上に「どれがいい?」と聞かれ、メニューの写真から選んで指さす。席についてからも二人の会話が弾んだ。
話題はしばしばアニメの話になって、要所要所で村上が、話を理解できるか中条に確認する。
だいぶ打ち解けたものの、まだ声を出せない中条は、首を縦にに振るか横に振るかで答えた。首を横に振ると村上は、難しそうな用語について説明した。
そのうち中条が読んでいる小説について聞かれ、本を出して見せると、その作者が原作のアニメの話題になった。
その後ゲームセンターに行き、いくつかのゲーム台で操作を教わりながら遊んだ。
店内を連れられて歩くうち、写真シールの機械が目に止まり、中条は女子達が持っていたシールを思い出した。
村上も芝田もこれはやった事は無かったが、中条のやりたそうな様子を見て、試行錯誤で撮影してシールを作った。
どれも中条にとって初めての体験で、楽しい時間はやがて過ぎて薄暗くなり、三人は帰宅に向かった。
三人の自宅は同じ方向で、商店街は学校から見て反対側にある。学校に芝田の自転車を取りに行き、家路につく。
最も近いのは中条の家で、二人の通学路に面して建っている。
二人に送られて家に向かう中条は思った。
(これって口止め料なんだよね。家に帰れば終わりなんだ)・・・。
明日からはまた席が隣というだけの、会話も出来ないただのクラスメートに戻る。それが中条にはたまらなく寂しかった。
(これで終わるのは嫌だ)。そんな想いが家に近付くとともに強く胸を締め付ける。
やがて家の前に立ち、芝田と村上は「それじゃ、また明日ね」と笑顔を向けた。
中条は俯き加減で、ぺこりと頭を下げる。
(これで終わるのは嫌だ・嫌だ・嫌だ・・・)。
そんな想いに突き動かされ、去ろうとする村上の上着の裾を掴んだ。村上は振り向き、「どうしたの?」と笑顔で尋ねた。
声が出ない。出たとしても何て言えばいい?
裾を掴んだまま俯いて立ち尽くす中条に、村上と芝田は目を見合わせると、村上は「言いにくい事なら明日聞くけど・・・」と言うと、中条は顔を上げて寂しそうな目で村上を見た。
村上は「明日も一緒に帰る?」と聞くと、芝田の方を向いて「いいよね?」と確認する。
芝田は「明日と言わず、あさってもしあさっても一緒に帰るって事でどーよ」と言って、嬉しそうに頷く中条を見ながら、村上の頭をポン、と軽く撫でた。