4話
朔は母親を抱きかかえてリビングに運び、ソファに横たえた。あれからずっと眠ったままだが、苦しんでいる様子はない。
何も言わずにその様子を見ていた玲璃に、朔は問いかけた。
「教えてくれる?何が起きてるのか」
玲璃はゆっくりと頷く。
「うん、分かった。あそこまで見られたらもう隠しようがないもんね」
変な好奇心を働かされても困るし、と玲璃は小声で付け足した。
「今何か言った?」
「ううん、何も」
「そっか。じゃあ、まあ座って」
「うん、ありがと」
朔はテーブルの椅子を引いて玲璃に勧め、自らは向かいに座った。
「じゃあ話すけど、今から言うことは、絶対に秘密でお願いね?」
玲璃はそう言って口の前で人差し指を立てる。
朔は玲璃の目を真っ直ぐに見つめて首肯した。
「わかった。親にも十真にも言わない。絶対に」
玲璃はその答えに満足したように微笑んだ。
「まず私が何者なのかについては置いといて、と。
この世界には今、人の体に乗り移る能力を持った『カゲ』っていう奴らがいるのね」
朔は母親の体から伸びていた複数の黒い触手を思い出した。カゲ…それが母さんの体を奪って操っていたということか。
「カゲについてはっきり分かってることは、たった二つ」
玲璃は指を二本立てて揺らしてみせた。
「一つ。奴らは人間が捨てた人格から生まれた存在だってこと」
「あれは生き物なの?」
「うん。ちゃんと意思もあるみたい」
「真っ黒いスライムにしか見えなかったけど…」
「人の体を乗っ取っていない時はちゃんとカゲ自体の姿をしてるよ。何て言うか…形は人に近いけど全身真っ黒で…シルエットみたいな感じかな。気持ち悪いよ?カエルレベルに」
「…蛙が気持ち悪いかどうかは置いといて」
「え…敵!?」
「なんでだ。目を見開くな。仰け反るな」
「爬虫類の間者!?」
「せめて両生類と言えよ」
「…ふふ」
玲璃は楽しそうに肩を震わせて笑った。
「ごめんない。ちょっとふざけてみただけ。あ、それと、今みたいにもっと砕けた感じで接してくれて良いよ」
玲璃はなおもくすくす笑う。それを見て、朔の肩の力は綺麗に抜き取られてしまった。
琴望さんってこんな感じの人だったのか、と彼は思った。
さっきは真面目な話をしていたからか少し固い感じだったけど、普段は冗談も言ったりするんだな。モテるのも分からなくない。
「えっと、どこまで話したっけ」
「カゲが人間の人格から生まれたってところ。よく意味が分からないけど」
「そうだよね……例えば、逆月くんって昔と変わった?」
「昔?小さい頃と比べて?」
「そっそ。内面的に」
朔は少し考えた。大元は対して変わっていないと思う。好奇心の強さは昔からだ。しかし、昔の自分なら夜中の調査には乗り出さなかっただろう。昔より行動的になった、という点では変わったと言えるかもしれない。
「まあ、少しは変わった…かな」
「うんうん。子供って大体みんな、大きくなるにつれて性格が変わるよね。基本的には大人っぽくなる。でしょ?
で、性格、人格の変化っていうのは、違う言い方をすれば古い自分を捨てるってことになるのね。
そうしてぽいっと捨てられて表舞台から消え去った人格が具現化した存在、それがカゲ」
「捨てられて、消えた人格…」
分かったようでまだよく分からない。捨てられた人格がなぜ、何のために再び現れるのだろう。
「それが分かっていることの一つ目だと。二つ目は?」
「二つ目は、カゲの行動原理。
彼らの目的は、自分という人格を捨てた人の体を奪うことなんだよ。
カゲは、かつて自分そのものだった人間に捨てられたことを恨んでいるみたい。だから奴らは、再び元の姿に戻るために人を襲うんだ」
「なるほど」
相槌を打ちながら、朔はソファに横たわる母親を見た。
「じゃあ、カゲに体を奪われた人は、どうなるの?」
「元々の意識を完全に失って、その体は永久にカゲのものになる」
「はっ!?」
「あ、大丈夫落ち着いて」
玲璃はぱたぱたと手を振った。
「今言ったのは、正真正銘その人が捨てたカゲによって体を奪われた場合の話。逆月くんのお母さんに乗り移ってたのは全く別の人に捨てられたカゲ。この場合は比較的簡単に追い出せるの。
さっきのカゲはもう完全に消滅させたし、体への影響も特にないから心配いらないよ」
「そうか…良かった。でもじゃあ、何でカゲは他人にも乗り移るの?そうしないと本体を維持出来ないってわけじゃないんだよね?」
「うん。運動能力も人に乗り移ってない時の方が上。
カゲが他人に乗り移るメリットはいくつかあるけど、分かりやすいトコだと昼間の行動かな。カゲは光に弱いから、昼間全般は人の体で日光を避けてるの。
夜は本体だけでも動けるけど、ほら、カゲの目的って人探しだから動き回るんだよね。
例えばさ、夜中至るところに出没する全身真っ黒の変なやつを見たら逆月くんはどうする?」
「えっ…と、通報するかな?」
「うんうん、だよね。だからカゲは『自分』を探す間、他の人の体を隠れ蓑にしてるの。
そうして社会に溶け込みながら『自分』を探して、見つけて――奪い取る」
玲璃はふぅ、と息を吐いた。
「結構一気に話しちゃったね。カゲのことだいぶ話したと思うんだけど、何か質問ある?」
「ん…」
そう言われたものの、朔にとっては常識の範囲を飛び越えた話であり、まだ聞いた話を整理し切れていない。
朔はごちゃごちゃの情報を頭の中で一つ一つ並べていった。
カゲ。人の体に乗り移ることが出来る。
カゲは、人が成長するうちに切り捨てた昔の性格――即ち幼い頃の人格が、捨てられた恨みを抱えて生まれた存在。
カゲの目的は、自分を捨てた人間の体を奪い、再び人間として生きていくこと。カゲは日々、色々な人間に乗り移って擬態をしながら目的の人を探している。
カゲは、元の人間の体に入り込めばその体を完全に永久に奪うことが出来る。しかし他人の体への乗り移りは完全ではなく、無理矢理追い出すことが出来るらしい。
といったところだろうか。理解するのにはまだ時間がかかりそうだが、大体把握することは出来た。
この時、朔は気が付いた。このカゲという存在が彼の目的に関連していた可能性に。
朔は小さく右手を上げた。
「じゃあ質問、ていうか確認?」
「はいどうぞ」
「『集団夜歩き』って、カゲの仕業だったんだね」
「そう、その通り」
玲璃は微笑みと共に認めた。
「夜出掛けるとカゲに体を乗っ取られる危険があるから、だから琴望さんは俺を止めたってこと?」
「それもその通り」
「あれは名演技だったよ」
朔がそう言うと、玲璃はゆっくりと首を傾げた。まるで彼の言う事が理解出来ないとでも言うように。
本当に演技派だ。朔は心の中でため息を吐いた。
「嘘でしょ、お兄さんの話」
「あはは、バレちゃったかー」
「初めから疑ってたよ」
「え?ほんと?」
「自分の兄が行方不明になった日を二、三日前なんて曖昧に覚えてるのは変だから」
それではまるで他人事みたいだ。
「そっか…これからは台詞にも気を配らないと」
どうやら何回か使っていた手口のようだ。
朔は玲璃の性格、所謂『表の玲璃』のことが少しずつ分かって来たような気がした。一方で『裏の玲璃』、即ち『彼女は何者なのか』というところがますます見えなくなって来ている。
カゲという謎の生命体に詳しく、その被害者を増やさないように動く少女。ただ者でないのは明らかだ。彼女はカゲそのものを消滅させてみせたのだから。
あの瞬間、朔は目を瞑っていたために何が起きたのか分からなかった。目を閉じる前、彼に見えたのは襲い来るカゲ。その後彼が目にしたのは銃を構える玲璃だ。時間にして数秒ほどしかなかったその間に、あのカゲは彼女によって消されたのだ。
「あー…琴望さん」
「なに?」
玲璃は首を少しだけ傾けて微笑んでいる。その表情からはそれ以上のことは分からない。感情なんてとても。
――琴望さんって、何者?
なんて、聞けるわけがない。それに聞いたところではぐらかされるに違いない。
朔は回り道をすることにした。
「えっと……カゲは、どうやったら人の体から追い出せるの?」
「えっとね、あのとき私銃持ってたんだけど、覚えてる?」
朔は頷いた。
不思議なデザインだったのを覚えている。
「あの銃は対カゲ用の特殊な銃でね、光の弾を出すの。カゲには効果覿面、人には無害」
どうやら手に持って見せたりはしてくれないようだ。朔は少しがっかりした。
それにしてもそんなものが開発されていたとは。作ったのは民間なのか、国なのか。
「それが当たればカゲは一撃?」
「本体に当たればね。人に乗り移ってる間は、その人の体に数発当てればその体から追い出せる。出てきたところを狙えばカゲを倒せるって感じ。
あ、そうだ。人の体の中に居ればある程度光弾から身を守れるから、これもカゲが他人の体に乗り移るメリットの一つかも」
「その銃以外でカゲに対抗することは出来ない?」
「強い打撃や衝撃を与えるっていう方法もあるけど、普通カゲ相手に接近戦なんかしたら体を盗られちゃうかもしれないから無理かな」
朔はその玲璃の言葉に違和感を覚えた。そこに更なる情報が隠れているかもしれない。朔は感じた疑問を不意討ちで投げ掛けてみた。
「普通は無理?近付いても体を盗られない方法があるみたいに言うね」
どうだ。
朔は目を光らせた。玲璃の目線や体の動き、表情の微細な変化も見逃さないように。
しかし玲璃は顔色一つ変えずに
「ふふふ~」
と微笑むだけだった。
駄目だ、手強い。既に色々と明かしてくれているものの、明かすことの出来ないラインは明確に存在しているらしい。
「そこは話せないんだね」
「ふっふ~♪」
全く隙を見せない。誤魔化し慣れている感じだ。朔が小さくため息をついたその時。
突如、玲璃がスマホを取り出して立ち上がり、素早く耳に当てた。彼女の顔が切り替わったように真剣になり、さっきまでの軟らかい雰囲気は消え去る。初めて見る玲璃がそこにいた。
「はい、琴望です……はい、そうです」
相槌をするたびに玲璃の眉間が寄っていく。
「線路脇の公園ですね…分かりました、すぐ行きます」
通話を切った玲璃の顔には明らかな焦りが見てとれた。
「何かあったの?」
そう聞いても玲璃は朔の方を見ようとはしなかった。唇を舌で湿らせ、一言呟く。
「…私、行かなきゃ」
「え…?」
「残念だけど話はここまで。じゃね、逆月くん」
玲璃はそれだけ言って駆け出した。急いでいながらも律儀に椅子を戻し、リビングのドアも丁寧に明け閉めしていた。
一瞬の出来事に言葉を返す暇もなく、朔はその後ろ姿をただ見送ることしか出来なかった。
「あ、逆月くん、家から絶対出ないでね!」
玄関の方からそう聞こえた後、ドアが閉まる音がした。
「………」
静かになったリビングで、朔は考えた。
何かが起きたのは間違いない。あれほど泰然としていた玲璃をうろたえさせるほどの何かが。
もしやあの電話は、玲璃と同じくカゲに関わっている人からだったのではないか。カゲが大規模に人を襲うか何かして、玲璃の元に連絡が入ったのでは。
そうだと断定する根拠はない。朔自身のそうなら面白そうだという期待が大きく関わっている。そういった意味では彼らしくない、冷静さを欠いた推測ではあったが、実のところその推測はほぼ当たっていた。
朔はその推測を前提にして更に考えた。行くべきだろうか、と。玲璃の話を聞いた今、この件は一般人が簡単に首を突っ込んで良いほどちっぽけなものではないということを、彼はしっかり分かっている。それでも。
朔は数秒の間迷った。
そして、自分の中の答えが既に決まっていることに彼は気付いた。どれだけ理性的に考えたところで、自分の心は押さえられない。
「…行こう」
通話中、玲璃は『線路脇の公園』と言っていた。そこまでの道は知っている。大した距離ではない。
椅子から立ち上がった朔は母を一瞥した。相変わらず静かに眠りについている。
「ごめん母さん。行ってくる」
リビングを出て、玄関に置いたままのバッグを素早く掴む。その勢いのまま、朔は夜の町に飛び出していった。