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アルドの花嫁  作者: 栗須まり
13/23

13.

シェイドと約束をした日までの間、アイシャは1日の殆どを例の家で過ごし、中庭に生えた雑草をむしったり、家中を掃除したりと忙しく働いていた。

改めて家の中を確認してみると、室内は西方風に出来ており、食器類や寝具、清掃用具といった生活必需品が一通り揃っている。

特別何かを新たに買い揃える必要も無かったので、出来るだけ出費を抑えたいアイシャにとっては非常に有り難かった。

ただ、これだけの優良物件をたまたま偶然出会ったアイシャに、ポンと貸し与えるシェイドの行動は謎のままで、これを理解するにはやはり”その内”が来るまで待つしかないのだろう。


シェイドとの約束の日は朝から家を訪れ、裁縫箱を片手に居間のソファへ座って縫い物を始めた。

掃除の際、納戸の奥で見付けたこの裁縫箱は、使い込まれてはいたが中身は綺麗でまだ十分使える。

そこでベッドカバーやクッションを作ろうと、宿の近くの蚤の市で布地や綿を購入して、シェイドが来るまでの時間を縫い物に費やす事にした。

義母は裁縫が得意で、刺繍や衣服の仕立て方を、アイシャにみっちり仕込んでくれた。

今考えるとあらゆる教育を受けさせたのも、裁縫を仕込んだのも、いずれアイシャが独り立ちする時に、手に職をつけておけば困らないと考えての事だったのだろう。

時には厳しく、泣きたくなる事もあったが、やはり義母からは沢山の愛情を受けて来た。

スワヒールに来てから、やたらと義母の事を思い出すのは、義母とだけは離れるのが寂しいと思うからだ。


「義母様はどうしているかしら‥?」

ポツリと呟いた途端、一粒の涙が頰を伝う。

義母に会えない寂しさや、受けた愛情に恩返しを出来ない悔しさが込み上げて、自然と涙が溢れたのだ。


「どうした?泣いているのか?」

いつの間にか居間の入り口に立つシェイドが、心配そうにアイシャを見ている。

「‥あ、これは‥気にしないで。目が疲れただけなの。それよりシェイド、いつの間にそこへ?全く気付かなかったわ」

「まあ職業柄、気配を消すのが癖になっているんだ」

シェイドはアイシャの前へ跪くと、指先で涙をすくって手の甲で頰を撫でた。

こんな事をされるのは初めてで、恥ずかしさのあまり全身がカッと熱くなる。

みるみる赤くなるアイシャの顔を見てシェイドは微笑み、ポンポンとアイシャの頭を軽く撫でると、スッと立ち上がった。


「その様子では昼食はまだだろう?念の為買ってきて良かったよ。中庭で一緒に食べよう」

「昼食‥?いけない!もうそんな時間になっていたのね!」

「俺が少し早く来たんだ。慌てなくていいさ。用意するから手伝ってくれるかい?」

「ええ。なんだかごめんなさい。私が何か作って用意しておけば良かったのに」

「君の手料理は次のお楽しみにとっておくよ。今日は美味いと評判の店から、ケバブピタを買ってきたんだ。それと西方でよく飲まれるお茶も手に入れたから、お湯を沸かしてくれないか?」

「分かったわ。西方だから‥カップは棚にあった花柄のでいい?」

「よく西方の物だと分かったな。あのカップは祖母が祖国から持って来た物なんだ」

「お祖母様の祖国?という事は‥異国人なの?」

「ああ。ヘラングという、もう失われた国の出身だ。だから俺は混血なのさ。スワヒールでは珍しくない事だよ」

カランでは混血や異国人が受け入れて貰えなかったのに、スワヒールでは珍しくない事だというのを聞くと、同じ国なのにこうも違うものかと改めて思う。

珍しくない事とは当たり前の事で、昨日体験した様に普通に接するのが彼等の日常なのだ。


「早く食べて君の勉強を始めよう。言っておくが俺は、優しくないぞ」

「ビシビシしごいて下さいね、先生!」

「君が優秀な生徒である事を願うよ」

悪戯っぽく笑いながら、シェイドはケバブピタの入った紙袋と、2人分の皿を持って中庭へ向かった。

アイシャはお湯を沸かしてカップを準備すると、シェイドの待つ中庭へ急いだ。


昼食を食べ終えると、シェイドの淹れてくれた西方のお茶を飲みながら、ダンハルク語の勉強が始まった。

一応6ヶ国語は話せるので少しばかり自信はあったが、ダンハルク語は発音が難しく、思ったより苦戦を強いられた。

「文章の組み立ては、西方の共通語であるグレシア語とほぼ同じだ。発音さえマスターすれば、すぐ話せる様になるよ」

「その発音が難しいのよね。なんだか唾が飛びそうな音の出し方だわ」

「濁点が多いからそう感じるんだ。グレシア語と違うのは、巻き舌を使わない事だよ。いいかい?もう一度俺の真似をしてご覧。ハエダー」

「ハイダー」

「少し違うな。ハエダーだ」

「ハェダー」

「もう一息。ハエダー」

「ハエダー」

「よく出来ました。これは基本的な挨拶だから、忘れない様に毎日繰り返し練習した方がいい」

「はい先生。毎日練習します!」

「素直でよろしい。教え甲斐のある生徒だ」

シェイドはそう言って満足気に笑った。

優しくないと言う割には、優しく丁寧に教えてくれる。

復習の為にダンハルク語の教本も貸してくれた。


「さてと、最初から詰め込み過ぎるのもよくないから、今日はこれで終わりにしよう。次はまた3日後になるが‥構わないか?」

「ええ、3日後ね。今度こそ昼食を用意しておくわ。それはそうとシェイド、肝心な事を決めていなかったのよね。ここの家賃はどうしたらいい?」

「それもザワージが終わってから決めよう。今は君に管理を頼んでいるんだから、むしろ俺が賃金を支払うべきじゃないかな?」

「貰えないわ!私は全く貴方に対価を支払っていないんですもの。そうだ!今日の希望がまだだったわね。ご希望は?」

「今日は‥抱きしめさせて欲しいな」

「抱き‥って‥約束ですものね。はい、どうぞ!」

少し強張りながらシェイドの前に立つと、シェイドの両腕に包み込まれた。


「ディエミハルエムウーダ」

「えっ?何と言ったの?」

「もう少しダンハルク語を勉強したら分かるよ。さて、日が暮れて来たから、宿まで送ろう。いいかい?くれぐれも夜は1人で出歩かない事!それと昼間はなるべく大通りを通る事!治安は悪くないが、異国人の出入りが激しい分、たまにガラの悪いのもウロついているんだ。君は目立つから狙われやすいと自覚してくれ」

「分かったわ。それじゃあ宿までお願いします」

そうしてこの日は、オレンジ色に染まった夕暮れ時の街並みを、初めてシェイドに送られて宿へ戻った。


読んで頂いてありがとうございます。

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