クリスマスなんてちっともロマンチックじゃない
瞬くと、不敵な笑みを浮かべるチャンピオンが拳を無数に打ち込んできた。
挑戦者の嫌な所を的確に打ち抜く妹尾。
富雄は必死に固めたガードの隙間からその雨が過ぎ去るのを辛抱強く待っている。
開始早々のダウンで視界がブレていた。
【絶対にKO負けはしない】
彼はリングサイドで見守っているであろう莉緒の顔を思い浮かべ歯を食いしばった。
★★★
タイトル戦が決まった時、嬉しさよりも戸惑いの方が先だった。
「どうして富雄に?」
疑問は莉緒から放たれた。
ランキング下位の選手にチャンスが巡ってくる確率など皆無に等しい。
「まあいいじゃねぇか」
トレーナーは場をはぐらかそうとする。
「もしかして早く試合を終わらせたいからとか…」
試合の日取りを見て恋人はそう漏らす。
「クリスマスだから」
鋭い質問にトレーナーは答えに窮して苦く笑うしかない。
「だとしてもだよ? 現役生活で一度あるかないかのチャンスじゃないか」
受けるの受けないのと問われ、富雄はもちろん受けると答えた。
そして答えた傍から怖気づいていた。
対戦相手。
それはアマの輝かしい実績を引っ提げてプロデビューし、最短でタイトルホルダーとなったサラブレットだった。
その妹尾という男がまだ練習生時代に富雄は一度、スパーリングパートナーを務めていた。
「あの時は全く歯が立たなかった」
ジムの帰り、半ば自棄気味に言う。
「勝てる見込みはないの?」
莉緒が真剣にそう訊いてくる。
「一回り年下にまるで子供扱いだったよ」
笑うのをやめて、富雄は当時を思い出した。
「見えないんだ。あいつのパンチは」
「じゃあなんで受けたりしたのよ」
怒りにも似た心配を滲ませて恋人は言う。
「トレーナーが言ってたろ? 今回を断ったら俺にタイトル戦が回ってくることなんて一生ない」
わからないじゃない、という莉緒の声は珍しく弱く響いた。
恋人も本当は理解している。
これがタイトルを取る最初で最後のチャンスだと。
「よし!」
重い空気を吹き飛ばすように富雄は一発気合を入れた。
「俺、今度の試合を引退試合にするよ」
「なにそれ。負けるって言ってるようなもんじゃない」
「勝てないよ、あいつには。正直、次元が違うもの」
真摯にそう告げると、莉緒は飲み込まずとも反論はしなかった。
「でも、あっさり負けるのは俺だってイヤだ」
絶対にKOなんてさせてやらない。
「俺、最後まで絶対に立ってるから」
そう誓うと、恋人も力強く頷いた。
★★★
第1ラウンドでダウンを取られ、その後はフィニッシュ回避で精一杯だった。
第5ラウンド。
必死で反撃を試みるもカウンターを合わされ2度目のダウンを奪われた。
「タオルは絶対に投げないでください」
富雄はマウスピースと一緒にそんな言葉を吐き出す。
絶対に倒れない。
決意を新たにゴングを聴く。
第6ラウンド。
妹尾は明らかにギアを上げる。
富雄はなりふり構わずクリンチに逃げる。
第7ラウンドも逃げきったかに思われたが、ゴング間際に三度リングに沈んだ。
それでも遠のく意識を奮い立たせ、テンカウントを数えさせない。
第8ラウンド。
妹尾に焦りが見え始める。
予定ではすでに決着がついていたのだろう。
第9ラウンド。
さすがのチャンピオンにも疲れが見え始める。
が、手数は減っても的確に顎を打ち抜かれる―――起き上がりギリギリでファイティングポーズをとるも攻勢をかけられ、さらにダウンを奪われる。
レフェリーは富雄の顔色を窺い試合を終わらせる判断をしようとするが、思い止まる。
そして最終ラウンド。
「打ってけトミオー!」
セコンドの声も遠いのに莉緒の声だけははっきりと届いた。
この状況で打てって、鬼か。
富雄は笑ってしまう。
ゴングが鳴る。
顔を上気させた妹尾は、正真正銘の本気で挑戦者を倒しに掛かる。
ランキング下位をKOできなかったとなれば、彼の汚点になりかねない。
それでも富雄は猛攻を凌ぐ。
そしてついに残り十秒の拍子木が鳴らされる。
「打てー!」
その言葉に反応して富雄は無意識にパンチを繰り出した。
―――拳は空を切り、代わりに鋭いストレートに顎を打ち抜かれた―――。
★★★
「お前、俺の話ちゃんと聞いてた?」
帰り道。
感覚の戻らない顎をさすりながら富雄は言う。
「だって、なんか悔しかったんだもん」
ずっと不貞腐れている恋人は唇を噛む。
「お前はいつだって俺の言うことなんて聞いてくれないんだ」
富雄はでも、晴れやかな気持ちで莉緒と相対する。
「そんなことないよ」
彼女は立ち止まり、口を尖らせる。
「じゃあ、今から俺の言うこと、聞いてくれる?」
「ええ、もちろん」
売り言葉に買い言葉で、莉緒はケンカ腰に彼の顔を見る。
「じゃあ、結婚するぞ」
彼女は一瞬、内容がうまく把握できなかった。
「ボクシングも今日で引退。だから俺たち、結婚するんだ」
目を丸くする恋人を見て富雄は可笑しくてたまらなくなる。
そして、
クリスマスなんてちっともロマンチックじゃない
そう思って、でも、何か言わせる前に莉緒を力一杯抱きしめたのだった。